Happy Song

 007

トラディショナルな造りの建物と違って、玄関にはセンサー付きのインターホンが取付けられていた。
スピーカーからの声と少し会話をしてから、2分くらい経ってようやくドアが開いた。
綺麗な銀髪の年配の女性が、顔を出した。60代前後くらいと見受けられるが、物腰が柔らかくとても上品で、胸元のカメオブローチも様になっている。
友雅の顔を見ると、彼女は嬉しそうに何かを話しかけた。
もしかすると、ヴァンゲル氏の夫人…だろうか?
彼の後ろに寄り添っているあかねを見つけると、今度はこちらに向けて微笑んでくれる。
そして、彼女の言葉を友雅が訳して伝えてくれた。
「"遠いところへ、ようこそ、花嫁さん”って」
延ばした両手で、彼女はあかねの手を包んでくれた。少ししわのある彼女の両手が、とても暖かかった。


部屋の中に通されると、夫人の他にメイドが2人待機していた。
夫婦2人の暮らしだと言うが、たまに訪れる客の世話などもあるということで、メイドを雇っているらしい。
アンティークが好きなのだと一目で分かる、そんな内装が広がる。ダークブラウンの調度品、磨かれた金と銀の小物達。古いホールクロックは、静かに時を刻んでいる。
「ヴァンゲル氏の部屋は、二階の奥じゃなかったかな?」
夫人に案内されたのは、階段の方向とは違っていた。その奥に続く廊下へと、真っすぐ誘われていく。
"丁度、夏の演奏会が近いということで、最近は自分の部屋にいるよりも、奥にあるピアノルームにいることが殆どだ”と夫人は言った。

ノックをすると、中から返事がした。
ドアをそっと開けて、お入り下さいという合図であかねを夫人が誘った。
だが、妙に緊張してしまって、どきどきが止まらない。
彼のことは知らないけれど、ヨーロッパで有名なピアニストで、厳しい指導で有名な人で……と、これまで聞いていた噂をまとめてみると、どんな人なんだろうかと緊張が高まる。
友雅の恩師なのだから、失礼の無いようにしなくちゃ。ちゃんと挨拶しなくちゃ、怒られちゃうかもしれない…と、色々考えては更に心拍数が高まる。
「あまり気を張る必要は無いからね。そんな、カチカチになって向かうような人ではないから」
さらっと友雅はそんなこと言うけれど、出来るわけがない。


部屋に入ると、奥にある壁は全面が窓になっていて、サンルームのように明るかった。
ガラスの向こうには、裏庭の風景がそのまま絵のように映って見える。
赤や紫やピンクの花が、深い緑にちりばめられて美しい。
その窓際に、一台のグランドピアノ。初夏の日差しが、クラウンジュエルの赤茶色に反射し、まさにルビーのような深みのある色に輝いていた。

「Schoen, dich wieder zu sehen」
ピアノの椅子に腰掛けている男性に、友雅が声を掛けた。
すると、彼はそれまで無表情であったが、とたんに口元が緩んだ。

彼が立ち上がると、友雅が歩き出した。60代半ばくらいの、比較的がっしりとした体格の男性だ。
細い黒ぶちのメガネをかけて、黙っていると気難しそうに見えなくもないが、こうして笑いながら友雅の肩を抱く光景を見る限りでは、そんな雰囲気は感じられない。
「あかね、おいで」
夫人とともに部屋の入口に立ち尽くしていたあかねを、友雅がこちらへ来るようにと手招きをする。
いよいよご対面…と言っても、もう既に見ているのだが。

近付いてみると、身長は友雅と同じくらいなのだが、体躯が立派なせいもあって威圧感は充分ある。
更に緊張が高まっていると、友雅がドイツ語であかねのことを紹介してくれているようだ。
「Oh、Akane!Ich freue mich, Sie kennen zu lernen.!Ich freue mich, Sie zu sehen.」
こちらが拍子抜けするほどに、彼は陽気に笑ってあかねを見下ろして、肩をつかんでとんとん、と叩いた。その指先は、意外にも友雅と同じくらい、長くてしなやかな指だった。

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日差しがいっぱいに差し込む部屋。美しい庭の景色を眺めながら、銀食器のティーセットに上等な香りの紅茶。
四段にも連なるアフタヌーンティースタンドには、可愛いプチフールとフルーツ、そして焼き菓子とサンドウィッチ。
庭に咲くバラがテーブルの中央に飾られて、天井からはクリスタルのシャンデリア。
まるで王宮に紛れ込んでしまったかのような、上流階級の世界が目の前に広がって…夢の中に居るようだ。

「良かった。すぐ近くにある教会に、明日のことを連絡してくれたらしいよ。」
ヴァンゲル氏との会話の中で、友雅はそう聞いたことをあかねに話してくれた。
「ドレスやメイクなども、夫人たちが手伝って下さるそうだよ。ここからも近いし、少し寝過ごしても大丈夫だね」
「そんな大切な日に、寝坊なんかしないってば!」
「今朝は随分ゆっくりだったけれど?」
「ともちゃんが起こしてくれなかったからじゃないのーっ!さっさと先に起きて、のんびりコーヒーなんか飲んじゃってー!」
膨れっ面で友雅に突っかかって、それを笑いながら友雅は押さえつけて。
そんな無邪気な光景を、ヴァンゲル氏と夫人は揃って微笑ましく眺めていた。

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これまでは一緒の部屋で寝起きするのが当たり前だったけれど、さすがに結婚前夜くらいは別々の部屋で、他人として寝た方が良いだろう、という夫人の勧めもあって、今夜用意してくれたゲストルームは、隣り合わせとは言えど別の個室となった。
女性のためにあつらえた部屋なのか、あかねの部屋はクラシックなバラ模様の壁紙で彩られ、白いアイアン製のベッドにはレースの天蓋が付いていた。
覗き込んだ隣の友雅の部屋は、というと、そちらはダークグリーンのシックな造りで、天蓋からのシェードも深いグリーンだった。

「はぁ〜。ホッとした…。ちゃんと失礼ないように挨拶できてた?私」
やっと二人だけになった部屋で、あかねは緊張感を解いて、どさっと友雅に飛びついた。
「大丈夫。そんなに気難しい人じゃなかっただろう?」
「うん、まあ…考えてたよりはずっと…楽しそうなおじさんだったけど」
もたれるあかねを抱きとめながら、友雅は思わず笑ってしまった。
あかねだから、言える発言だ。このヨーロッパで、彼のことを"おじさん"なんて呼ぶ人など、滅多にいないだろうから。

「そうだな、確かに…肩書きが分からなければ、ただのおじさんかもしれないね。でも、それでも私のピアノを調教してくれた恩師だからね。父みたいな存在と言ってもいいかな」

あ、と思った。友雅の言葉の中で、あかねは思い出したことがあった。
「ともちゃん、あの…ね」
言いかけた、その時にドアがノックされた。やって来たのは、メイドの一人だ。
夕食の支度が整ったので、ダイニングルームまでどうぞ、とのことだった。
聞きたいことあったのだ。友雅の本当の父のこと。こないだ母との会話の中で思ったこと。
結婚式に…呼べないだろうか、と。呼べないような理由があるのだろうか、と。ずっと尋ねたいと思っていたのに。
「明日までは別々ってことだけれど、たった一晩だ。そのあとは……ずっと一緒だから、今夜はお互いに我慢しよう」
引き上げ式の窓から見渡せる外の景色は、どこまでも自然の色。
ホールに続く階段を下りながら、抱き寄せたあかねの肩の耳元で、友雅はそうつぶやいた。


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とは言っても、なかなか寝付けない。
田舎の夜は早いというけれど、時間はまだ午後9時過ぎ。しかし食事もバスも使ったし、明日の用意も夫人たちが手伝ってくれたから、片付いてしまった。
明日は忙しいから、今夜は早く寝るようにと友雅にも言われてしまったし、一人で何をすることもできないので…こうしてベッドに潜ってみたが、このインテリアにも気後れしてしまって、やっぱり眠気が襲って来ない。
「だからって、寝不足の顔でウェディングドレスなんて嫌だもんなぁ…」
一生に一度の結婚式だから、一番きれいな自分でなくちゃいけない。寝不足の顔なんて言語道断。それは分かっているけれど……。

ふと、耳を澄ました。ピアノの音が、うっすらと聞こえてくる………。
何ていう曲だっけ……リスト?……
どこから?階下から………間違いなく、この音は友雅の音。
ああ、多分久しぶりだから、恩師のヴァンゲル氏の前で弾いているんだな、と思った。
隣にいなくても、こうして友雅の音を聞いているだけでも、何となく気持ちが安らいで来る。自然にこうして目を閉じれば……眠る事ができそうな、そんな気もしないでも……ない。


『"愛の夢”なんて、定番の曲はあまり弾いたりしなかったんじゃないか?君は』
ピアノ室でワインを傍らに、友雅の弾くピアノを聞きながらヴァンゲル氏が尋ねた。
『子守歌がわりに良いかと思いましてね。明日のことで、多分なかなか寝付けないでいるだろうと。』
笑いながら指先を軽やかに動かす友雅を見て、この曲を選んで弾いている彼の意味がすぐに分かった。
『随分とご執心だな。友雅が、一人の娘にそこまで入れ込むなんて、あり得ないと思っていたんだがな?』
『普通の女性なら、こうはならないでしょうけれど』

どこまでも優しい音色。ただ、綺麗で正確なだけではない旋律。
あの頃、この優しさの表現がもう少しあったなら、と何度も思ったのだが…今は溢れる程の優しさに満ちている。
月明かりが太陽よりも、ずっと穏やかに人の心へと染み入るように、彼の音はその景色を描いていた。

『おまえをこんなにまで変えるなんて、随分すごい力をもっているのだな、彼のレディは』
ヴァンゲル氏にそう言われると、友雅は苦笑しながら彼を見た。
『こちらに来て、同じようなことばかり言われるんですけれどねえ…。あの頃の私は、そんなにまで空虚な男でしたか?』
『それはどうか分からんが、何かを欲していたのは薄々感じていたよ』
それが何だったのか、今になってやっとヴァンゲル氏は理解できた。
無条件で与え、そして与えられる優しさを、どこかで彼は探していたのだと。

どちらかに偏ってはいけない。与えられるだけでも、与えるだけでも。
その調律が取れていなければ、幸せというものは訪れないのだ。
だから、あの頃の彼の音には"優しい音”が足りなかったのだ。
『あのレディなら、おまえのそれをすべて補えるというんだな』
黙ったまま、友雅は微笑んで演奏を続けた。

闇の空に浮かぶ月の明かり。
それに乗せて、旋律はどこまでも深く、広く、夜の中を漂い続ける。




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Megumi,Ka

suga