Happy Song

 006

既に初夏となったウィーンの気候は、夜になっても肌寒く感じる事はなかった。
午後8時を過ぎていただろうと思う。友雅たちはヨハネスに、入口で見送ってもらってから、歩いてホテルまで帰る事にした。
中心街はそれほど広いわけではないから、徒歩でどこにでも移動が可能だ。ヨハネスの店からホテルへの距離も、夜風を浴びながら散歩するには丁度良い。

「思いがけない出会いのおかげで、随分と遅くなってしまったね」
すでに店じまいを終えた薄暗い商店街の間を、ゆっくりと石畳を踏みしめるようにして歩いた。
差し出された友雅の腕に、手を絡めながら。
「でも、そのおかげで…ともちゃんのピアノも聞けたし、いいじゃない」
「そんなのは、別に日本でもいくらだって聞けるだろう?」
「ううん、いいの。これはこれで、いいの。」
当然のようにして、手をつなぎ合って歩く。

そういえば、日本ではこんな風にして町中を歩くことなんて、あまりなかった気がした。
いつでもどこでも、誰かの目を必要以上に気にしていて、あけっぴろげに恋人同士らしく振る舞えなかったけれど…ここでは何も気にする事はない。
手をつないでも、肩を抱かれても、腕を組んでも…平気。好きなだけ、好きなように行動出来る、そんな自由がこの国にはある。

「それに、ともちゃんの学生時代のこととか、ちょっと分かって楽しかったよ。ともちゃん、いつのまにか留学すること決めちゃって…さっさと家を出ちゃって、それっきりだったじゃない。だから私、ともちゃんがどんな風に過ごしてるか、全然分かんなかったもん」
少しすねた様な口調で、あかねが言った。

ホテルは、もうすぐ。
あっという間に、ベルボーイの待つ正面玄関のライトが見えてくる。
「説明したら、泣かれそうだと思ってね。それなら、黙って消えた方が良いかと思ったんだが…」
「黙って消えても、散々泣いたけど?お母さんから聞いたことない?」
友雅は苦笑した。それを、何度繰り返し聞かされたことか。
友雅がいない、友雅はどこに行ったのか、と尋ねては泣いて、会いたいと言って泣いて、随分困らせられたと愚痴られた。
「泣かれるのを見たくなかったんだよ。だから、逃げてしまったんだ」
正直に、答えた。
自分にとっての、一番のウイークポイント。泣いたあかねを見たくなくて、ただそこから黙って逃げたくなって、姿を消しただけ。

「ともちゃんの意地悪。そんなことするから、ずーっとともちゃんのこと、忘れられなかったんだよ、私」
フロントで鍵を受け取り、エレベーターを待ちながらあかねが言った。
大理石で彫られたデコラティブなエレベーターが、ゆっくりと降りて来てドアが開く。誰も乗っていない、空の籠だった。
乗り込んで部屋の階数を押し、上昇して行く時間。二人だけの密室状態。
内側に張られている、全身用のミラーにお互いの姿が映っている。

そっと、伸びた手があかねの手を握った。
「忘れないでくれたのだったら、あながち私のやったことは間違いではなかったって、そう思っても構わないね?」
つないだ手が、鏡に映る。前を向いたままの二人だけれど、手のひらだけはしっかりと握り合って。
「でも、あんな風に泣くのは嫌」
「もう泣かせたりはしないよ」
「ともちゃんがずっと一緒にいてくれたら……泣かないよ」
触れた指先に、光る指輪。ハートシェイプのダイヤモンドと、ファンシーカラーのピンクダイヤの組み合わせ。どんな光にでも反射して輝く、プラチナリング。
一年前に買ってもらった、この大切なエンゲージリングも、もうすぐお役目が終わる。

ドアを開けると、リビングのテーブル上にシャンパンのボトルとグラスが置かれていた。
そして、一輪のバラの花とドイツ語で書かれたカード。どうやら、挙式予定の二人へのホテルからのサービスだったようだ。
ウェルカムフルーツとチョコレート。フルートグラスに、少しだけシャンパンを注いでみる。白く細やかな泡が立ち上った。
「あかね」
少しだけグラスを口につけたあかねを、友雅が呼んだ。
「もう泣く必要は無いからね」
「……うん」
口当たりは甘いけれど、やっぱりまだアルコールは慣れていない。ほんの一口だけ舌を濡らして、あかねはグラスをテーブルの上に戻した。
完全にフリーとなった彼女の手を、友雅は取り上げる。髪をすくい上げて、重ねられた唇から、シャンパンの味が移動してくる。
すっぽりと両手で身体を抱きすくめて、軽く二回のキスを繰り返す。愛しさをそのまま表すように、かすかに、軽やかに。
そう、それはまるで…あの、彼が演奏したピアノの音のように。


+++++

目覚めたのは、友雅の方が早かった。あかねはまだ、隣で寝息を立てている。
疲れた様子はなかったとは言えど、到着した当日ではやはり疲労はそれなりに蓄積されていたのだろう。
先にシャワーを済ませ、ベランダに通じる窓を全て開け放つ。朝の清々しい風が部屋を吹き抜けた。
スタッドパークの緑は鮮やかに輝き、今日も一日中いい天気となりそうだ。

朝食は、ルームサービスで済ませた。
友雅よりも一時間ほど遅れて目覚めたあかねも、身支度はすでに整った。-----午前10時。
「あかね、車が着いたらしいよ。そろそろ出かけようか」
「ちょ、ちょっと待ってて…あれ?さっき置いといたポーチは……」
フロントからの電話を取った友雅が、ベッドの上でバッグの整理をしていたあかねに言った。慌てて、散らかったものを小さなミニボストンにしまい込む。

「荷物は最低限のものだけで充分だよ。あとは、向こうでどうにかなるだろうしね」
先にドアを開けて、友雅は入口で待っている。廊下を通り過ぎたホテルマンに、何度か挨拶をしている彼の姿はというと、全くの普段着。
イタリアンブランドのコットンジャケットだが、色と形がカジュアルなので堅苦しさが全くない。
「ともちゃんのカッコ、全然普通と変わんないんだけどー?」
あかねはと言えば、夏らしいサマーブルーのワンピースと、スワロ付きの白いミュール。一応よそ行き用として選んだものなのだが。
「何かちょっとバランス悪くない?かえって私の方がきばりすぎちゃってるように見えちゃう」
「かえって引き立って良いだろうに。隣が質素なカッコの方が。」
何のかんのと言いくるめられて、ドアの鍵をロックすると1階ロビーに下りた。
玄関前には、昨日空港まで迎えに来てくれたハロルドが、再び車で待機してくれていた。

車で1時間半ほど走らせて、ウィーン郊外に向かう。
有名なウィーンの森とは違った方向の、片田舎が今日の目的地である。
30分も走ると、車窓から見える景色は建築物がぐっと減り、青々とした緑の畑や木々が、絵はがきの写真のようにどこまでも続く。
「ウィーンの森って、ベートーヴェンで有名なとこだよね?」
友雅がいるのだから必要ないかも、と思ったのだが、一応持って来てみたウィーンのガイドブックを開いて、あかねが言った。
「あそこはいつでも日本人観光客が多いからね。結構雰囲気はのんびりしているのだけれど、あの御仁はそういうところが苦手な人なのでね、こういう別の…観光地なんて縁のなさそうな田舎に引っ込んでしまったっていうわけだよ」

これから訪れるのは、今回の旅の目的というか、ウィーンにやってくることになった理由の一つである、友雅の恩師に逢う事だった。
彼は雑踏の多い中心街の屋敷をさっさと売却して、この辺鄙な田舎に家を建てて住んでいる。田舎だけに、逢う人が最小で良いことが彼には性にあっているらしい。
そんな彼が、自らあかねに逢ってみたいというのだから、無視するわけにもいかないだろう。恩師である故に、友雅もそこまで無下にすることも出来ないわけだ。

だが、はいはいと何でも相手の言う事だけを聞くという間柄でもないので、連れて行く代わりに何かそれなりのフォローをしてもらおう、という策を立てた。
それが、ここでの挙式というわけだ。
ドレスとスーツ一式は、既に送り届けている。教会も神父も、手配してもらうように伝えてある。
ここにやって来た、もうひとつの理由---------それが、結婚式を挙げるということだ。

「取り敢えず今日は、彼の家に泊まって…式は明日の正午くらいだね。特に来賓がいるわけでもないから、式だけなら時間もそれほどかからないだろうけど」
運転席のハロルドが笑いながら何か言ったので、友雅がそれに答えた。どうやら、彼のことを来賓から忘れないでおいてくれ、と言われたらしい。
「あと、ヨハネスさんも来るって言ってたよね?それと、ハロルドさん?あと……他には?」
「その他には、ヴァンゲル氏と夫人と…それくらいだろうね」
となると、10人いるかいないかの少人数?
「本当は誰もいなくたって、いいんだよ」
ダイヤの光るあかねの手を取って、そっと包む。日本語で言ったから、ハロルドは気付かなかっただろう。
「二人だけでいいんだ。誓うのは神でもなく誰でもなく、あかねだけに誓うことだから。あかねがいれば、それでいい」

開けた車窓からの風が、心地良かった。
湖か、川の匂いが漂い始める。時々、古城の残骸が街道に佇んでいるのが見えた。
山が遠く臨み、緑の畑が一面に広がる世界。ぽつぽつと民家、そして動物の姿。
滅多に対向車も見かけない、ウィーンの外れ。クリーム色の石で作られた屋敷に、友雅たちはようやく辿り着いた。



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Megumi,Ka

suga