Ring Your Bell

 002
食卓の上に並べられたものは、特別豪華なものではない。以前は家族同様に暮らしていた友雅が、たまに顔を出すだけのこと。かしこまった仕立ては必要なかった。
堅苦しさのない、うちとけた雰囲気の中で語られる会話は他愛もないものばかりで、それが尚更に気分を和ませた。
一時間ほど遅れて帰宅したあかねの父も食卓に加わり、話題は広がりを増していく。


きっかけは母の一言だった。


「そうそう、友雅くんに聞きたかったのよ。一体どんな状態なの?この子の進路。」
「進路…ですか?音大受験ということで、こっちも特別なカリキュラム作っていますけれど」
「ううん、そういうことじゃないのよ。もっと現実的なことをね。はっきり言って、受かる見込みってあるわけ?」

何度母からこの言葉を聞いただろう。曖昧な気持ちのまま決めてしまった進路だが、放課後の友雅の特別補修は相変わらず続行中だ。
「うーん、それはあかね次第でしょうねぇ。失敗するような指導はしてませんから。あとは本人のやる気なんじゃないですか?」
あくまでも友雅は教鞭を取るものとして、当たり障りのない受け答えをした。おそらく彼の本心は、その場の誰にも気付かれなかっただろう。

一拍置いて、今度はあかねの方に質問が飛んだ。
「で、そういうあかねはどうなの。やる気あるの?本気で音大に行こうと思ってるの?」
「えっと……………★」
「どうなのよ、はっきりしなさい。もう三年生なんだからしっかり進路決定して本気出さないと、このまんまじゃ予備校進学になるわよ」
言いたいことをはっきり言う母だが、それは確かにごもっともである。進学するとすれば、もうタイムリミットは一年も残っていない。余裕で合格できる方向に向いているのならまだしも、付け焼き刃で決まった進路は前途多難に間違いない。


しかし、あかねの中にある未来予想図は、ここ数ヶ月の間でめまぐるしく変化を遂げていた。ぼんやりとした目標は泡のように消えて、そこに新しい答えが生まれてきていたのだ。
「あのー……言わないといけないかなーと思ったんだけどー…………」
切り出すタイミングがなくて、ずるずるとここまで来てしまったけれど。だがそれもまた違う道を進むために、今うち明けなければいけないのだろう。
あかねは両肩に力を込めて、一回軽く深呼吸してから声を出した。
「お、音大受験、やめようと思っててー………」

一瞬周りの音がしんと静まった。隣にいる友雅の顔を見ることは出来ない。何せここまで特別な指導を付き合ってもらっていたというのに、『受験やめます』ではあまりの仕打ちだろう。

「受験やめてどうするのよ?就職でもするって言うの?」
「えっと……」
母に切り替えされて、またあかねは答えに戸惑った。取り敢えず『音大』に行くのはやめた、ということだけで、その後の進路は全くの白紙なのだ。自分でも呆れるほど呑気すぎると思っていても、そうすぐには思いつかない。



「永久就職は?」


その声に全員が目を向けた。ついさっきまで顔さえ見られなかったというのに、反射的にあかねも友雅の方を見上げていた。
「私としても生徒が浪人生活するのを、黙って見てはいられませんからね。それならいっそ、永久就職を少し早めたらどうです?………って、まあ、これはあかねの希望じゃなくて、私の独断的な答えの一つという事ですけれどね。」

両親たちは黙って何か考えているが、あかねの胸の中は心音が鳴りっぱなしだ。
遠回しだが、それは明らかにプロポーズの言葉に違いなくて。『卒業したら結婚しよう』と、そういう意味に違いなくて。

「別に私たちはいいけれどもねえ………」
「………え?」
母から拍子抜けのような言葉が返ってきて、あかねの心音がふっと平静に戻った。
「どうせいずれは結婚するんだし?もう私たちとしては気持ちの整理ついてるしねえ?ただ、もう卒業まで一年もないのよ?式場とか結納とかでばたばたしてらんないでしょう?友雅くんだってあかね以外に、受験生のサポートだってまだまだあるんだろうし……。」
まあ確かに、あかね一人が受験をリタイアしたとしても友雅の仕事が減るわけじゃない。音大志望の生徒は他にもいるし、新しい学年がやってくれば、またその生徒の数も増えてくる。

「短大はどうなんだ」

はじめて父が自分から口を開いた。
「附属の短大に進学は無理なのか?友雅くんから見て、総合的なあかねの成績はどんなもんなんだい?」

………まるで三者面談のような状況になってきた。今さっき『結婚』なんていう甘い言葉が飛び出てきたというのに、そんなフレーズに浸っているわけにも行かなくなる。
「私は担任じゃないので、そこまで詳しいことは説明出来ませんけれども…まあ可もなく不可もなく…っていう感じですか。別にこれと言って内申書に問題もないし、人並みの受験生活していれば大丈夫だとは思いますがね。」
「うーん………」
二人揃って両親は首をひねっている。当の本人のあかねの意志は、全く無視されてしまっていると言って良い。確かに、これと言って断言出来る進路はないのがいけないんだ、と思うが。
「せっかくなんだから、短大行ったら?二年もあれば用意も出来るし、ちょっとした花嫁修業も出来るでしょう?」
母が最初に切り出してきた。そして父が後に続く。
「友雅くんの仕事もあるだろう。でも二年間のうちにゆっくり支度していけば、落ち着いて予定も組めるだろうし、それが良いと思うんだがなぁ?」


その解釈は確かに説得力がある。友雅はさっきあんな風に言ったけれど、卒業してすぐに結婚したとして……まともに家事をこなすだけの器量が自分にあるだろうか?そう思うとあかねは不安になってきた。

炊事洗濯など嫌いなわけでもないけれど、それ以外の家庭的な知識は皆無に等しい。家計簿やら冠婚葬祭やら、果てはご近所とのお付き合い方法まで……妻という立場になったらそれらから目を反らすことは出来なくなる。
その度に友雅に泣きつくわけにも行かないし、一つの家庭を作る人間になるのなら、生半可な事は出来やしない。

……となると、やはり今のままでは不安だ。今は子供という肩書きに寄りかかることが出来るが、結婚したらそうは行かない。

「もう少しあかねにも、大人になる準備期間を置いてあげた方がいいでしょう」
友雅の言葉は静かで穏やかな口調ではあったが、教師という立場上それなりに説得力があった。
「どうする?今決めろとは言わないけれど、そんなに悠長にしてもいられない時期になっているよ。短大に進むつもりなら、進路指導の先生に説明しなくてはいけないこともあるから、出来るだけ早いうちに決めた方が良いよ。」
「う…うん、分かってる。」
両親にああだこうだと言われるのは慣れているが、友雅に言われるのはどうも慣れていない。惚れた弱みというか何というか、一番あかねにとって影響力のある言葉を発する人間は彼だと言っても間違いはない。


短大に進んで……。それもまた特別な意味はないけれど、新しい環境の中で知ることや気付くこともあるかもしれない。

そうやって少しは大人の自覚が出来たら………隣にいる友雅に似合う女性に近づいているだろうか?





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Megumi,Ka

suga