Ring Your Bell

 001
ふと気付くと、いつのまにか町のショウウインドウには夏服が並びはじめていた。
街行く人の姿に目をやると、重ね着をしている人も少なくなっている。
季節は確実に夏に近づいている。また一つ、季節が流れていく。



「あかね、夏服がクリーニングから帰ってきてるわよ。そこに置いてあるから、二階の自分の部屋に持ってってちょうだい。」
帰宅したあかねに、台所で忙しく歩き回っている母が声をかけた。
リビングのソファの上には、ビニールカバーが掛かったままの制服が置かれている。いつもは紺色のブレザーに隠れた白いブラウスが、夏の時期だけは主役のように目に映る。
「着替えたら、すぐ下りてきてちょうだい。夕飯の支度で大変なんだから。」
階段を上がる途中、そんな母の声が背中に向けて聞こえてきた。


自分の部屋に入ったあかねは、クリーニングしたての夏服を窓際の鴨居につり下げてから、Tシャツとデニムのスカートに着替えた。
ベッドに腰を下ろして、ふとその制服を眺めてみる。

もうすぐ夏が来る。
高校生活、最後の夏が来る。
秋が過ぎたら………この服を着ることは二度とない。最後の夏服の季節が、もうすぐ始まる。

高校三年生にとって、残された時間は少ない。受験へのカウントダウン、就職戦線への参入、それぞれが新しい道に向かって、わずかな余裕さえも切り捨てて毎日を過ごしている。

そういうあかねは……………。





「ぼんやりして、物思いにでも耽っていたのかな?」
「ひゃっ!」
いきなり耳元で友雅の声がしたかと思うと、背後からがっしりとした両手が伸びてあかねを包み込む。シャツの生地を挟んで伝わるぬくもりと、緩やかにウェーブの掛かった髪がくすぐったい。
「び、びっくりしたっ!ともちゃん!部屋に入って来るときくらいはノックしてよ〜★」
「……三度くらいノックはしたんだけれども、全く返事が返ってこないものだから仕方がなく、ね。強行突破させてもらったんだが。」



今日は、半月に一度の食事会だ。
とは言ってもいつもの夕飯の席に、友雅一人が追加されるというだけのこと。昔はこうした顔ぶれで生活していたこともあったのだから、別に目新しいということもない。
ただ、時々会話に出てくる未来の話が、あかねと友雅のことが中心になることくらいが変化なのだろう。

恋人のいる同い年の友達は多い。彼らの中にも漠然とだろうが、『いつかこの人と結婚したい』という想いは、少なからずあるに違いない。
好きだから、一緒にいたい。それが『永遠』ならばどんなに良いかと。
どこまで『結婚』というものを現実的に捕らえているかは分からないが、誰かを好きになったときから…一度はきっとそんなことを思うときが来るだろう。

近そうで遠い未来。
しかしあかねにとっては、決して遠すぎる未来の話ではない。あかねの左手の薬指のためだけに、愛の誓いを込めて友雅から贈られた真珠の指輪は、ベルベット貼りのケースの中に納められたまま机の上に飾られている。
言葉と形になった約束は、ひとつの未来を描いている。
それは遠いようで、実は近い未来の二人の姿。チャペルの鐘が、祝福のメロディに変わる日のこと。




「……っ!?」
はっと我に返ったのは、自分の身体を抱きしめる腕の強さが加速された瞬間だった。
「ど、どうしたのっ?」
さっきとは比べものにはならない力で、友雅がぎゅっとあかねの身体を抱きしめる。痛みが感じるほどではないが、その力があかねの神経にまで響いてきて、こんなにまで密着していることを改めて感じさせられる。
「私がこうして近くにいるのに、あかねの心はどこかよそ見ばかりしている。少し刺激を与えてあげなくては、いつまでたってもこっちを見てくれそうにないからねえ……」
友雅はあかねを抱きしめながら、耳もとでそう囁く。
「よ、よそ見なんか…してないよ…。ちょっと…色々考えてただけ。」
「何を考えていたんだい?私以外のことだったら容赦しないよ?」
そう言って友雅は、軽く色めいた吐息をかすかにあかねの頬に吹きかける。びくん、と神経が逆転する感触。
「とっ…ともちゃんのいじわるーーーーっ!」
まっ赤になってわめいたあかねを見て、友雅はやっとその両腕をときほどいだ。

「もうすぐ衣替えだから、色々とあれこれ思い出してたんだってば…」
あかねがそう言うと、友雅はふと視線を上げた。白いコットンブラウス、にチェックのリボンタイとプリーツスカート。あかねが通い、友雅が勤務する学校の夏服だ。
「そうか、もう6月になるのか……」
「夏服を着るのも、今年が最後なんだなーって。色々と高校生活を思い返したりしてたの。」


友雅に逢いたいという気持ちで、この学校に入学して。いつもそばにいながら、それぞれ何か変化を感じながら月日が過ぎて。
隣の感触が変化したのは、つい最近のこと。
昔からずっと一緒だった幼なじみで、大好きな先生で…………大好きな男性(ひと)。誓いの指輪をあかねのために用意してくれた、誰よりも好きな人。
そして、幼い頃から眺めていた花の苗が、一気に自分の目の前で華麗に咲き誇った時。その花から目を反らせなくなったこと。それが、愛しさに変わったこと。

「来年の今頃は、制服も必要ないんだよね……そう思うと何となく感傷的になっちゃうな。」
「……高校には行かなくても良いし、制服のチェックをされることもないけれど、『橘先生』とは残念ながら離れることは出来そうにないけれどもね。」
抱きしめてくれる友雅の手にそっと自分の手を重ねて、あかねは小さな声を立てて笑った。
「私ね、一度だって『学校に行きたくない』なんて思ったこと、なかったよ。」
……そこに友雅の姿があったから。
「卒業してからも、行きたくなっちゃうかもしれないよ。」
友雅の姿があるところへ、その姿が目に映るところへと。きっと無意識のうちに足が進んでゆくに違いない。
彼のピアノの音が流れる音楽室。一緒に昼食と取った裏庭にある大きな木陰。高校での想い出の映像には、すべて友雅の姿が焼き付いている。


「わざわざ学校まで逢いに来なくても、私があかねに会いに来るから大丈夫だよ。そうでもしないと、私だっていてもたっても居られないからね…」
友雅の指先があかねの細い顎に伸びて、くるりと後ろへと傾かせる。彼の力にすべてを任せて緩やかに身体を曲げると、それを受け止めるように腕が広げられた。

重なる影。触れる唇のぬくもり。目を閉じても、存在を確かめられる。
子どもだましの無邪気なキスと違って、恋人のキスは甘くて少しワインに似た味がした。


「ちょっとあかねーーーーーっ!さっさと下りてきて手伝ってちょうだい!」
甘い時間を遮る声が階下から聞こえて、互いの唇を引き離して目を開けると、大好きな人の笑顔があかねを優しく見下ろしていた。





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Megumi,Ka

suga