家に帰ると、結構母は平然とした態度だったので、ちょっとだけ拍子抜けをしたが、『パーティーで料理は出るだろうと思って、お寿司は明日頼むことにしたから』と母は言った。
あかねは輸入物のソーダの空き瓶に水を入れて、もらった花束を生けた。
数本の花だけれど、色の着いた英字ラベルのボトルにさしてみると、なかなか見映えして見えるのが不思議だ。
「そうだ、あなたお父さんに卒業祝いにって帽子ねだってたでしょ。あれ、買って来てくれたみたいよ。部屋に置いてあるって。」
「えっ!ホント?やった!」
お小遣いではちょっと厳しい値段の、春らしい色のキャスケットが欲しくて仕方なかったが、ダメもとで父にねだってみたかいがあった。
父は明日仕事が早いということで、既に床に付いてしまっているらしいので、朝起きたらお礼を言おうと決めて、さっそくあかねは二階の部屋に上がって行った。
ドアを開けたとたん、いつもとは違う香りが暗闇から漂っていた。
芳香剤とかの匂いではない。何だろう…こんな匂い、自分の部屋にはなかったはずなのだが。
照明のスイッチを押した。ぱっと明るくなった光の眩しさに一瞬目がくらんだが、次の瞬間に目に飛び込んで来たのは、まさに春の景色だった。
直径50センチはあるだろうと思われる、ピンク色のリボンをあしらったバスケットの中に、ぎっしり詰まった色とりどりの小花。
その周りを、赤いミニバラが縁取るようにちりばめられている。
そして何よりも目を奪われるのは、その全体に生けられた桜の枝だ。それらはさっき街路樹で見た枝とは違って、すでに蕾を広げて開花している。
枝振りは小さいが、間違いなくそれは桜の花。
開花まではもう少しかかると言われていたものが、あかねの部屋の中では満開に近いほど鮮やかに咲いている。
まるでそこだけが、4月を迎えたかのように。
「すっごい…桜のフラワーアレンジって初めて見た…こんなのあるんだ」
花束やアレンジメントと言えば、バラやガーベラや百合などが定番だと思っていただけに、興味津々で近付いてみる。
洋風のボリュームと、和風の静かな美しさが妙にマッチしているのが不思議な感じ。しげしげと間近で見れば見るほど、圧倒されるほどの存在感。
まだ暖房を付ける前なのに、この花を見ているだけで春の陽気を感じそうなほどだ。
「…あ、カード…」
バスケットの下に、白い封筒に入ったカードが添えてあったのを見つけて、あかねは手に取った。
記された名前は見なくても、こういう事をする人は何となく予想がついたのだけれど。
エンボスのバラ模様が入ったカードには、青いインクでしたためた文字が書かれている。
”卒業おめでとう。開花時期は間に合いそうにないから、再会した日に咲いていた桜を添えた花をお祝いに贈るよ。
これからは3年間と言わず、ずっと一緒にいよう。"
壁にかけられている時計を見た。
外で別れてから、どれくらい時間が経っているだろう?……まだ10分は過ぎていないはず。
駅までのバスは終わっているから、多分歩いて向かっていると思う。それなら、追いつかないだろうか。
「ちょっとあかね?あんたこんな時間に、どこに行くの!?」
階段を駆け下りて、玄関を飛び出して行ったあかねの背中に母が叫んだ。
「コ、コンビニに用事!」
詳しい説明なんてしていられない。何とか追いつきたい。
直接会って言いたいことが、どうしてもある。
+++++
冬が来てからしばらく経つのに、まだ夜の気温は"春遠からじ"の言葉を彷彿させる。
自販機の缶コーヒーは熱いはずなのだが、その熱さを心地いいと感じる。吐き出す息とコーヒーの湯気が、闇の中に白く浮き上がる。
住宅街にある小さな公園は、すべり台とブランコ、そして砂場くらいのこじんまりとしたものだ。
昔まだあかねの家に下宿していた頃は、幼い彼女を連れて何度も遊びにやってきたことを思い出す。
街灯は葉のない木のシルエットを描き出している。ベンチは座ってみると少し軋んだが、まだまだ使えそうなほどしっかりしていた。
砂場で汚れるくらいに遊んで、ブランコを後ろからこいでもらうのが好きで、そんな風に毎日を笑顔で過ごしていた少女は、時間と共に成長して…そしてまた友雅のそばにいる。
「卒業…か」
さっきは寂しいと言ったけれど、そんなに悪いことばかりではない。
学生でしか出来ないこともある半面で、学生でなくなれば出来ることもある。どちらが幸せなことなのかと問われれば、人それぞれだと思うけれど。
"Over The Rainbow”……虹の彼方には、何がある?
ジャケットの内ポケットに入っている携帯が、振動と共にメロディを奏でた。
『も、もしもし?ともちゃん!?今、どこにいるの!?もう駅に着いちゃった?!』
慌てふためいて息を荒くしたあかねの声が、携帯のスピーカーから響いて来る。
「……いきなりどうしたんだい?。まだ、近くの公園にいるけれど…」
『ちょ、ちょっとそこで待ってて!すぐに行くから待ってて!』
一方的にしゃべった後、電話はぷつりと途切れた。
こんな夜遅くに一人で外出なんて、とたしなめる隙もない。そうなったら、このままで待機しているしかないだろう。
下手に動いてすれ違いになってしまったら、それこそ大変だ。
電話が切れてから、ほんの1〜2分だった。すべり台の近くにある公園の入口から、制服のままであかねが走って来た。
「夜の一人歩きは物騒だから、やめるように言おうとしたのに……」
勢い余って、友雅の手のひらから缶コーヒーが離れて、カラカラと足下へ転がった。残った少しのコーヒーはこぼれて、土の中へあっと言う間に染み込んで行く。
空っぽになった手で、飛び込んで来たあかねの身体を包む。強くしがみつく彼女から、柔らかい香りが夜の空気に混ざって浮かぶ。
「……何?何でここまで追いかけて来たんだい?夜は出歩くなって言ったばかりだろうに」
「ともちゃん…私ね、さっきまで『卒業して寂しい』って思ってたよ。でも、そうじゃないって分かったの。」
長くしなやかなその手で髪を撫でてもらいながら、あかねが小さく言葉を続けた。
「卒業したら…もう、ともちゃんと離れなくても良いんだよね?」
胸の奥から聞こえる鼓動に、耳を澄ます。目を閉じて、ゆっくりと心音が頬に伝わってくる。
暖かい腕と広い胸は、あかねだけの居場所。そこに身体の力をすべて預けて彼からの言葉をじっと待つ。
「そうだよ。ずっとこれからは、何も変わらない。」
「…もう、どこにも行かないよね?勝手に、どこかに行っちゃうなんて…しないよね」
そばにいてくれると思っていた友雅が、いつのまにか渡欧してそのまま家に戻らなくなってしまった、幼い自分の記憶。
泣いても慰めてくれる人はいなくて、どこに行けば会えるのかも分からないまま、それでも彼を追いかけていた。もう二度と、あんな経験はしたくない。
「行くところも、戻るところも、あかねのいる場所が私の居る場所だ。これからもずっと、そうだよ。」
両手をあかねの頬に添えて、間近に顔を近づける。少し潤んだ瞳をしているが、柔らかく浮かんだあどけない笑顔は、ほころび始めた櫻の蕾のようだ。
「保護者の役目は、とうの昔に終わっている。そして、先生と生徒の3年間は今日でおしまいだ。明日からは……ただの、好きな者同士だよ。何の余計なものもない、ただ、あかねのことを好きな男になるよ。」
つま先を立てなくては背の高さは補えないけれど、真っすぐ見つめる視線の位置は同じ。
彼が見つめる瞳で、彼を見つめる。映すものは、目の前に居るたった一人だけ。その人のためにあるスクリーン。
「私なんか…ずっと前からおんなじ。ずーっと前から、ともちゃんだけ大好きなあかねだもん。」
「それじゃあ、その分はこれから倍返しにしてあげるよ。」
そう言って、友雅は周囲をためらう事なく唇を重ねた。
ほろ苦い缶コーヒーの香りが、触れた唇からあかねの唇へと移行する。お互いに解れないように、背中に回した手に強く力を込めた。
額のキスよりも甘くて熱いキスは、少しだけ大人の味わいがした。
「桜が咲いたら、どこかに見に見に行こうか?」
もう一度あかねの家までの道を辿りながら、友雅が言った。
「学校には戻れないけれど、外ならどこにでも行ける。少し遠出してみるのもいいだろうしね」
「ホント?それじゃ、桜の名所探しておくね!」
小さい頃のように、お互いの手をつないで帰り道を歩く。
夜風はまだ冷たいけれど、街路樹の桜の蕾はじきに花開くときがやってくる。
3年間を過ごした場所ではない桜の木の下で、春の風を感じる時。
愛おしさを紡いで歩く、新しい二人の春が始まる。
-----THE END------
Congratulations on your graduation!
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