いつか王子様が

 004
「さて。私はあいにくとまだ仕事が残っていてね、あまり長い時間抜け出しているわけにもいかないのだけれど…」
急がしい仕事の合間を、ほんの少しだけ休憩をもらってやってきたが、だからと言ってのんびりもしていられない。
差し出されたオードブルや飲み物を手にして、しばしなつかしい空気に囲まれているのも楽しかったが、制限時間は迫ってきていた。
「せっかくの楽しい時間だったのだけど、もうそろそろ戻らなくてはいけないんでね」
残念そうな声が、ほぼ全員から聞こえてくる。後ろ髪を引かれる思いがするが、こればかりは無茶も出来ない。

「そのかわり、最後に一曲…弾いてあげようか」
グランドピアノの蓋をあけて、友雅がそう告げるとみんながわっと歓声をあげた。
「先生!リクエストは受け付けてくれますか!?」
一番手前にいたルイが手を挙げて言うと、友雅は指先を左右に軽く揺らした。
「今日は、ここにいる全員のために、ぴったりの曲を選んできたからリクエストはしなくても、おそらく満足してもらえると思うよ」
友雅はそう答えて、ピアノの前に腰を下ろした。

鍵盤に指先を載せると、部屋全体がしんと静まり返った。
吐息の音さえも聞こえず、限りなく無音状態に近くなる。誰もが、これから流れ出す音に耳を集中させる。

軽く流れるようなピアノの和音が響き、ゆっくりとメインの音を探して行く。
そして一つの音を見つけたとき、はじめてメロディーが奏で始まった。

「Someday My Prince Will Come」-----誰もが一度は聞いた事のあるメロディー。
「いつか王子様が」。ディズニーの「白雪姫」のテーマソング。
スタインウェイ・ヒストリカルモデルから、流れる音は歌詞そのものの雰囲気のまま優しくて、そして懐かしい感触で耳に流れ込んで来る。
それぞれの中に、音と共に描かれる思い出や記憶が呼びおこされて、その音だけに身を委ねた。


最後の音を終えたあと、友雅は一言告げて演奏を締めくくった。
「王子様に会える時を夢みていた、その気持ちを忘れないように。そして、他のみんなにも早く、王子様に会えるように祈っているよ」


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夏が近いせいで、夕方になっても外は随分と明るかった。時計を見ると、もう6時過ぎていた。
さすがにそろそろ帰宅の途に付かなくてはいけない、と何人かが言いだして閉会することになった。
「じゃ、ちょっと待って。最後に先生呼んで来るね。」
帰る時には見送りに行くから、と最初に言われていたので、あかねは音楽室を出てコンサートホールへと急いだ。

古い校舎と新築の校舎をつなぐ渡り廊下を、急いで駆け抜けて昇降口へと向かう。
生い茂った中庭の緑をすり抜けると、夏草の香りがする。
閉門時間まで学校に残って、授業よりも楽しい放課後を過ごしていた3年間。その景色は、変わらずにまだ季節の中に存在していた。

冬服が夏服に変わり、雨の季節がやってくる。夏休みの前の試験勉強に、友達と悪戦苦闘した。
振り向くと、そこにはあの日の自分の姿が見える。
卒業して一年と少し。ガラス窓に映る自分は、少しでも大人になっただろうか。


ホールのドアを開けると、ステージにあるグランドピアノの前で、スタッフと話をしている友雅の姿があった。
決して広くない、演奏会用の小ホール。それでも楽器は一流のメーカー品が揃っている。
音楽室にあるものと同じスタインウェイのピアノ、デルジェスのヴァイオリン、ストラディヴァリウスのチェロ…。
高校の音楽教材としては豪華すぎるほどのコレクションだが、若い頃から本物の楽器の良さに触れるため、学長と共に友雅が数年前から導入している方針だった。
自宅のマンションにある友雅のピアノも、同じスタインウェイのグランドピアノ。
留学先のウィーンから帰国する時に、師と仰いだピアニストがプレゼントしてくれたものだと言う。
なかなかの名器だと聞いた事はあるが、残念ながらあかねにはよく分からなかった。
それでも、そのピアノでの演奏を聴く事が出来るのは、あかね一人だけの特権である。共に暮らすあかねだけが、好きな曲を好きなだけ、目の前で奏でてもらえる。


そう考えていたら、妙に胸の中がじわっと暖かくなってきて、思わず口元がほころんだ。
最高のピアノで最高な時間を味わえるのは、私だけ……なんて、贅沢の極み。考えただけで嬉しくなる。

「ぼうっとして、どうしたんだい?」
いつの間にかステージから降りてきていた友雅が、目の前であかねの頬を軽く突いた。
「あ、あの…もうそろそろお開きにしようって話が出たから、呼びにきたの」
時計を見ると、6時も過ぎている。
「そうか。じゃあ、ちょっとあかねも手伝ってくれるかい?」
友雅はそう言うと、正門とは逆の方に向かって歩き出した。


どこに行こうとしているのか、と疑問に思いつつも、そのあとを追うように着いて行く。
薄暗い廊下を抜けて、たどり着いたのは静まり返った職員室の中だった。
「どうしたの、ともちゃん…職員室に何か用事が……」
部屋に入ったとたんに、目の前にわっと飛び込んできたもの。
それは、 限りなくホワイトに近いピンクのバラと、カサブランカの大きなブーケだった。

「教え子に、ささやかなお祝いだよ」
白い百合と淡いバラ。そのままでウェディングブーケになりそうな色合い。
二つの花の香りが、顔の周りをくすぐるように漂う。

「…きっと煎堂さん、嬉しがるよ。こんなきれいな花束、しかも、ともちゃんからもらうなんて」
友雅にとっては教え子の一人にしか過ぎなかったのだろうけれど、彼女はかなりの友雅贔屓だったのだ。
そんな彼女が、運命の人に出会った。そして、新しい未来を歩き出そうとしている。


そしてあかねも………。


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Megumi,Ka

suga