Happy Song

 004

ウィーンの街は、中心にありとあらゆるものがぎっしりと詰まっていて、四方八方が名所のように見える。
重厚な造りの建物は、日本では殆ど見られない古典的な洋風建築。その中に、溶け込むように現代的な建物も見え隠れしている。
友雅の腕に手を絡めながら、目につくものを指差しては問いかける、その繰り返し。
路地を入れば、そこでまた新しいものを見つけ、あれは何かと尋ねる。それに答えながら、友雅はやっと目的の店にたどり着いた。

老舗とも言える古い店だが、気取った雰囲気はまるでない庶民的なレストランは、昔からの馴染みの客に混じって若い客も結構顔を出す。
「ここは大学が近いから、学生達も大勢通って来るんだ。値段も手軽だしね、若くて懐の寒そうな学生達のたまり場みたいなものだったんだよ」
この店の目と鼻の先に、友雅が通っていたウィーン国立音楽大学がある。
通りがかった正門から望めた建物は、明るいイエローがかったベージュの壁にたくさんの窓。
広い中庭に青々とした芝生が広がり、ヴァイオリンなどを手にした学生たちが歩いているのが見えた。

十年くらい前には、あんな風にして友雅も通っていたんだな、と思うと不思議な気持ちだ。彼が学生の頃から一緒にいたというのに、あまり想像がつかない。
「学校の近くには楽器屋も多いし、オペラ座や学友協会ホールもある。あの学校に通う生徒にとっては、至れり尽くせりって感じの環境だったね」
オーストリア特産の白ワインのグラスを傾けながら、友雅はゆっくりと昔話を聞かせてくれた。

目玉焼きの載ったグヤーシュ、パスタを使ったシンケンフレッカール、ボイゲルというクロワッサンみたいなパン…友雅が選んでくれたメニューは、日本ではあまり見かけないものばかりで、初めて食すものばかりだったが、不思議と味はすんなり受け入れられた。
もちろん、あかねの要望を考慮して、パラチンケンやアプフェルシュトゥルーデルと言った、デザートのオーダーも忘れていない。

「あ、あの人たちも学生さんかな?」
あかねの視線が見つけたのは、店の奥のテーブルに腰を下ろし、グラスを手に話している男女だった。
彼らの傍らには、ヴァイオリンのケースと、おそらくクラリネットのような形のケースが置かれていた。
「持ち運び出来る楽器を扱う生徒が、ピアノ専攻の学生はみんな羨ましくてね。自分の楽器を連れて、どこにでも行けるだろう?」
「そうだね、そりゃピアノじゃ…持ち運びなんて無理だもんね」
友雅に言われて、あかねは笑った。
キーボードやシンセサイザーなら、電源のあるところならどこでも持ち歩けるが、ピアノとなっては身動き出来るはずがない。
「だから、学校のレッスン室と、あとは自分の部屋にあるピアノ。その行き来だけだったよ。あとは…たまにこういう店とかで、ちょっと練習がてらに弾いてみたりしたこもとあったかな」
「え?こういうお店で?」
クラブやラウンジなどでは、そういう風景をよく見かけるけれど、こんな庶民的な店でピアノ演奏なんてするんだろうか?
「音楽の街だから、ね。小さい店にもピアノとかあったりするところは多くて、音大生だと言うと余興代わりに弾かせてくれたりもするんだよ。時々、他の専攻の学生と一緒になって三重奏や四重奏をしたりね。多いときでは…ゼクステッド、六重奏をしたときもあったな」
「すごい!なんかそうなると、ホントにコンサートみたいだね!」

もし、自分もあのまま本気で音大に進学していたら…こうやって友雅の通った街にやってくる事が出来ただろうか。
才能の差はあると思うけれど、そんな機会もあったかもしれない、と考えてみたら、もう少し真面目にがんばっても良かったかな、と後悔したくもなる。
だけど……今こうして、一緒にこの街での時間を過ごすことが出来ているのだから、あのときの選択だって間違っていなかったと思って良いはず。



「失礼、ちょっとよろしいかな?」
その言葉は、間違いなく日本語だった。友雅の声でも、あかねの声でもない。ウィーンに来て、初めて聞いた他人の声での日本語だ。
友雅の背後に立っていたのは、上背があり髭を携えた一人の紳士だった。
グレーがかった、短めの髪。ブラウンのベストと、シャツを軽く腕まくりしている。
「お二人とも日本の方…ですね?人間違いでしたら、申し訳ないのだが……」
確かに、彼の話しているのは日本語だった。入り乱れた客達の飛び交う外国語の中で、しっかりその日本語はあかねの耳で聞き取れた。
一体この人は……誰?身なりからして、充分紳士らしい風貌の男性だが。
すると、彼の口から驚く言葉が飛び出して来た。それは、友雅に向けられた言葉だった。
「……橘、そうだ、橘と言ったか。友……tomoとあの頃呼ばれていた。今から7年ほど前になるか、そこの大学でピアノを学んでいた日本人……あなたではないか?」
あかねは声を失うほど、驚いた。
突然目の前に現れたこの男性は、友雅を知っている。それは、間違いない。しかも、かなり流暢な日本語を話している。
この人は………?

振り返って、友雅は彼の顔をしばらく眺めた。が、記憶を呼び戻すまでは、それほど時間を要しなかった。
「……ここで再会するとは、偶然としても出来過ぎのような気がするね、ヨハネス」
友雅が口にした名前は、間違いなく彼の名前であったらしく、それを聞くと男性の顔が緩やかに綻んだ。
「来るならば連絡くらいしてくれれば良かったじゃないか。滅多に会う機会などないのだから」
「あいにく、あなたの店の電話番号も住所も曖昧でね」
「そういうときは、学校にでも言づてすればいい。伊達に、学校提携の楽器屋を営んでいるわけではないんだからね」
二人は笑いながら会話をしている。が、その会話が日本語であるからだろうか、空港からホテルまでの時のような、自分だけが疎外感といった感覚は、あかねには浮かばなかった。

「あかね、紹介しようか」
友雅が少し椅子を引いて、背後に立つ男性を手でうながす。
「彼は、この近くで楽器屋をやっている、ヨハネス=イクティダール。ピアノ専門の楽器屋でね、日本のピアノメーカーで数年修行をしていたこともあって、日本語もこうやって話せるようになったらしい、ね?」
彼の顔を見上げると、ヨハネスは静かに微笑んであかねに頭を下げた。日本の風習を、彼はきちんと理解している。
「可愛いお嬢さんをお相手に、こんな遠くの国へやって来た理由が何かあるのだろう?。どうかな、場所を移動して少し落ちついたところで、話でも。もちろん、お嬢さんもご一緒に。」
レット・バトラーのように、ヨハネスは少し腰を折ってあかねを見た。
「行ってみるかい?ここからすぐ近くだよ」
その場所がどこなのかは説明してくれなかったけれど、友雅が言うのだから安全だろうと確信して、あかねは首を縦に振った。

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分厚いドアは年期が入っているらしく、そのままアンティークアイテムになりそうな、凝った彫刻のドアノブが付いている。昔は金色だったが、いつのまにか磨いても輝かなくなってしまった、とヨハネスは笑いながら言った。
歩道に面したガラス張りのショーケースには、古い音楽専門書と楽譜がディスプレイされているだけ。「Klavier」と書かれているのは、どうやら店の名前らしい。

外からは分からなかったが、中に入ってみると以外に面積は広く、小型のグランドピアノやメープルウッド製の、光沢あるアップライトピアノが何台も並べられていた。
「実を言うと、ヨハネスから調律の手法を教えてもらったんだ。専門家にはならなくても良いけれど、ピアノを弾くことを続けるのだったら、調律の方法も覚えていて損はないと言われてね。」
「そうだったんですか…。じゃあ、ともちゃんとはお付き合いも長いんですね」
店の片隅にある、ちょっときしみがかった古い応接セットに腰掛け、二人には赤ワイン、あかねにはクリームの載ったアインシュペナーを差し出してくれた。

薄暗い店内は蛍光灯のような明かりはなく、ランプからの鼈甲色した光がぼんやりと周りを照らしている。
「当時の彼は、大学でも有名人でね。『日本人留学生で、あのヴァンゲルをうならせた者がいる』と言われて、一目置かれていたんだよ」
以前聞いたことのある、友雅の恩師のヴァンゲルという教授は、ピアニストであり音大では特に気難しいと名高い教授だったそうだが、そうでもなかった、とさらっと友雅は言っていた。
その理由は、こういうことだったのか、とあかねはやっと納得した。
それと同時に、友雅のピアノの技量は彼女が思っているよりも、遥かに卓越したものであることが、こういった話からどんどん立証されていくたびに驚いてしまう。

だが、あかねはそんな彼の音を独占しているのだ。どんな時でも、リクエストすれば何でも弾いてくれる。小さい頃から、いつもそうで…それは今も同じ。
もしかして、自分はとんでもない贅沢者?!
考えてみたら、何だか気持ちが高揚してしまう。

「久しぶりにどうかな。再会の記念に一曲、聞かせてもらえないものかね?」
ヨハネスは手にしたグラスを、友雅のグラスの縁に当てて、軽い透明のある音を立てる。そして、指先を床下に向けて伸ばした。
「なるほどね…。確かに、それとは別にこのワインのもてなしを貰っては、お礼の一つくらいは当然かもしれないね」
アルコールはめっきりダメなあかねには分からないが、ヨハネスが用意してくれたワインは、かなり値打ちのあるものだったらしい。
リクエストの一曲くらい、お易い御用、というくらいの。
「いや、嬉しいね。演奏会ならともかく、個人で君のピアノを聞けるなんて、もうなかなかないからね。今後の酒の席での話題には、しばらく困らなそうだ。」
満足げに微笑んだヨハネスは、立ち上がると自分のグラスとワインのボトルを手に、更に店の奥に続く廊下に向かって歩き出した。
それに続き、友雅もグラスを片手に後を続く。もちろん、あかねの手を引きながら。


短い廊下の先には、ごついドアが一枚取り付けられていた。
戸を開けると、中はほぼ、真っ暗と言えるほどの、ごく微量の明かり。しかし、一番先を歩くヨハネスが壁のスイッチを押すと、優しい小粒のライトがあちこちに点灯して周囲を照らした。
がっしりした石造りの壁に取り囲まれ、足下には下りのゆるい階段。
「足下に気をつけて、ゆっくりとね」
ヨハネスの後を二人は続く。
そして、最後まで降り立った地下室の中には………グランドピアノが一台、真ん中をステージのようにして置かれていた。
「調律は完璧に済ませてある。まだ、時々この部屋をレンタルしたいという学生もいるのでね」
そう、ここもまた、音大生たちの生活の一部だった。練習場代わりに個人でレンタルしたり、友達同士でのミニコンサートを開いたり。
町のホールなんて借りるほどの裕福さはない彼らには、提供してくれるわずかなスペースの地下室は、いつでも心のよりどころだ。

祖末、という形容詞しか思いつかない椅子を、部屋の隅から二脚用意する。
丁度グランドピアノの前に並べて、即興で特等席が出来上がった。
友雅は、ステージ上のピアノの方へ、あかねとヨハネスは並んで特等席に腰を下ろした。
ガタ…ン、と蓋を開ける。少し黄ばんだ鍵盤の色は、歴史の深さとこれまで幾人もの演奏家に愛されて来た証と言える。
人差し指で、三つの音を出してみる。ヨハネスの言った通り、音には全く問題はない。

「さて、それじゃリクエストをどうぞ」
椅子に腰を下ろし、鍵盤と向き合った友雅が問いかけた。
「どうするかな…せっかく聞かせてもらえるのだから、選曲は慎重に選ばないと損だ。お嬢さんは、何か思い当たる曲があるかな?」
いきなりヨハネスから問いかけられて、あかねは焦った。クラシックは…それなりに好きだけれど、知っている曲なんてたかが知れている。
音楽の都ウィーンで、トップクラスの音大生たちの音に触れ続けている人を差し置いて、選曲出来るほどセンスは持ち合わせていない。
「あ、あたしはー…全然。っていうか、逆に、あまり普段ともちゃんが弾かないような曲がいいな、って。例えば、学校での課題曲とかに出るような定番の曲じゃなくて…。あ、そうだ。だったらともちゃんが学校で課題曲にしてた曲で、思い出のある曲とかがいいかな」
懸命にごまかしたつもりだったが、まあ意味は通じるか。
「思い出の曲ねえ?あまり気にしたことはないんだけれど」

「ショパンの『舟歌』はどうだい?オーディエンスも丁度2人だから、良いんじゃないかな。ショパンは得意だっただろう?」
残念ながら、あかねはその曲を知らなかった。
友雅はしばらく考えながら、手慣らしのように適当に鍵盤を叩いて音合わせをしながら、楽譜の記憶を呼び起こしているようだった。
「了解。随分弾いていない曲だけど、その曲なら大丈夫だ」
そう答えて、あくまであかねに向けて微笑んだあと、一息の深呼吸を終えてから、彼の指先が天から白と黒の鍵盤の上に舞い降りた。



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Megumi,Ka

suga