桜 風

 003
どうあがいてみても、1日は24時間しかない。寝ずに休まずに遊び続けても、1日限りと言われたら1秒でもオーバーする事は許されない。
時間というものはとても厳格で、それでいて融通が利かない。
今日のような日は、そう思わずにはいられない。
楽しい時間を過ごしても、終わりが近付くと気持ちはトーンダウンする。
笑いすぎて出た涙が、ちがうものとしてもう一度溢れ出して来る。
3年間の思いはあまりにたくさん有りすぎて、思い出すにはとても時間がかかりそうで。

ステージ上には松下が上がった。片手にマイクを持っている。そして、そのステージの裾に置かれたグランドピアノには、友雅が座っている。
「さて、そろそろパーティーもお時間が迫って来ましたので、皆さんとあの歌を合唱して、最後の想い出を作ろうと思います。」
音を調律する鍵盤の音が、小さくホールに響く。
「覚えているかしら。入学して間もない頃に授業で教えた歌です。」
3年前。始まったばかりの授業の中で、松下が英語の時間に教えてくれたもの。
”まずはこの曲を覚えて、英語にもっと親しんでみましょう”
そういって彼女が教えてくれた歌は------------------『Over The Rainbow』。

ピアノの伴奏が流れ出す。マイクを持っている松下が、指揮者の真似をしながら指先でリズムを取る。
そして誰もが、歌詞を口にし始める。
はじめは歌詞を暗記することも大変だったのに、今では何も見ずにソラで歌えるほど記憶に刻まれてしまった、この歌。

-----虹の向こうの高い空の上に 子守唄で聞いた国がある
-----虹の向こうには青い空が広がり そこはどんな夢もかなえられる
-----虹の向こうには青い鳥が飛んでいる 
-----鳥たちが虹を越えていけるのなら きっと私にもできるはず
-----幸せの小さな青い鳥のように 私にもきっと虹を越えていけるはず--------------

立ち止まらずに、虹を越えて新しい場所へ。夢を叶えることの出来る、新しい場所へ向かって歩き出そう。
想い出を抱きながら、それぞれの希望が輝く世界へ。

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もちろん”さよなら”の挨拶もあったけれど、大半は附属の大学か短大に進学する生徒が多いので、”また新学期に”という挨拶も多かった。
けれど、やはりこれから社会人になるような友達との別れは、しんみりしてしまって抱き合いながら泣いたりもした。
笑って泣いて…まるで高校生活そのもののような場面。
思えば、そんなことばかりの3年間だったと感じる。
「楽しいことが記憶として思い出せるだけでも、良い学校生活だったと言えるんじゃないかい?」
すっかり暗くなった帰り道を歩きながら、友雅がそう言った。

夜はもう更けていたが、今夜は何となくタクシーを拾って帰る気分じゃないから、という彼女の気持ちを聞き入れて、代わりに自宅まで友雅が送って行くことになった。
ゆっくりとした足取りで、ふと見下ろしたあかねの手には、卒業生全員に配られたスイートピーとオレンジのバラの、小さな花束。
まるで蝶がバラの周りを舞っているかのように見える。
「…終わっちゃったんだなあ…って、何かそんな感じ」
手持ち無沙汰で花束を揺らしつつ、遠い目であかねがつぶやいた。
「何か、あんなに一生懸命勉強して入学したのに…今になってみたら3年なんてあっという間で…。もっといろんなことが出来たんじゃないかなあ…とか、やり残したことがあったんじゃないかなーとか、まだちょっと考えちゃうよ」
考えたところで何にもならないし、もう一度やり直すことなんで出来ないと知りつつ、そんな風に思ってしまう。
無意識のうちに、まだ高校生活が名残惜しいと感じているからだろうか。

「あっという間だったかもしれないけれど、私は充分なくらいの3年間だったと思うよ」
「……そう?」
「あかねがいてくれたからね」
友雅の言葉に、あかねが顔を上げた。
「教鞭を取って何年も経つから、色々な生徒と学校生活を過ごしたし、それだけ多くの卒業生を何度も見送って来たけれど、今年が一番充実していたよ。」
はじめて新入生の名前を見たときの、驚きと懐かしさ。
十年以上の期間を挟んで聞いた声は、幼さもなくなっていて、それでいて無邪気な口調は変わらなくて。
それなのに、目に映る姿は日に日に輝きを増してきて、その眩しさに目を奪われて。
幼い少女を愛しんでいた頃とは違う気持ちで、別の愛しさを抱き始めた自分に気付いた3年間の記憶。
「あかねがうちの学校に入学してくれて良かったよ。受験は大変だっただろうけどもね」
「そりゃもう…。ガリ勉しちゃったもん。毎日必死の努力の末の合格だったんだから。」
苦労した受験生活も今となっては笑い話になるけれども、あの頃は本当に必死だったのだ。
友雅がこの学校に勤務していると母から聞いて、絶対に入学して会いに行くんだと決めて。周りから無理だと言われつつも無心になって頑張って頑張って…。
そしてやっと再会出来たときの気持ちは、今も忘れられない。
覚えてくれているだろうか?忘れられていないだろうか…と不安になりつつも、思い切ってかけた電話。でも、何も言わずに気付いてくれたときの嬉しさ。
ようやくもう一度、彼に近づけた…と思った。


ぴたり、と突然友雅が一本の街路樹の前で足を止めた。慌ててあかねも揃って足を止める。
「どうしたの?ともちゃん」
彼の手が宙へ伸びて、その枝垂れた枝をそっと引き下げて指で示す。
「蕾がほころび始めてる。今年は暖冬だったから、桜が咲くのも例年よりずっと早くなりそうだね」
普通なら四月の十日前後に満開となる桜も、気象庁の予報ではぐんと早まりそうだとニュースで何度も聞いたが、こうして実際に蕾を見てみると現実感が増す。
「でも…今年は学校の桜は見られないね」
桜吹雪の舞う校門をくぐる権利は、もうあかねにはないから。
「寂しくなるね」
友雅が手を離すと、枝はゆっくりと自分で動いて元の形に戻って行った。
「桜の花の下で、あかねの姿を見られなくなるのは、やっぱり寂しいよ」
立ち止まったせいで、やっとお互いが顔を見合わせることが出来た気がした。

「今までみたいに、学校で毎日顔を合わせることも出来なくなるし。それが当たり前のようだったからね」
手のひらが髪の毛をすくって、優しく撫でる。昔から変わらないぬくもりが、指先から伝わって春先の冷たい夜風をしのぐ。
辺りは静かで人通りは殆どない。誰も見ていないだろうから、今なら触れてもきっと大丈夫だと思う。
そう思ったあかねは、とっさに友雅の胸にしがみつくように飛び込んだ。
足下に、小さな花束がこぼれ落ちた。
「頑張って入って良かったって…ホントに思ってるよ…。ともちゃんに会えて、良かった…。」
小さなその身体を、両手で友雅は受け止める。
「あかね以上に、良い3年間を過ごせたのは私の方だよ」
そこに、お互いが存在していたから。
かけがえの無い3年という年月。春からまた、新しい入学生がやってきて、同じような学校生活が始まるけれど。
同時期に同じ時間を生きて来た相手がいた、この年月を越える日々はもう二度とないだろう。

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「ホントに泊まって行かないの?遅くなっちゃうじゃない、マンションに帰ったら…」
門の前で、あかねが尋ねる。
「あかね達は今日でおしまいだけど、教え子はまだまだ学校に残っているんでね。明日も早いから部屋に戻るよ。」
「だったら、ここから行けばいいのに…」
「いや…今日は止めておくよ。伯母さんたちも、あかねの卒業のお祝いを用意しているだろうし。今夜はゆっくり家族でお祝いしてもらいなさい。」
友雅の言う事ももっともだと思うけれど…やっぱり離れてしまうのは、ちょっとだけ心細い。
学校に行けば会えるから、と言えないところがお互いに辛いところでもあるが仕方ない。
「その代わり、春休みになったら遊びに来るよ。」
「ホント?」
とたんにぱっと華やかな笑顔に変わる素直さが、友雅には愛おしく感じた。
「約束するよ。」
そう言って、小指を差し出す。小さい頃からの、二人の約束の儀式はいつも指切り。
互いの指を絡めて、しっかりと約束を交わす。

「卒業おめでとう」
離れた指先であかねの額を軽く掻きあげて、軽く優しく唇を当てる。
一言、そんな別れの言葉を残して、友雅はその場を後にした。



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Megumi,Ka

suga