Happy Song

 009-1

「あのね……ともちゃんの、お父さんのこと……」
どんな話を切り出すのか、と、足を組み替えて気楽に構えていた友雅だったが、あかねの口から自分の父のことが出てくるとは、全く予想していない事だった。
「何で、あの…お父さんを結婚式に招待しないのかなって…それが気になってたの」
うつむいた顔が、白いベールに重なって輪郭をぼかす。伏せがちの睫毛の先に、ほのかに光るのはパールのシャドウののせいだろうか。

「そんなこと気にしてたのかい?別に、あまり大人数を揃えるつもりはないだろうと思ってたんだけどね」
本音。騒がしいのは苦手だから、親しい少人数だけでひとときを楽しみたいと考えていたから。
「でも…!」
あかねが腰を上げた。ふわりとベールがゆらいで、フリルの付いた長いリボンが足下にこぼれ落ちる。
「でも、ともちゃんのお父さんじゃない!うちの家族だけじゃなくって、ともちゃんの家族にも一緒に祝ってもらいたいもん!」
真っすぐな瞳。最上級のダイヤのように、きらきらした強い輝きを秘めた瞳。
バラの花を薄めたようなルージュで染めた唇が、震えながら友雅を捕らえる。

「いいんだよ。わざわざ招待する必要はないんだ」
真剣な顔をしたあかねと正反対に、ソファに座っている友雅は冷静だ。穏やかで、いつもの雰囲気と変わらない。
少しだけ前に腰を折って、片方だけ頬杖をついてあかねを見つめている。

「今まで話した事はなかったけれど…私の父は、現在とあるホテルの料理長をしているんだ。」
突然に切り出したのは、初めて聞かされた友雅の父の事。
いつもはぐらかされてしまって、はっきりしたことは教えてくれなかったのに。
「数年前にすべてを任されて、今は家族で別荘地のホテル近くの家に住んでいる。ホテルの仕事を兼任しながら、時々知り合いの店で開かれるパーティーの料理なども取り仕切ったり、と忙しくやっているみたいだ」
その時、友雅が口にしたホテルの名前は、誰でも知っているほどの有名なホテルだった。そのホテルの料理長なんて…もしかしてすごい地位にいるのではないか?

………?あれ?と、あかねが首をかしげた。そして、そのホテルのことを思い出してみる。
ホテルの名前、そして場所……重なる、披露宴に選んだレストランの場所。
「もしかして……っ」
やっと気付いたあかねを見て、友雅がふっと笑った。
「というわけで、わざわざ招待状を出す必要はないってこと。披露宴のコースメニューは、すべて彼に任せてあるから、招待状はなくても来ないわけにはいかないんだよ」
シェフの名前なんて書いていなかったから、気付かなかった。気付く訳がなかった。
だって、今はじめて友雅の口から、父の事を教えてもらったのだから。

とたんに、力がくたくたと抜ける。
「……どうしてそれ、早く言ってくれなかったのっ…」
「あかねが、そんなことを気にしていると思わなかったから、だよ。あとで、当日にでも紹介するつもりではいたけれど」
拍子抜けするほどに緊張が解けて、足下が崩れそうに力が抜けた。
がくりと足を付きそうになったあかねを、慌てて友雅は引き上げると、その両手を使って力いっぱい強く彼女を抱きしめた。
「……な、に…?ど、うしたの…」
黙ったまま、友雅は答えずに力を更に強めた。

このままずっと、離したくないと思った。何度も、何度もそんな気持ちに陥ったが、今ほどその想いが強まったことはない。
あかねがこの腕の中から逃げ出す余裕さえも、与えたくはなかった。
この世の終わりが来るのなら、彼女を抱きしめていられる、今がいい……なんて、結婚式に向かおうとする新郎が考えるようなことではないけれど。

「あかねは優しいね。私の父のことまで、気にしていてくれたなんて思わなかったよ」
抱きしめられたまま、耳元で友雅の声がする。
「…だって、ともちゃんにとって、たった一人の血のつながった人じゃない。一緒に祝ってもらいたいもん…」
友雅の背中に、手を回した。抱きしめられている感触が、だんだん心地良くなってきたから。
息ができないくらいに強いその力が、二人をしっかりとつなぎ止めているようで、時折目を閉じては相手の心音を探る。

「いつも、そんなあかねの優しさに支えられて来たんだ、と…今になって感じるよ」
思い返す記憶。一番古い記憶から、最近までの新しい記憶。
胸が暖かくなる記憶の中には、必ずそこにあかねの姿があったのだ。改めて、それに気付く。
あの時、いつだって自分は笑顔だったじゃないか、と。

何人もの人達に言われた、あの言葉が浮かんでくる。
「今回この国にやって来て、何人もの親しい人達に会っては、彼らの前で鍵盤を叩いた。これまでに、幾度も聞かせたことがあるはずなのに、皆おかしなことを言うんだよ」
本当に、おかしいと思う。意識した事もなかったし、指摘されたこともなかったのに、今になって皆が揃ってそんなことを口にする。
気付かないうちに、変化していた自分の音。誰もがなぞらえるようにして同じように言った。
「私の音が、優しくなった、と言うんだ。そんなこと、今まで言われた事はなかったのにね。皆、そんな同じ事を言うんだよ、不思議なくらいに、同じ事を口にするんだ」
手のひらに愛しさを込めて、あかねを抱きしめる。フリルとシルクの生地に包まれた背中に触れると、その薄さから肌の体温がじわじわと伝わってくる。

「実際のところ、私自身はよく分からない。音や技術を褒められた事は、これまでに何度もあったけれど、"音が優しい"なんて言われたのは、生まれて初めてだ」
そう友雅が言うと、あかねは驚いたような顔で彼を見上げた。
「…そうなの?私、そんなにピアノの音とか表現とかって聞き分けできないけど…ともちゃんのピアノの音って優しいなあって、ずっと思ってたから…」
これまでに何人ものピアノの音を聞いて来たけれど、友雅の音を超えるものはないと思っていた。
完璧な演奏、綺麗な旋律ならいくらでも奏でられる人がいるけれど、友雅の音だけは絶対に何か違っていると思っていたから。
耳に優しく響き、胸に優しく染み込む音。包まれていると心が安らいで、眠ってしまいそうになるくらい、暖かくて優しさに溢れていた音だと、小さい頃から思い続けて疑っていなかったから、逆に今になってそんなことを言う人達の方が、信じられない気がした。
あんなに、優しい音なんて…今まで聞いた事ないのに、と。


「ヴァンゲル氏に、夕べそのことを言われたんだよ。何故、そんな風に音が変わったのか…彼が見抜いてくれたよ」
顔が、自然にほころぶ。その意味は、すでに理解している。自分が、旋律が変化した理由。
「あかねのせいだよ」
びっくりした顔で、大きな瞳をきらきらと輝かせて、子供のときのような無垢な表情で友雅を見る。
こうやって背が伸びて、女性らしくなっても、一番大切なものは純粋なままであかねの中に存在している。

「あかねがいると、知らないうちに音が優しくなるらしい。というか、そこにいなくても…あかねのことを考えて弾いていると、音が優しくなるようだと、そう言われたんだ」
それが無意識であるということが、一番のポイントだろう。
「彼の言うところでは、若い頃の私のピアノに何か物足りなさがあったらしくてね。それさえあれば完璧だったそうだ。それが、"優しさ"というものだったんだと、夕べの演奏で気付いたみたいだよ」
正確さや技量だけで、ピアノ曲は表現できない。つねに表現力がもとめられる中で、友雅の音はトップクラスではあったが、あと少し何かをプラスできていたら、首席での卒業ができたはずだと言われた。

彼に必要だった"優しさ"。それを彼自身が理解しなくては、これ以上の進歩は無理だと思われていたそうだが、それは意外にも身近な存在を認めたときに、自然と自ら変化が起きていた。
当の本人は、何も気付いていなかったけれど。
「優しさを与える者と、優しさを与えられる者がいてこそ、その音に優しさが反映されるのだ、と言っていた。だから、もしも私の音が変わったのだとしたら、それは…きっとあかねの存在だ」
ただ素直に愛しいと感じ、彼女の存在に胸が熱くなった。いつでも、そこには春風が吹いていて、心地良い空間が形成されていた。
小さな少女は無邪気な微笑みを与えてくれて、疑いなど何もなく、真実だけで言葉を交わす事に違和感を感じなかった。

「あかねが、私を変えてくれた。どんな風に変わったのか…残念ながら自覚ができないのだけれど、でも、たった一つだけ確信できることがあるとしたら………」
ためいきが出るほどの、充実感と暖かい気持ち。人を見つめること、見つめ合うことで芽生える想い。
それを表現するとしたら……一言しか浮かんでこなかった。
「今の私は、幸せだ、ということだよ」


せっかく綺麗に化粧をしたのに、メイクが台無しだ。
溢れてくる涙がどうしても止まらなくて、声も出ないのに涙ばかりがこぼれ落ちて。
息が止まりそうなほど、胸の奥からこみ上げてくる想い。尽きない気持ち、耐えられない想い。
両手で抱きしめてくれるから、しっかりとしがみついて顔をうずめた。
「困るねえ、もう泣かせないって昨日、約束したばかりだっていうのに」
苦笑する声が聞こえた。そして、優しくベール越しに髪を何度も撫でてくれた。
「だって……ともちゃんが……そんな…こと…言うから………っ」

子供の頃から、抱きしめてくれた腕。微笑んでくれた人。私のために、ピアノを奏でてくれた人。そして、限りない優しさを与えてくれた人。
----------それこそが、誰よりも愛している、その人。





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Megumi,Ka

suga