髪を洗って、少しだけ化粧してみたりして。サーモンピンクのマニキュアも丁寧に塗って………宝物の真珠の指輪を左手の薬指にはめる。友雅がそうしてくれたように、もう一度しっかりと、外れないように。
この指輪が二人を永遠に結びつけてくれる。
ダイヤモンドなんかいらない。友雅がくれた指輪なら、おもちゃのガラス玉だってかまわない。
誓い合った言葉はいつまでも変わることのないものだから、この薬指がちゃんと覚えていてくれるから。
「あかね!お客様が来てるわよー!」
突然階下から、母の呼ぶ声が聞こえてきた。
……うそぉ?お客さんって……これから出かけるっていうのにっ!?
あまりのバッド・タイミングに、あかねは目の前がうっすらとグレーに覆われた。友雅と約束した時間まで、もうさほど余裕があるわけじゃないと言うのに、こんな時に遅刻などしたらそれこそアウトだ。
はじめて二人で過ごす、友雅の誕生日の夜なのに……こんなときに来客が来るなんて。
あかねは少し肩を落としながら、階段を下りて玄関へと向かった。
しかしそこにいた女性の姿を見て、思わず声を失って立ちつくしてしまった。
「こんばんわ元宮さん。」
「松下先生……何で…っ」
そう尋ねようとしたとき、そばにいたあかねの母の様子をちらっと伺った松下は、慌ててあかねを急かすように言った。
「何でじゃないでしょ?早くしないと時間に遅れてしまうわよ。橘先生のステージはもうすぐなんだから!早く用意して下りてきなさい!」
「えっ……?あの……?」
内容の把握できないあかねに軽くウインクした松下は、今度はあかねの母に向かって話を始めた。
「実は今夜、高校の音楽教師たちの交流会としてリサイタルが行われるんですよ。それに橘先生が参加されるので、見に行くことになっていまして……。ですが夜遅いものですから、私が元宮さんを会場までお連れするお約束をしておりまして………」
聞いたこともない内容をあれこれと話しながら、彼女はあかねに『早く支度を』との目配せをする。
一体どんなことになっているのか分からないが、取り敢えずあかねは急いで二階に戻って、出かける用意をしてもう一度戻ってきた。
「松下先生……いきなりどうしたんですかっ!?」
紺色のスポーツワゴンの助手席に乗り込んだあかねは、ハンドルを握る運転席の松下に尋ねた。
「驚いた?そうよねぇ、何も連絡していなかったですものね。ごめんなさいね、急にお邪魔しちゃって。」
落ち着いてみてみると彼女の姿は、カジュアルなTシャツにコットンパンツという普段着と言えるもので、これからリサイタルなんてものに出掛ける出で立ちではなかった。今脱いだばかりの黒のジャケットがなかったら、どこかに出掛ける格好とは言えなかっただろう。
彼女はエンジンをオンに入れ、ゆっくりと大通りへと走り出した。
「実はね、今朝橘先生にお願いされたのよ。今夜音楽室を借りるけれど、時間が遅いのにあなたを一人で学校まで来させるのは心配だから、来るときだけでも車で送ってきてやってもらえないか、って」
「ともちゃんが……?」
うっかりシートベルトを着けるのを忘れていたあかねに、松下は指先で合図を促す。慌てて引っ張りあげたグレーのベルトを、しっかりと身体に締め付けた。
「すいません……松下先生にまで迷惑かけちゃって……」
「ううん、いいのよ。私もいろいろと二人には借りがあるから。恋愛については私たちは運命共同体でしょ?。いくらでも助け船を出してあげるわよ。」
交差点で一時停止すると、そう松下は言ってあかねに微笑む。その暖かな笑顔に、少しだけホッと心が和んだ。
「あ、そうだ!先生、どうしよう!大切なもの忘れてた!」
ヘッドライトの明かりが流れゆく大通りを走っている最中、いきなりあかねが大きな声で何かを思いだした。
「え?何?どこか寄っていってあげてもいいけれど………。」
「お花…買うの忘れてたんです!やっぱりお誕生日にお花ってないと寂しいじゃないですか!」
ずっとこの日のことを秘密にしていたから、今まで買う時間が無くてすっかり忘れていた。相手が男性であっても、やはり誕生日には花束がないとカッコつかない。
「じゃ、この通りの先にあるお花屋さんに寄っていきましょ。あそこは遅くまで開いてるから。それくらいなら時間あるから大丈夫。」
間一髪のところで気付いたのが、不幸中の幸い。
車は逆方向の渋滞をスムーズにすり抜けて、小さな花屋の前で止まった。
店構えは大きいとは言えないが、ガラスケースの中にある切り花は鮮やかな色合いが揃っている。これからの季節の象徴であるひまわりや、どんなシーンにでも応用できるかすみ草も白だけではなく薄いピンクのものもある。
だが、こんなにたくさん揃っていると……どれを選ぼうか迷ってしまうのも困りものだ。
「どんなお花が良い?」
悩んでいるあかねの背後から、松下が覗き込んだ。
「悩んでるんですよぉ…男の人だから、あんまり派手なのは駄目ですよね?赤い薔薇なんて女の人向けですよね?」
「……橘先生だったら似合いそうな気もするけど★」
「うーん…でもー…やっぱり……」
カラフルな色を取り合わせて華やかにするか、それとも色を抑えて清楚な雰囲気にするか……考えれば考えるほど悩んでしまって、結局いつまでたっても答えが出てこない。昔からのあかねの悪い癖だ。
「そうだ、じゃあジャスミンとライラックとかならどうかしら?」
時間と花とを行き来しながら悩み続けているあかねに、松下が助け船のアドバイスをした。
「ジャスミンとライラック?」
「そう。白い小さな花で、香りがとてもいいの。ライラックは薄い紫色でね、この花も香りが良くて綺麗よ。」
彼女が指さした方向に差してあるのは、小さいが上品な花弁を持つ花だった。
「よくウェディングブーケなどに使われるので、最近はよく出ていますよ」
切り花の水替えをしていた店員が、二人の会話にそっと口添えをするように言った。
そういえば今は6月だ。ジューンブライドシーズン……結婚式も多いため、こういった花屋は忙しい盛りだろう。
…これにしようか、と最後の決断を迫られていたとき、松下があかねに耳打ちするように小さな声で言った。
「実はね、私の式の時のブーケもコレだったの。花言葉も良いから、二人にはオススメ♪」
結局その誘惑に負けて、あかねはライラックとジャスミンのブーケを頼んだ。
「それじゃ。帰りは橘先生に送ってもらうんでしょう?」
「はい。多分……そうなると思います。ありがとうございました、いろいろお世話になっちゃって………」
「いいのよ、気にしないで。あ、そうだ……忘れるところだった、ちょっと待ってね。」
何かに気付いた松下は運転席から降りると、後ろに回ってトランクケースのドアを開けた。そしてその中から真っ白なレースのショールを取りだした。
「ちょっとこっちいらっしゃい」
彼女の言われるがままに歩みよると、白いショールがあかねの背中にふわりと回り込み、肩を包み込むようにして胸元でリボンに結び止まった。
「これは橘先生へのプレゼントじゃなくって、元宮さんへの私からのプレゼント。実はコレ、ウェディングドレスについていたショールなの。」
「ええっ?!駄目ですよっ!そんな……想い出の詰まったものじゃないですかっ!そんなのもらえないですよっ!」
慌ててリボンをほどこうとするあかねの手を、松下はそっと引き止めた。
「良いからもらってちょうだい。幸せのお裾分けだから、ね?もっと幸せになれるように、女の子だけの幸せの半分こ…ね?」
真珠の粉が編み込まれたような淡いレースの細やかなショールは、あの日松下が永遠の愛を誓った瞬間に身につけていたもの。最高潮の幸せの中にいた彼女の心が染みこんでいるもの。
「松下先生って……何だかお姉さんみたい。」
「あら、私も元宮さんみたいな妹だったら欲しいな。私は男の兄弟しかいなかったから、妹がいたらファッションとかアイドルの話とか、恋の話とか…してみたかったもの。」
あかねの言葉にそう微笑みながら答えた松下は、そっとあかねの髪を撫でた。
「でも、本当に妹だったら姉の立場としては……このまま置いて帰るなんて出来ないけれど。保護者として、即家に連れて帰っちゃうかな?」
「ええっ?それは〜っ!」
困惑しているあかねを見て、松下は微笑みながら『冗談よ』と交わした。
「さ、いってらっしゃい。そして、二人で楽しいひとときを過ごしていらっしゃい!」
そう言ってあかねの身体を校舎の方へ向けると、その背中をポンと軽く叩いた。
背後でエールを送ってくれる、優しい仲間の姿に嬉しさを噛みしめながら、あかねは裏口へと足早に向かっていった。
夜になってもその輝きはほんのりと明るく見える。校舎は明かりのついている窓が少ない。職員用の駐車場にも、残っている車はほとんどない。
木々の生い茂る裏庭からは、古校舎の窓は隠されてしまって見えない。そこに友雅がいることをここからは確認できないけれど、あかねは裏口から階段を上った。