桜 風

 002
卒業式の会場は、講堂ではなく礼拝堂である。
聖書の教えの元に学んだ年月を送り出すという意味と、このパイプオルガンを演奏する為に会場になっている。
いつもは厳かな雰囲気のチャペルには、既に支度が整っていた。
フェイクフラワーで縁取られた立て看板に、卒業生を送り出す言葉が書かれている。
130人余の3年生が、今日ここから外の世界へと旅立って行く。

友達同士泣きながら別れを惜しむ者、このあとの送別会を楽しそうにしている者、付き添いの家族達に迎えられる者、人それぞれ…様々だ。
駆け寄って来る生徒たちをなだめながら、祝いの言葉をかけてやることには慣れたけれど、今回は少しだけいつもとは違う。
寂しいような、それでいて嬉しいような。
生徒として彼女は去って行くけれど、その後は一人の女性として、今迄よりも近くにやって来る。
三年間の想い出は、自分の中で新しい形に変わり始める。
-------それは、三年とは言わず永遠に続くもの。


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朝早く目が覚めた。
最後に制服を身に着ける日。
朝食はいつも通りだったけれど、母は昨日美容室に行ったばかりでヘアスタイルはバッチリで、平日でありながら父はそこにいた。
卒業式は、二人揃って出席するつもりだからだ。
母のブラックフォーマルドレスが、クリーニングから戻って来たままの形で吊り下がっている。
靴を履こうとしたその横には、母のエナメルヒールが父の靴と一緒に並んでいた。
「じゃ、いってらっしゃい。最後だからしゃきっとしなさいよ」
背中をポンと叩いて、門の外まで送り出してくれた。
朝の空気はいつもと同じ、ひんやりとしていて、吐く息も少し白く見える。
家からバス停へ。駅に行って電車に乗って、またバスに乗って。三年間続いた道のりは、今日で終わる。
まだ、街路樹の桜は咲いていない。というか、咲く気配はない。


「それでは20××度、卒業式を開会いたします」
やけにアナウンスが大きく響いた。それと同時に、パイプオルガンの賛美歌が流れる。
ちらりと遠目に見える演奏者の背中を、少し背伸びして視線で追ってみる。振り向く事はないけれど、その姿を見てホッとする。
三年間の中で、何度も訪れたこの礼拝堂ともお別れだ。重厚感のあるオルガンの音も、既に耳に馴染んだ聖書の言葉も。
古ぼけて傷がついた壁や、太陽の光が射すと虹色に浮かぶ、バラの模様のステンドグラス。優しげな表情のマリア像と十字架。
毎日、あたりまえのように見て来た光景が、今日が終わると過去になる。
自分の庭同然に、自由に行き来できる期間は終わりが近付いている。

一見すれば西洋に紛れ込んだような、厳粛な雰囲気の礼拝堂とは正反対に、正門にはみっしりと連なる桜の木々。
それらが咲き誇る4月。日本が一番美しくなる風景の中で、この制服に身を包んで入学式に挑んだ。
毎年その桜吹雪の中をくぐり抜けるようにして、登校するひとときの春が大好きだった。
もう、今年はそれを体験することは出来ないけれど。

一人一人の名前が呼ばれるたびに、答える生徒の声が短く続く。

『元宮あかね』
--------------「はい」。
その一言で、卒業を許可したという会話が交わされる。
そうして百人余の生徒たちは、この学校を後にすることになる。
溢れる程に、抱えきれないほどに積み重なった、想い出たちを手にしたままで。


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「先生ー!あたしもあたしも!」
閉会したとたんに、卒業生たちに取り囲まれて身動きを取れなくなっているのは、予想通り彼一人である。
全員がデジカメや携帯のカメラを手にして、我も我もと彼の隣でシャッターを切ろうと必死だ。
「あらら。こうなるとは思ったけれど、あれじゃあ卒業生全員と写真撮ることになっちゃうんじゃない?」
松下が友雅を遠くで眺めながら、笑い声を交えて楽しそうに言った。
「特別な生徒さんとしては、ちょっと複雑な光景かしらね?」
隣にいるあかねに尋ねてみると、ふるふると左右に首を振った。
「みんな、最後だから…。だからきっと想い出が一つでも多く欲しいんですよ。ともちゃん、私たちの中ではアイドルだったから」
「ふふふ。まあ、今から始まったことでもないんだけれどね」
本当は、彼の隣の位置は独り占めしたい。でも、今のみんなの気持ちが分かるから、今日は一歩退いて彼女たちに明け渡すことにしよう。
これからだって、いつでも会える自分とは違うんだから。

「ちょっとー!あかねもおいでってばー!」
一人だけ離れていたあかねを、友達のルイが大きな声で呼んでいる。顔を上げると、友雅を中心に同級生たちがぎっしりと周りを囲んで輪を作っていた。
「記念写真なんだから、みんな揃って一枚撮ろうよ!」
「さ、元宮さんも行ってらっしゃい。それじゃ、撮影は私が引き受けてあげるわ」
あかねの背中をゆっくり押し出しながら、松下は前に向かって歩き出した。
華やかで賑やかな空気の中へ、二人は紛れ込む。いつもなら冷たいと感じる空気も、ここだけは春爛漫の陽気かと錯覚する程だ。
「こっちにおいで」
手を伸ばして空けてくれていたのは、特等席とも言える彼の隣。言うがままにそこに向かって、あかねは足を進ませた。
人数が多いから、フレームに全員入るためにはかなりぎゅうぎゅうになってしまって、必然的に身体を寄せなくちゃいけなくて。
無意識ながら、彼の胸に寄り添うような姿勢で。肩を抱かれるように寄せられて……。

「それじゃ、シャッター切りますよー?」
念のためにと2回響いたシャッター音。そこに写った自分は、どんな顔をしていただろう?
単なる卒業生の顔だっただろうか。それとも、彼の隣で少しときめいた顔をしていただろうか。


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しんみりとした雰囲気で終わった卒業式とは正反対に、送別会の方はかなり賑やかに繰り広げられた。
私服での参加もOKと言う割には、殆どが制服のままで出席したのは、多分みんなこの制服と別れを告げるのが惜しいからだったに違いない。
もちろん、あかねもその一人だ。
郊外にあるホテルのバンケットルームでの送別会は、未成年が主体のためにアルコールは成人に向けても一切無し。ブッフェスタイルで気軽に楽しめる形式だった。
小さなステージでは院長や教諭たちからの祝辞が続き、そのあとはホール内にクラシックが流れるだけで、あとはフリースタイルだった。
「アルコールなしというのは物足りないけれど、主役が彼女たちでは大人しくしているしかないですね」
昼間は生徒たちに囲まれていた友雅も、やっと少し肩の荷が下りたようで、着替えたスーツも比較的ラフな生地のものだ。
意外にも、あまり酒が得意ではないという松下は正反対に、今回は色も華やかめのドレススーツでバラのコサージュがよく似合う。
「これで今年も、一仕事が終わりましたね。お疲れ様でした。」
「いや、まだ終わりではないでしょう。明日からは在校生のことで、また忙しくなりますよ」
手に持ったグラスの中身は、見た目と香りだけなら赤ワインと変わらないが、もちろんノンアルコールのワインもどきだ。それでもかなり濃厚なぶどうのせいか、渋みも残ってなかなかに大人の味がする。
壁の花のように、ホールの隅に佇む二人の視線の先には、はしゃぎ合いながら笑っている生徒たちがいる。お嬢様学校なんて巷では囁かれているが、こうして見ている限りでは、至って普通の高校生と皆変わりない。
「制服を着たままじゃ、まだ大人には程遠いように見えるけれど、数年もすればハイヒールとかも似合うようになるんだろうね」
笑いながら言う友雅の肘を、そっと松下が突くようにする。
「ハイヒールよりも、ウエディングドレスが似合う娘になってもらいたいんじゃありません?橘先生としては」
たった一人の少女を視線で追うようにしながら、松下の言葉を耳で受け止める。
はっきりとしたイメージを描くには、やっぱり少々時間がかかりそうな気がするが、その姿はいつか必ず現実となる。
何も言わずに、友雅は少しだけ松下を振り返って笑った。


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Megumi,Ka

suga