桜風

 001
三年前の春、私はたった一つの想いを抱いて校門をくぐった。
正門を取り囲むように続く、桜並木が一斉に色づいて花びらを散らしていた。
その風景はまるで夢のようで、これからの新しい学園生活に胸を躍らせながら掲示板の教諭名をじっと見つめていた。
たった一人の、その名前の人に再び会うために、三年の高校生活をここで過ごそうと決めてからというもの、自分でも驚くほどの集中力で受験勉強に力を入れて、努力の末にようやくこの制服に身を包むことを許された。
それは、彼に会うための許可を得たという意味でもある。
ここの生徒なら、いつだって堂々と彼に会うことが出来るし、毎日のように顔を合わせることだって出来る。
……あの頃のように。幼い私を抱いて微笑んでくれた、あの遠い日々と同じように。

時はゆっくりと流れて、三年の時間が過ぎようとしている。
真っ赤な色の制服のリボンは、ワインのように時間を吸い込んで熟成された色になり、広すぎて迷いそうだった校内の間取りも、今ではすっかり頭の中に入ってしまった。
ふと、立ち止まってあの時の桜並木を見上げて見る。
蕾は少しずつ膨らんでいるけれど、まだ花開くのは随分先のことだ。

毎年見ていたその桜を、今年は見ることが出来ない。
そして、二度と見られることはない。この制服のままで、この学園の生徒として桜並木をくぐることは、もう二度と出来ない。
夢のような三年間が終わる。
あと、数日。


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「やっぱり、あかねにはこっちの方が似合うよ。こちらの若草色も綺麗だけれど、桜色には勝てないな」
開いたファッション雑誌のカタログを見ながら、友雅が自信ありげにそう答えた。
週末の夜。二階にあるあかねの自室で二人きりの時間。毎週土日はこの家にやってきて、昔のように一緒に過ごす。
ほんの十年ほど前は、友雅の家はここだった。今まで以上に音楽にまみれた学生生活の中で、下宿先のこの場所へ戻ってくれば叔母や叔父が迎えてくれた。
そしてまだ幼い少女がいつも、彼の奏でるピアノの音に寄り添うように微笑んでいた。

目に止まらないほどのスピードで時間は過ぎて、音楽で生きていくことにある程度の自信もついた現在。
たまに戻ってくるこの家には、もう自分の部屋はない。当然だが叔母達はあの頃より少し老けていたが、飾りのない直球ストレートな口振りは相変わらずだ。
庭先には春になるとチューリップが咲く。小さな彼女が学校からもらってきて、毎年のように植える。決して広くはない庭が、春になると咲くその花で彩りを添える。
そんな風に季節が過ぎて、今の友雅には永久に咲き誇る花が目の前にいる。
膨らんだ花弁よりも愛らしく、春の日だまりよりも暖かい気持ちを芽生えさせてくれる、小さな少女は背伸びをしながら友雅の目線を見上げながらそばにいる。

「じゃあ、こっちにしよ。大学生なのにピンクってちょっとコドモっぽいかなって思ったけど…ともちゃんがそう言うんだったら、こっちにする」
さっきから眺めていたカタログは、来月の入学式用に購入するつもりのスーツの品定めだった。
コサージュのついたツイードジャケットと、シフォン生地のプリーツスカート。少しミルクが混ざったような柔らかい桜色と、春風のように爽やかな若草色の2パターン。
どちらもあかねは気に入っていたので、散々決めかねていたのだが友雅の意見であっさりと決断を下した。
「そんなに子供っぽいようなピンクではないよ。こういう色は女性のためにあるような色だからね。そういう意味で、せっかく似合う色なんだから…と思っただけだよ」
ベビーピンクの子供服、ショッキングピンクの髪飾り。イチゴミルクが大好きで、泣いていてもそれを差し出せばすぐに機嫌が直った。
幼い彼女の記憶が、まだしっかりと記憶の中には息づいている。
「それじゃ、靴とバッグは私がプレゼントしてあげるよ。カタログの中から、好きなものを選ぶと良いよ」
「え?ホント?」
「ああ。短大合格のお祝いもまだだったしね。値段は気にしないで、あかねの気に入ったものを選びなさい。」
友雅がそう言うと、あかねは嬉しそうに瞳を輝かせてもう一度カタログに目を移した。
こちらの言葉に対して遠慮などせずに、わくわくしながら品定めを始めるあかねの素直さが好きだ。
大人同士の付き合いならば、どこか相手に気を遣って遠慮がちになることが多いが、幼い頃からの付き合いの馴染みがあると、家族のような親近感が先行しているせいか遠慮することの必要性がないと感じるのかもしれない。
だが、好意で言っていることなのだから、こうしてあかねのように接してくれる方が友雅としても嬉しいものなのだ。何よりも、あかねが嬉しがるのを見たくて言ったことなのだし。
「あー、でもどうしよー…また迷っちゃうよ〜。ねえ、ともちゃんはどっちが良いと思う?」
更にまた悩んだ挙げ句、友雅の助言でロエベのハンドバッグとフェラガモのパンプスで落ち着いたのは、日付が変わるまで、あと数分という時刻だった。


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一週間前に届いた白いケースの中には、桜色のスーツが入っている。
友雅に買ってもらったバッグも靴も全部揃って、あつらえたような春のコーディネートが整った。
3月。まだまだ冬の気配が抜けなくて、凍えるような朝は春の陽気からはほど遠い。
それなのに、暦は遠慮なく先へと急いでいく。もっとゆっくりした足取りで良いのに、時間は振り向くことなどしないで、どんどん前に進んでいく。
日めくりのカレンダーが一枚ずつはがれ落ちて、最後の日が目の前にやってきていた。

来月は新しい生活の始まり。それをスタートさせるためには、「現在」を過去にしなくてはならない。
春用のスーツと、まだ身体に馴染んでいる冬の制服。季節感がバラバラで、どっちに傾いて良いか戸惑ってしまう。
「いよいよ明後日ねえ。この時期になると三年は自由登校になって、校内がひっそりしてしまうのだけれど…卒業式が終わったら、もっと寂しくなっちゃうわね」
まだ開花宣言さえ遠い並木を眺めて、ぼんやりしていたあかねのそばで優しそうな声がした。
振り向くとそこに、同じ桜の木を見上げている松下の姿があった。
「毎年繰り返されることだから、慣れているってと思ったりしているんだけど、そういうわけにもいかないわね。三年間の間にいろいろなことがあったかと思うと、しんみりしちゃってね」

人生から比べたら、三年間という月日はわずかな一瞬に値する。それでも彼らと過ごした中に刻んだ思い出たちは、毎年一つずつ永遠に輝き続ける宝石になる。
「いつもなら平然としている橘先生も、今年は初めて寂しい思いを経験するかもね?」
微笑んでそう言った松下の表情は、そこだけ春が来たように感じた。
「そういえば入学式の後のオリエンテーション、松下先生が担当してくれたんでしたよね?」
「ああ、そうだったわねえ。丁度その年から任されたのよ。新入生のためのオリエンテーションなんて、これからの三年間の基本姿勢を教えるためのものでしょう?結構責任重大な役目だし、ちゃんとこなせるかどうか不安だったの。私もあなた達と同じ、新入生みたいな気分でどきどきしていたわ。」
懐かしそうに、三年前の記憶を思い起こす。
誰だって、最初は初めての経験からスタートする。数年が過ぎて、何度も同じ事を繰り返して慣れてしまっても、そのときの緊張感は記憶として消える事は無い。
「だからね、私にとっても今年の卒業式は特別なのよ。私が最初に指導した新入生が、卒業して行くんですもの。入学したての彼女たちに、ちゃんと良い生活が過ごせるような指導を出来たかしらって。彼女たちの三年間は、有意義で想い出に残るものだったかしらって。悔やむようなことはなかったかしら、って。
そんな風に悩んで立ち止まったりしなかったかしらって。それだけがちょっと心配なんだけれどね。」
松下の面持ちは、いつもより頼り無さげに見える。

「大丈夫ですよ。みんな、松下先生のこと大好きでしたもん。」
「あら、本当?」
隣にいるあかねからの言葉に、松下の表情がさっきよりも明るく変わった。
「若くて美人で、素敵だなーって憧れてた人たくさんいますよ?。でも、何かお姉さんみたいで話しやすくって。他のオジサンオバサン先生よりもずーっと、大人気の先生でしたよ。」
「……同性の言葉って、嘘はないから嬉しいわね、そう言われると。」
今だから笑って話す事の出来る、松下と友雅の結婚の噂が流れた時でも、あんなにハラハラしたのは松下が同性から見ても、文句の付けようがない女性だったから。
すらりとしたスレンダーな長身のスタイルも、長くてサラサラした黒髪も、理知的でいながら親しみのある性格も、"こんな女性になれたら"と素直に憧れる対象だったからだ。
こうして今現在、彼女が院長の神森の妻となり、そしてあかねが友雅と未来を約束した関係に至ったあとは、唯一隠し事をしなくてもいい身内みたいな存在だ。
今は本当に、姉のような。

ふわっと、ほのかに暖かな風が流れて来た。
「でも、元宮さんの一番大好きな先生は、他の先生でしょ?」
風に乱れた髪を押さえて、松下が微笑みながらあかねを覗く。
「え?あ…ははは…」
照れ隠しに、あかねは笑って頭を掻いた。

「桜の季節に、またあなたに会えないのが少し寂しいわ。」
背中に触れた手が、そこだけ春の暖かさを伝えているようだった。
それは、友雅がくれるぬくもりとは違ったもので、それでいてどこまでも優しく暖かな感触だった。
「梅の花じゃ…あまり絵にならないわね。お別れするのなら、いっそのことたくさんの桜の花びらで盛大に送り出してあげたいんだけど。」
見上げる桜のつぼみは、また膨らんだまま。
花が開くのには、まだひと月はかかりそうだ。



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Megumi,Ka

suga