Happy Song

 005

深い和音が力強く響いたかと思うと、とたんに音は軽やかに流れるようなメロディーが沸き上がる。
左の指先の音に右の音が重なり、独特の優しげな音が生まれる。
「しばらく弾いていない…か。それでここまで完璧に弾きこなせるとは、まったく信じられない男だな、彼は」
呆れたようなため息のような、ヨハネスのつぶやきが隣から聞こえた。

「この曲は、ショパンの曲の中でも難曲と呼ばれているピアノ曲だ。それをまあ、複雑な進行から華やかな音まで…完璧に表現してしまっている。さすが、あのヴァンゲルの前で堂々と『幻想ポロネーズ』を弾いて、黙らせたという伝説を作った男だよ」
その曲の話は、あかねも聞いた事がある。
何でも、なかなか弾きこなせる者がいないという難曲中の難曲で、コンクールでも滅多に選曲する者はいないという逸話のある曲だ。
「それも、久々にご披露しようか?」
決して大きな声で話していたつもりはないのだが、突然友雅からそんな声がかかって、二人は同時に驚いた。
指先は動いたまま鍵盤から離れず、幻想的な音を奏で続けながらも、余裕の表情でこちらの様子を伺っている。『強者だな』、と苦笑したヨハネスの横顔が、あかねには印象的だった。
だが、言い出した友雅本人は、あっさり自分の言葉を簡単に撤回してしまった。
「と、思ったけれど、あれは私達がウィーンに来た意味を考えると、あまり良い感じの曲ではないからね。それは次の機会にしよう、ヨハネス」

相変わらず一分の乱れもないメロディーを、鮮やかで軽やかな指先の動きで奏でつつ雑談のように会話をする。
一般的な難曲と呼ばれるものは、彼にとってはそれほどのものではないらしい。
最後のひとつの音符さえも、余韻を響き渡らせる表現力。プロとして名高いピアニストでさえ、ここまで見事な演奏はなかなか聞けないものだろう。

「すごい、ともちゃん!すっごい素敵だった!」
あかねの拍手がホールに響く。ヨハネスはと言うと、ただ感嘆のため息を、何度も繰り返して感想を述べた。
「君の腕は相変わらずだな。苦手な曲などないんじゃないか、と思ってしまう。」
「この程度の曲なら、まだ許容範囲ということでね。苦手なものを出したら、そりゃきりがないから弾かないだけだよ」
そんなことを言えること自体が、普通じゃないということなのだ、とヨハネスは言いたい気持ちだった。

ステージから降りて、ピアノから離れた友雅はあかねの前に迷わず向かう。
そして、しきりに拍手をしていた彼女を引き寄せると、その賛美に礼を言うようにして頬にキスをした。
「お嬢さんが羨ましいね。生まれたときから、君のピアノを聞いて育ったなんて…夢のようだ」
二人の姿を見ていたヨハネスは、本音をこぼした。
「ヨハネス、それはこれからもずっと、続くんだよ」
友雅が答えを返す。
「リクエストを無条件で受け付けるのは、唯一あかねだけだと決めているからね」
遠慮なく抱きしめられて、あかねの顔は少し戸惑いつつも紅潮している。
彼の腕に包まれてしまうほどの、小さな彼女はまさに友雅の心臓と同類であり、彼の人生の中心であり続けるのだ。永遠に。
「……臨時定休日のはり紙を作っておくとしよう。式には、是非呼んでもらいたい。」
「私達の邪魔をしないと言うならば、遠慮なく参列してもらって結構だよ。ね、あかね?」
はた、と我に返って友雅を見て、今度はヨハネスの顔を見る。二人の笑顔に挟まれて、こくんこくんと何度もうなづいた。

あの頃の彼は、こんな瞳をしていただろうか。
やけに澄んでいた目が印象的ではあったが、それは人工的に作られたセルロイドのようで、どこまでも無機質な感じが彼自身のイメージを構成していたように思えるが、今こうして彼女と寄り添う友雅の瞳は、メープルシロップのように深くて、そして甘みがある。
彼をそんな風に変えたのが、この少女の存在であったのならば……彼女の影響力は絶大だ。

「お嬢さんは、音楽の女神に愛された方のようだね」
ヨハネスがあかねを見て、しみじみと想いを込めた口調で静かに言った。
「…え?私が?」
友雅なら理解出来るが、何故自分がそんな風に言われるのか…あかねには不思議でならなかった。
この音楽の都で、人前で演奏する技量など何もない自分が、彼にそんな風に思われる理由が思いつかない。
「そんなこと、ないですよ。私、ピアノは弾けるけれど…全然レベルは低いし、他に出来る楽器なんてないし、歌だってそれほど自慢出来るものじゃないし…!」
謙遜したつもりが、実はもっともの真実ばかりで、口に出してみてから少し情けなくなってしまったけれど。
すると、ヨハネスは優しいまなざしをして、あかねに言った。
「そういう意味ではない」
演奏家だけが、音楽の女神に愛される権利を持つわけじゃない。
その、ほとばしるような音に身近に触れられることが出来る、その意味もまた女神に愛されたという、特別な者だけの味わえる特権ではないか。

「あの友雅を、あなたは独占する力がある。それは、この世でたった一人…あなただけだろう」
二人の姿を見ていれば、分かる。愛しさを指の先まで浸透させて、そこから溢れ出す虹色の音符が見えるようだ。
うっすらと、空気の温度がそこだけ違うような。地下室のホールはひんやりしているはずなのに、二人の存在が室内の温度を春の陽気に変えているかの如く。
「音楽の女神に愛された者でなければ、これほどの演奏家を独り占めするなんて、出来ないはずだ。幸せなお嬢さんだ…。あなたを羨む者が、どれほど多くいるかな。私もその一人だということを忘れないでもらいたいね。」
あかねは、ヨハネスの顔を見上げた。
穏やかな色をした瞳は無造作に乱れることなく、あかねたちの姿を捉えていた。

「彼の音とともに生きて行けるあなたが、幸せにならないはずはない。おそらく、それは友雅も同じだろうがね。」
片手でワイングラスを軽く掲げ、少しおどけたように笑ってヨハネスは言った。
その仕草は、祝福の乾杯のスタイルにも見えた。
「良い台詞だね。」
友雅は、満足そうに彼の言葉を受け入れた。

あかねを包んでいた友雅の腕が、そっと緩やかに解けた。
そして友雅は再び二人に背を向け、さっき降りて来たばかりのステージへと戻って行き、鍵盤を前にして腰を下ろした。
薄暗いほのかな明かりが、ピアノのボディに反射して宝石のように輝いている。
「もう一曲、ヨハネスにプレゼントをしたくなったよ。祝福の言葉のお礼にね。」
ヨハネスの顔をあかねが見上げると、彼は嬉しそうに笑った。
「さて、今度のリクエスト曲はどうする?」

彼の手で演奏してもらいたい曲は、数えたらきりがない。ベートーヴェンの力強さも、モーツァルトの優雅さも、リストの多彩な和音展開も、彼の表現力にかかったらどんな音になるのか興味がある。
あれもこれもと欲張ってしまうのは、そう簡単に彼の演奏に出会うことが出来ないから。
音楽の女神に特別に愛された少女以外の人間は、限られたチャンスを有効に使おうとして選曲に悩む。
「……!」
ふと、ヨハネスは何かひらめいたようだった。
あかねを見て、そしてすぐにピアノの前にいる友雅を見た。

「このお嬢さんのために、一曲お願いしたい。君の選曲で。」
「えっ…?わ、私っ?」
ヨハネスはあかねの両肩を軽く掴んで、くるりと姿勢を回転させたかと思うと、彼女を友雅の方へ突き出した。
「君の、一番大切な宝物の笑顔のために、演奏する姿を見せてもらいたい」
ぽん、と背中を押された。それは、彼のそばに行きなさい、という意味。
友雅とヨハネスの顔を交互に伺いながら、少し戸惑いがちの足取りだったあかねだが、彼に渡された小さな椅子を一脚手に持って、友雅が手招きする場所へ進みだした。
ピアノの横に椅子を置き、真横から友雅の演奏する姿を見る位置に腰を下ろす。
「あかねのために…一曲か。じゃあ、思い出のある一曲にしようか」

宙に浮き上がった長い指先が、白と黒の鍵盤に向かって静かに落ちる。
柔らかいタッチが転がるように軽やかな音を奏で、最初の音程を探し出し、そしてメロディーが始まる。

「あ、これ…」
あかねが思わず、声を出した。友雅は何も言わず、時折彼女を見ては微笑みを与えながら演奏を続けた。
"シューベルトの子守歌"
ヨハネスは、珍しい選曲に興味深くこちらを眺め、あかねは友雅の演奏を、目を閉じたまま大人しく聞いている。
小さい頃、ずっと聞いていた曲だ。赤ん坊の頃から、この音に包まれていた。はっきり覚えている。
友雅の演奏する、この子守歌で育った……身体の奥底に、記憶は刻まれている。

何度も何度も演奏した、この曲を奏でながら昔を思い返した。
手の空いているときは、生まれたばかりのあかねの子守りを度々頼まれることがあった。
だが、高校生の友雅に赤ん坊のあやし方なんて分かるはずもなく、時折抱いてあやすくらいのことしか出来なかった。
子守歌を歌うわけにも行かないし…と悩んだ挙げ句、ピアノでこの曲を子守歌代わりに聞かせることにした。
ベビーバスケットの中に居た頃も、少し大きくなってからも昼寝の時は、この子守歌を演奏すると寝付きが良くて、何度もあかねの母に頼まれて演奏をしたものだ。

言葉も話せない、小さな子供。その時の子供が、いつのまにか時を刻んで……こうして、もうすぐ自分の妻になるために、ここにいる。

そしていつか……この子守歌を、今度は彼女が歌う時が少なからず来るだろう。
二人の未来に待っている、お互いの幸せの結晶のために。




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Megumi,Ka

suga