「……あかね、抱きつかれるのは嬉しいけれど、ちょっとまずいことになったかもしれない」
両肩を掴んで引き離されて、思わずあかねが『あっ!』と声を上げた。
夢中で友雅の胸に顔をうずめていたせいで、淡いピンクのルージュがタキシードの左胸に痕を映し込んでしまっていた。
「ど、どうしよ…!?ごめん、ともちゃん…どうしたらいいんだろ……」
焦ってみても、染み抜きする方法なんてよく分からないし、染み抜きの洗剤なんかないだろうし、それに、そんなことをやっている時間なんて、もうない。
あと15分ほどで、挙式の時間だ。一体どうすればいい?
「大丈夫。このままで行こう。」
おどおどと戸惑うあかねとは裏腹に、友雅は平常心で慌てる事もなく、くるりと部屋の中を見渡してから、さきほどヨハネスが用意してくれたウェディングブーケを見つけた。
そして、その中から白バラを一輪だけ引き抜いて、左胸ポケットにコサージュ代わりに差してみる。
「これで目立たないだろう?」
幸い、ルージュの痕は小さなものだったから、大輪のバラの花でそれらは完全に隠れた。
あかねはホッとして、ソファの上に砕けるように腰を落とした。
コンコン、とノックが聞こえる。
「二人きりで幸せを味わっているのはいいが、神様も二人がやってくるのを、礼拝堂をお待ちになっているようだよ」
ドアの向こうで、ヨハネスの声がした。
いよいよ、挙式の時間が迫ってきた。また、胸がどきどきしてくる。
あかねにブーケを手渡して、友雅は少し乱れたタキシードのジャケットを正した。それと一緒に、あかねのベールも真っすぐに伸ばし直してくれた。
ふわふわの、ショートケーキの飾りみたいなドレスがなびく。こぼれそうなレースのコサージュが胸元でパール色に輝いている。
どこから見ても、童話の中のお姫様に憧れる少女の姿。それは、小さい頃に見たあかねの面影と同じ。
友雅だけが知っている、幼いあかねと、こうして今向かい合えるあかね。与える優しさは時を負う毎に濃さを増し、やがてそれが『愛』というものに変わる。
「それじゃ、行こうか」
友雅が、あかねを見下ろした。あかねは少しつま先立ちになって、友雅の頬に唇を近づけた。
式が始まる前に…点できるだけ至近距離で伝えたい言葉があった。それに合わせて、友雅が少し腰をかがめてくれる。
「ともちゃん…お誕生日、おめでと」
桜色したあかねの唇が、言葉のあとで友雅の頬にかすかに触れた。
この日に、と決めたのだ。三年前に。
年の差は永遠に狭まらないけれど、あかねより先に年老いて行くことになるけれど、その日を祝ってくれるであろう彼女と共に、その日を楽しみにしていられるように。
そうでもなければ、誕生日なんてつまらないものだと、思ってしまいそうだから。
だから、わざとその日を特別な…二人にとって最高の日にしてしまおうと、そう約束したのだ。
友雅の誕生日と、二人で生きて行くための、新しい人生の始まりの日。それもまた、誕生日と言えるかもしれない。
「あかねは本当に、幸せを運んでくれる天使だよ」
こらえきれなくなって、その唇を奪ってしまった。神様に誓うキスよりも早く。
ドアのノブを握って、ドレスの裾を少しつまんで、待合室に行こうと部屋を出ようとして振り返った。
すると、友雅は何故かドアの一歩前で、立ち尽くしてそこにいた。
「あかね、ちょっといいかな」
呼び止められて、部屋を出るのをためらった。もう一度姿勢を変えて、くるりと友雅の方を向き直してみると、それと当時に彼の手があかねの目の前に差し出された。
「部屋を出る一歩だけでいいから、あかねが私の手を引いていってくれないかい?」
「私が?ともちゃんの手を引いて?」
咄嗟に想像してみる、その光景。ウェディングドレスの花嫁が、花婿の手を引いて歩いて行く……その姿。
思い描いてみたら、自然にくすっと声を上げてあかねが笑った。
「おかしいかい?」
「だって、それって普通逆じゃない?花婿さんが花嫁さんの手を引いて、っていうなら分かるけど」
さっきまでぐしゃぐしゃになるほど、泣いていたというのに。今はそんなことも忘れたかのように、くすくすと花のように笑っている。
友雅は苦笑しながら、そんなあかねを見た。
多分、世間から見れば妙な光景だと思う。
だけど。
「廊下まででいいんだ。手を、引っ張って行って欲しい。私を、新しい世界に連れて行ってくれるのは、あかねしかいないから。」
確かに、周囲の人々が言ったとおり、これまで自分はどこか空虚感を抱いて生きて来たのかもしれない。
特に恨む人もいない代わりに、遠慮なく無心に愛せるような人もいなかった。
演奏者の感情は音に素直に反応するものだと、何度も言い聞かせられて来たけれど、彼らが言うように自分の音が変わったとしたら、そこに新しい何かがあったからだろう。
それは、完全に新しいものではなくて、昔から違う形で存在していたもので、それらが変化して…新しい何かに形を変えて友雅の前にやってきた。
彼女に引き寄せられて、そして彼女と共に歩き出して、やっと気付いた"何か"と、新しい世界に続くドアの鍵の持ち主。
それこそが、彼女なのだと今は確信できる。
少し照れくさそうに笑って、ほんの少しまた瞳を潤ませて…それでも、その笑顔はどんな花よりも愛らしくて、愛しくて。
言われた通りに、差し伸べられた彼の手を取る。
シルクとレースのグローブに包まれた、小さな手が友雅の手をゆっくりと引く。
少し前を歩く。彼の手を引きながら。
彼はあかねの後を歩く。長いベールとドレスの裾を踏みつけないように、気をつけて。
ほんの数歩しかない距離だけど、つないだ手のひらが二人を結びつけている。
お互いの想いを、体温で伝えている。一歩一歩の、意味の大切さが分かる。
あかねが自分を歩かせてくれる。
友雅が自分を包んでくれる。
それは二人にとって、『愛』の一言で表現できるもの。未来に見える、たった一つの言葉。
「さあ、恋人時間はタイムオーバーだ。」
廊下に出た二人の姿を見て、ヨハネスが笑いながら言った。彼の後ろには、夫人とメイド達が揃って花嫁を待っている。
つないだ手を、一瞬だけ外す。
「それじゃ、先に行って待っているよ」
普段通りの笑顔だけを残して、友雅は先に歩いて行った。
大丈夫、すぐに追いつく。だって、これからは一緒に歩いて行くんだもの。
どんなに先に行っていても、追いつけるし、絶対に見失わない。
いくら遠くにいたって、たった一人のその人を見失うはずがない。
小さいけれど、厳粛なチャペルの中に響く、パイプオルガンの音。ステンドグラスから差し込む、虹色の光。
古い礼拝堂で聖書を唱えた、3年と言う日々。その中に流れていたオルガンの旋律と、音楽室から聞こえていたピアノの音。
-------あの音を奏でていた人は、今、目の前で待っていてくれる。
一歩踏み出しても、その距離はもう離れたりはしない。ただ、狭まるだけ。彼の隣にたどり着くだけ。
そして、並んだその場所から……新しい時間が動き出す。
一瞬瞳を合わせて、言葉を交わさずとも……。
その笑顔は、幸せ以外に意味を持たないと分かっているから。
だから、今こそ全世界に、誓う。
良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、
あなたと共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで……?
いいや、例え死が二人を分つとも、消えることのない永遠の愛を誓おう。
身体が滅びても、滅びることのない愛を誓おう。
あなたを想い、あなたのみに添うことを、あなたと共に生きる幸せを、常に御互いに感じていられるように、
離れたくないから、愛した人と共に、生きていきたいと思うから、
あなたしか、愛せないから。誰にも代え難い人だから。
その優しさを抱いて、この優しさをあなたのために抱きながら生きることを-----------------
神聖なる婚姻の契約のもとに----------あなたとともに、誓います。
-----THE END and NEVER ENDING LOVING YOU----
※あとがきのご挨拶がありますので、よろしければ先にお進み下さいませ。