Happy Song

 003

約半日のフライトを終えて、辿り着いた初めての国は、青い空が眩しく輝いていた。
うっすらと白い雲は、少しだけ傾いた太陽の光に照らされて、金色の縁取りを伴って天上に浮かんでいる。
湿気が少ないせいだろうか、からっとしていて身体にまとわりつく汗は、あまり感じられない。海外とは、大概そういう気候なんだ、と友雅は言った。

「あ、ケーキ売ってる。ザッハトルテって名物だったよね?」
空港のロビーでくつろいでいると、スイーツショップにあるケーキの写真を、いち早くあかねが見つけて友雅に聞いた。
「ザッハトルテは二種類あるんだよ。どうせなら、日本に出店していないオリジナルのザッハトルテを食べてごらん」
「え?そうなの?違うの?」
「私は甘いものは詳しくないからねえ…。明日にでも、観光ついでに連れて行ってあげるよ」
そう言うと、あかねは全身で喜びを表すように笑った。

これが、もうすぐ自分の妻になる女性なんだな、と思うと不思議な気持ちの反面、その無邪気さに思わず笑みが浮かんでくる。
長いフライトを終えたばかりだというのに、空港に降り立ったとたん、疲れも見せずにあちこちをキョロキョロ。
ケーキを見つけては、嬉しそうに笑顔を見せる。
決して大人の女性と言うには…まだほど遠いけれど、その声も笑顔も、友雅にとっては愛しいものばかりだ。
今はまだ、幼い頃の面影が色濃く残る。しかし、これから二人で歩いて行く日々の中で、彼女が大人の女性らしく変化していく様を、一番近くで眺めていられるのは幸福以外何ものでもない。

「Willkommen Tomo!! 」
聞き慣れた声が、友雅の近くで聞こえた。
声のする方向へ目を向けると、歩いてきたのはカジュアルなグレーのジャケットを羽織った、背の高い紳士だった。
友雅が立ち上がるのを見て、あかねも慌てて立ち上がる。紳士はこちらに近づいてきて、友雅と親しげに握手を交わしながら話している。

はっきり言って、ドイツ語なんて全く分からない。せいぜい、さっきの”Tomo"が友雅のことを言っているのだろう、と気付いたくらいだ。
しばらくして、友雅があかねの方を見て紳士に何かを言っているのが分かった。おそらく、相手に自分の事を紹介しているのだと思う。取り敢えず、片言の英語でちゃんと挨拶をしないと…と思ったが、なかなかこれもまた緊張する。
「Akane?」
紳士の方から、名前を呼ばれた。慌てて『Yes!』と答えると、彼は大きな手を差し出して豊かな笑顔であかねを見下ろした。
そういえば、友雅よりも10センチほど背が高い。随分と長身の紳士だ。
「Welcome! I'm grad to see you!!」
あかねの手を握って、紳士は喜びながらそう挨拶をした。
「ハロルドは英語も話せるんだ。ドイツ語よりも、まだ少しは分かるだろう?」
まあ、確かに。っていうか、英語もそれほど得意じゃないのだが…特にヒアリング。でも、全く未知の世界のドイツ語よりは…まだマシか。
とは言え、日常的にはやはりドイツ語が殆ど。通訳という意味でも、友雅のそばからは離れられないな、とあかねは心底思った。


+++++


ハロルドと言う紳士は、空港まであかねたちを迎えに来てくれたらしい。
車の中で話を聞いたところ、彼は友雅の留学先の大学でチェロの講師をしていたのだそうだ。サロンコンサートで友雅と会う機会が増え、親しくなったのだという。

窓から見える景色は、日本で見慣れたものとは全く違っていた。
古い石造りの建物、レンガ敷の歩道、街路樹の緑の色さえも違って見える。格子窓と、花が咲き乱れるバルコニー、街灯のデザインはアンティーク風。
まるで、物語の世界に迷い込んだような…そんな風景だ。
「そろそろ疲れた出て来たかい?話をする力もなくなってきたかな」
さっきから一言もしゃべらなくなっているあかねに気付いて、友雅が声をかけた。ミラー越しに見える運転席のハロルドも、後ろの二人の様子を気にかけているようだ。
「ううん、大丈夫。えっと……まだ、ホテルは遠いの?」
「…そうだな、あと10分くらいだろう。立地の良いところを選んだから、行きたいところがあれば連れて行ってあげるよ。」
予約したホテルは、中心街の真ん中。徒歩圏内にあらゆる名所の揃った場所にある。
オペラ座、市立公園、そして友雅が通っていた大学も程近い。彼にとっては、慣れた町並みと言ったところだろうか。

「?」
ちらっと視線を動かした先で、ハロルドと目が合った。
彼はにこっと笑うと、友雅に何か言っている。英語らしいが、残念ながらヒアリングに自信がないので、聞き取ることは難しい。
それを気付いたのか、友雅がこそっとあかねの耳元で、ハロルドの言葉を伝える。
「"彼女は、本当に可愛いお姫様だね"って。」
慌てて前を見ると、彼はあかねの視線に気付いて、もう一度微笑みを返す。
「サ、THANK YOU!!」
あかねの返事に、ハロルドはサムアップで応えた。


到着したホテルはシュタットパークに面しており、予約した部屋は丁度パークを望むことの出来るスイートルームだった。
真っ白な格子窓からは、公園の緑が眩しく輝いている。アイボリーとクリーム色を基調にしたインテリアは、クラシックな雰囲気の中にも暖かさを醸し出していた。

「さて、まずは荷物の整理かな」
先に到着していた数個のトランクケースを開けようと振り返ると、一緒に部屋に入ったはずのあかねの姿がなかった。
一体どこに行った?と言っても、いくら広いとは言えど、この部屋のどこかにいるのは間違いない。
くるっと一周視線を回してみると、隣の寝室にあるベッドの上に寝転がっている、あかねの足下が目に入った。

「どうした?疲れて具合でも悪くなったのかい?」
指先が、髪の毛をすくうように触れる。耳元を撫でながら、頬にそっと手を添える。
「ん…別に何でもないよ?疲れちゃったのは、確かだけど…」
マットレスのクッションが、二人分の体重でずっしりと沈む。あかねの隣に寄り添うようにして、友雅はベッドの上に腰を下ろした。
「このまま休むかい?外に出たくないなら、ルームサービスでも頼もうか」
「ううん、大丈夫。そういうわけじゃないの。別に……何でも…」
あかねの言いかけた言葉を、友雅の指先がせき止めた。
「何でもない、っていう顔じゃないだろう?気になることがあるなら、言いなさい。楽しそうな顔を見られないのが、どれだけ辛いか分からないかい?」

ホントに何でもない、のだ。特に、不満があるわけじゃない。
こんなに素敵なホテルの部屋を用意されて、しかもすぐそばにはたくさんの観光名所があって、初めて見る海外の街は別世界そのもの。
そこに友雅と二人…文句なんて何もない、けど。
「……?」
友雅の腕に、ぎゅっとあかねがしがみついた。突然のことに、友雅も黙ってその様子を伺う。
「別になんでもないの。ただ、ね……」
「ただ、?」
一息、呼吸を挟んであかねの声が続いた。
「何か…ね、ともちゃん、ずっとドイツ語で話してたから…。私、ドイツ語も英語も全然わかんないし…。何か、一人取り残されちゃったみたいで、ちょっとだけ寂しくなっちゃって、部屋に着いたら気が抜けて…」
日本と違う文化の街は、見ているだけなら楽しいに違いないけれど、すぐ隣にいてくれる人が別の言葉を平気で話していると、何だが不安になってくる。
この手を離されたら、一人でどうやって右も左も分からない街を歩けばいいのか。そんなことを考えてしまって…。

「何年もここで過ごして、慣れすぎてしまってたのかな。初めて海外に来たあかねが、そういう風に感じるのは当然かもしれない。」
そう言って友雅は、あかねの背中に回した手に力を入れて、彼女の身体を腕の中に引き寄せた。
「大丈夫。単独行動をするために、この国に連れて来たわけじゃないからね。ずっと一緒にいるために、こうしてやって来たのだから。」
少し緩んだネクタイの襟元から、柔らかいコロンの香りがする。深くて甘い声が耳元で聞こえて、馴染んだ手のひらの感触が身体を抱きしめる。
変わらない、そのぬくもりは日本じゃなくても同じ。いつも包まれている、その腕の中はあかねだけの聖域。

「…ごめんね、変なこと言って困らせちゃって」
気分が少し落ち着いたのか、あかねはやっと身体を起こして、まっすぐに友雅の顔を見た。
「いや、気付いてやれなかった私も悪かった。あまり気にしないで、分からない事があれば何でも聞いて良いんだよ。お姫様の通訳係なら、いくらでも歓迎するからね。」
友雅はそう言って笑うと、ふざけ半分にあかねの手を取って、その指先に軽くキスをした。

「さあ、食事はどうする?ルームサービスにするかい?それとも出かけてみようか?」
時間はまだ、午後4時を回った頃。ディナーには早いし、ランチには遅すぎる。
外は明るくて、夕方という雰囲気ではない。窓から見下ろす外の景色も、人通りは減る気配もなかった。
「じゃあ、せっかくだから外に行く!美味しいお店とか、あるかなぁ?」
涼しい風が、目の前の公園の緑の香りを乗せて、部屋の中へと流れ込んで来た。クリーム色のレースのカーテンが、ひらりと舞うように揺れる。
「お任せ下さい、お姫様」
友雅はあかねの手を取り、その身体を引き上げた。
初夏のウィーンは、まだまだ夜の闇に覆われるまでは時間がかかりそうだ。




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Megumi,Ka

suga