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黄昏に瞳を閉じて
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| 第九章「しあわせの涙」(1) |
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「と、まあこんな感じだよ。だからってやっぱり教頭先生と教師がオフィスラブなんて、いい顔しない人たちも多いだろう?だからこっそり付き合い続けていたらしいよ。別に好きな者同士が付き合っているのだから、別にかまわないと思うんだけれどもねえ」
彼らが十年以上紡いできた恋。
-----それは、あかねが描いていた大人の恋愛の形とは違って、もっと純粋で一途で綺麗な恋愛だった。
昔読んだおとぎ話や物語のように甘くて。そんな世界を何度も憧れた。
「おかげで私もいろいろとばっちり受けてしまったよ。教頭先生が会議などで遅いときは、彼女が必ず手作りの差し入れを作るんだよ。でもそれをそのまま渡しては他人の目があるからね。そこに放課後の個人レッスンなどがあって、いつも帰りの遅い私がいたものだからね。みんなが帰ったあとにこっそり学校に戻ってきてね、差し入れを預かって私が届けに行く…っていうキューピッド役を何度もやらされてしまった。挙げ句の果てに式で流す曲のアレンジまで頼まれてしまって。いやいやホントに大変だったよ。」
そう言いながらも友雅は、楽しそうに今までのことを振り返りながら物語った。
おそらく差し入れを渡しに学校へ戻って来た松下の姿を、誰かしらが見かけたのだろう。そのせいで友雅と彼女が結婚するのではないかとの噂が広まったに違いない。
少なくとも50近い教頭よりは、友雅の方が見た目も釣り合う年頃であったし、お互いに独身同志だったのだから、そう思いこむ者は多かっただろう。
ましてやこんな狭い女子校の中では、ちょっとした噂が広がるうちに話題を拡大化させてしまうものだ。
しかし、松下の相手は友雅ではなかった。
友雅が結婚するわけではなかった。
何度も自分の頭の中で事実を確認すると、とたんにそれまで締め付けられていた心がふっと自由になって、切りつめていた何かが再び溢れ出した。
頬をゆっくりと伝うぬくもり。瞳の奥が潤む。
「あかね?」
ぽろぽろと自然に溢れては流れる涙が、あかねの顔を濡らしていった。
身体の力が抜けて、緊張がほどけて、すべてが涙に変わる。
「ともちゃ……が…け…こんしない…って分かったら………」
「私が結婚?何でまたそんなことを…」
あかねは懸命に手のひらで涙をぬぐった。なのに、ぬぐってもぬぐっても自然に流れてゆく涙がいっこうに止まらない。鼻の喉の奥をつんとさせて、まばたきをすると更にしずくは頬を流れていく。
「誰か…が…っ……松下せん…せ…の相手…は……と…もちゃんだって……」
うつむいたとたんに、しずくがあかねの膝にこぼれ落ちた。
フランネル素材のスカートの上を、きらきらとした涙が水晶の結晶のように光った。
ぽとり、とまたしずくが落ちようとしていた。
その時、友雅の延ばした手のひらがそのしずくを受け止めた。
「そんなことあるわけがないだろうに。一言聞いてくれれば、すぐにそんなのは噂に過ぎないと分かっただろう?」
---そう。すぐに聞けば良かった。
なのに、そんな簡単なことが出来なかったのは……もしもそれが真実であったときのことを思うと怖かったからだ。 「だって…ともちゃ…と松下せ…せって…並んでると…お似合いなんだもん……」
「それは年齢差でそう見えるだけだよ。だけどね、今説明したように…年令なんかに左右されない深い恋愛もあるんだ。そんな彼らに…見た目はどうあれど私が内面的に釣り合うはずがないさ。」
年令なんて、恋をしたら何の意味ももたないものなのだ。例え年齢差が広くとも、相手を強く思えば最高級レベルの恋愛になる。逆に年が近かろうとも、ほつれてしまえば恋はあっけなく終わる。
問題なのは自分の心と、相手の心がどれだけ近いのか。……それだけだ。
「何を泣いているんだい?そんなに悲しいことでもあったのかい?」
あかねは頭を大きく左右に振った。小さな涙の粒が吹き飛んで宙を舞う。
そして彼女の手が、友雅の腕にしっかりとしがみついて崩れるようにその場に座り込んだ。
「ともちゃんが………結婚しなく…て……良かった……っ…」
とぎれとぎれの声が、涙とともにかすれては消えた。
壊れそうな肩、うなだれた細い首。濡れた瞳……すべてそこにあるのはあかね自身。友雅がいつのまにか心を惹かれていた、生まれたときからずっと愛おしかった少女。
そっと両手を広げて、友雅はあかねの身体を抱きすくめた。
そして幼い頃のように、彼女の頭を何度も優しく撫でた。
「もう泣くのはよしなさい。泣き虫なのは昔と変わっていないねえ…」
遠い記憶がよみがえってくる。
彼を後ろから追いかけて、つまづいては大声で泣いて。その度に友雅は、その愛らしい少女を抱きしめて髪を撫でてやった。
泣き疲れて眠りにつくまで、ずっと彼の腕の中で小さな手を伸ばしてしがみついていた…あの頃の記憶はまだ残っているのに、今この手で抱きしめているのは……花開く直前の少女だ。
愛らしさは愛おしさに変わり、後に恋という感情へと移った。
「ともちゃん……結婚…なんか……しないで……」
かぼそい声が、友雅の耳をかすめた。
「それは、私に一生独身で過ごせということなのかい?それはまた突然難儀なことを言い出すねえ…」
「ともちゃんが結婚するの……やだもん……」
だって。
「好き………なんだもんっ………!」
あかねは友雅の背中に手を伸ばして、ぎゅっと強くしがみついた。今、思いきって口にした言葉の前から逃げるように、彼の胸に顔を押しつけて黙った。
ずっと言いたくて言い出せなかったこと。何年も前からずっとずっと、抱き続けていた本当の心。
すべてはあなたのそばにいたくて、ここまでやってきた。やっと追いついた。
だから言わずにいられなかった………あなたを、好きだ、と。
「あかねがこの学校を受験すると聞いたとき…ね、ここに赴任してきて本当に良かったと思った。本当に…そう思ったよ。またあかねに逢えると思ったら、懐かしくて嬉しくなってね。」
あかねの身体を優しく抱きしめながら、友雅は柔らかな低めのトーンで話をはじめた。
耳をくすぐるように、甘い声が聞こえてくる。
「まさかここで再会するとは思わなかったから、どんな風に成長しているのかと入学してくるのを楽しみにしていた。久しぶりに見た君は背も伸びてすらりとして、笑顔とあどけなさはあの頃と変わらないのに……ふと見せられる大人っぽい仕草に戸惑ったりもしたね。」
少女から大人への通過点こそ、女性が一番魅力を発揮するときだと誰かが言っていたのを思い出す。
あかねを目の前にして、それが正しかったと友雅は納得した。
「あのね……」
あかねがそっと口を開いた。
「本当のこと言うと…ここ、私のアタマじゃ無理だろうって言われてたの。でも、どうしてもここに来たくって…中学の一年間、信じられないくらいガリ勉くんになったの。」
「最初、ここに進学するのはお父さんの勧めで……とか言っていなかったかい?」
「……黙って最後まで聞いて!」
友雅が言葉を挟もうとすると、あかねは少し唇を尖らせてはねのけた。
「ホント、大変だったんだよ…。三日に一回は学習塾に通ったし、週末は家庭教師まで頼んでたの。毎月の模擬試験もかかさなかったし、放課後に特別にって学校の先生の講義とかも受けさせて貰ったりしたの。ここに私が入学できたのは、すっごい死にものぐるいの努力のたまものなんだから…」
あかねはこれまでの受験戦争体験記を、さも大変そうだったという口調で友雅に話した。
「お父さんもお母さんも、担任の先生も塾の先生も…家庭教師の先生まで『無茶するな』って言ってくれたんだから★でも……諦めたくなかったし…だからホントに…極限まで頑張って合格した状態だったんだから。」
友雅は以前に教員という自分の特権を用いて、あかねの偏差値や中学での学力データなどを見たことがある。
特別問題があるというレベルではなかったと思う。飛び抜けて優秀というわけでもないが、平均より少し高いか、というくらいで、一般的な学校で過ごすのならば、苦労などせずにいられただろう。
「そこまで無理をしなくても良かっただろう…。あかねの家からは遠いのに。近いところに公立の学校も私立校もあったと思うが……」 幼い頃から行き来したお互いの家だ。その周辺の地理の記憶ならしっかりと焼き付いている。
あかねの家のある駅近くには、この学校と同じくらいの有名校がいくつかあったはずで、そこなら登校するにも楽だったはずだが。
「ドンカン」
ぼそっ、とあかねのつぶやく声がした。
「ここじゃないとダメな理由があるからに決まってるでしょ!」
友雅は黙っていた。
あかねが少しふくれっつらでこちらを見上げる。その頬が、ほんのりと赤く見える。
「ともちゃんが…いたから……に、決まってるでしょ!」
開きかけた扉。隙間から差し込む光を遮ろうと、懸命に閉じようとした心の扉。
だが思った以上にその扉はもろくて、言葉一つで音を立てて崩れた。
そして……再び光が中に射し込んでくる。
扉が取り払われた心からは、溢れていたものが湧き水のようにせきを切って流れ出して行く。
「ともちゃんがここの学校にいなかったら……こなかったよ…」
やっと肩の緊張感が緩くなって、あかねが話を続けようとしたとき、友雅の腕の力がきゅっと強まってあかねの身体を抱きしめた。
「ともちゃん………」 ほのかなコロンの香りに包まれながら、あかねが友雅を見あげる。
視線がぶつかりあった。
強く、そして優しく。壊れないように、愛しさを込めた両腕で抱きしめたいと何度も想いながら戸惑った記憶が一瞬のうちに白紙になった。
「昔から……変わらないね…。ともちゃんの手のあったかさ…」
友雅の胸の中で、目を閉じて頬をすりよせる。
懐かしいぬくもり。小さい頃から、ずっと身近にあった優しい手。
「………私の負けだ。」
ぽつりと友雅がつぶやいた。
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