黄昏に瞳を閉じて

 第八章「FINAL DISTANCE」
既に窓の外には、門の近くに立つ街灯の明かりがふんわりと浮かんでいる。
午後7時が近くなっている。
会議が終わってから一時間ほど過ぎているのに、友雅はまだ校内から立ち去ることが出来ないで居た。

あかねが静かに眠るそばで、友雅はぼんやりとその姿を眺めていた。
その間、ずっと松下の言った言葉が頭の中から離れなかった。


-----『恋する女の子』と『大人の女性』の感情は同じもの。女の子は恋をしたとき、大人になるんです。-----


思えば、そんなことはしばらく前に気付いていたのだ。あかねがあの頃の少女ではなくなっていたこと。
いや、もしかしたらこの学校で再会したときに、既に気付いていたのかもしれない。
姿形が成長したと同時に、大人に近づいていたことを友雅は既に気付いていた。その証拠に、変わり行く彼女の輝きを気付くたびに、胸の中から立ちこめる何かがあったのだ。

だからこそ、わざとお互いの間に境界線を作っていた。自分はあくまでも彼女の教師で、そして彼女は自分の生徒。そして生まれたときから見守っていた兄と同じ立場の人間であること。
彼女が大人になったことを認めた時。それを喜んで受け止める心を持っていなくてはならない。
心を広くして微笑んで、『大人っぽくなったね』と普通に声をかけてやれば良いのに、口でそう言って見せても一度揺れた心の振り子は止まらなくなる。

自分の目の前に近づいてくるあかねを、愛おしいと思っていた。
幼い頃に感じた愛おしさとは違う愛おしさが、友雅の中に芽生えていたのだ。
越えられないラインのぎりぎりで、自分の心に戸惑う友雅が居た。
想いの行き先が決まらないまま、いつものように保護者のような顔をしてあかねを見て。だが、それもまた自分を締め付けて苦しめるだけのことだと知っているのに。

「君にとって、私はやはりお兄さんのような立場でしかないのかな……」
つぶやいてから友雅は、あかねの髪に手を伸ばした。
そっと撫でてやる。癖のないさらりとした髪が、指先をすり抜けていった。

「うー…ん……」
友雅の指先の感触に神経が気付いたのか、あかねはもそっと身体を動かして顔を上げた。うっすらと開いた目の隙間から、眩しい人工の明かりが入り込んで目を細めた。
「起きたかい?うたた寝をするには、この部屋は少し寒すぎるよ」
そんな声に上半身を起こすと、いつのまにか背中にかけられたコートがずれ落ちそうになる。あかねは慌ててそれをつかんで、手早く袖を通した。

「今日はレッスンはないはずだったけれど、こんな時間までここにいるっていうことは…何か用事でもあったのかい?」
「え…っと…用事……?」
用事は…ない。
そんなものは何もない。なのにどうしてここにいるのか。
------友雅がここに戻ってくるのではないか、と思ったから。職員室ではなくて、一番友雅のぬくもりが残っているここで。
「う…ううん、もういいや。別にたいした用事じゃなかったから…」
「……じゃ、いい加減に帰るとしようか。随分と遅くなってしまったからね。もう7時になるよ」

時計を見上げてみると、友雅の言うことが正しいことを確認できる。
この教室にやってきたのが4時半くらいだったと思う。それから…既に二時間以上もうたた寝してしまっていたのか。
「他の先生たちもほとんど帰っているんじゃないのかな。あまり遅くなったら警備員さんたちに文句言われてしまうからねえ……」
友雅はベージュ色のカーテンをひいて、窓から見える闇を遮った。
とたんに蛍光灯だけの明かりが部屋中に広がり、明るさが増したような気になる。
「ともちゃん、会議終わったばかりじゃないの?」
あかねが、ふとそんなことを言った。友雅は、準備室に鍵をかけた手を止めた。
「会議終わったばかりなら……他の先生たちだってまだ残ってるんじゃないの?」
あれから一時間が経っている。その間、次々と校内の明かりは消えていき、わずかに残る光の中の一つがここの音楽室の明かりだった。
「あかねが気持ちよさそうに眠っているものだから、起こすことが出来なくてね…ずっとそこでぼんやりしていたんだよ」
「何で…。一時間もぼーっとしてるなんて暇じゃない…」
「ん…まあ…松下先生の頼まれごともあったからね。暇というわけでもなかったけれど…」
そう言った友雅が座っていた目の前のデスクに、細かく記入されたピアノスコアが何枚も散らばっていた。赤いラインでチェックが書き込まれた楽譜達。
それを一枚取り上げてみると、どれもこれもがウエディングソングであることにあかねは気付いた。

「…これ、全部…結婚式で流れる…歌だよね……?」
「ああそうだよ。クラシックなら専門なんだけれど、どうしても彼女がお気に入りのポップスを使いたいっていうものだからね。ちょっとクラシック調にアレンジしてみようかと話し合っていたんだよ。まあ、さっき出来上がったものは渡してしまったけど、もう一曲途中のものがあってね。」

正統派の結婚行進曲と共に加えられていたのは、あかねも何度か聞いたことのあるラブソングだった。よく結婚式などに使われる、最近になって定番になりつつ歌だった。
「幸せを誓い合う二人のために使用するのだからね、断るわけにも行かないしねえ…。同じ職場の同僚として、知らぬ顔も出来ないだろう?」
あかねからその楽譜をそっと取り上げた友雅は、チェックを終えたスコアを机の中にあるホチキスでまとめた。
ふと、あかねの方を見る。不思議そうな顔をして、こちらを見ていた。

「松下…先生って……結婚するって…聞いたけど…ホントなの?」
「ああ、そうだよ。」
「その相手って…………」
「彼女の相手……か。うーん……これはあまり公にしないように口止めされているんだけれど。」
その名前がずっと聞きたかった。
みんながかすかに囁いていた。彼女の相手が………もしかしたら…と。
そしてその謎に、一番動揺を隠せなかったのがあかね自身だった。

「…教頭先生だよ」

想像したこともない答えが、友雅から返ってきた。
「教頭先生…って、う、うちの学校の……?」
「そう。彼女の恩師なんだそうだ。」
あかねはその現実に、今までと違った戸惑いを覚えた。
この学校の教頭である上森は確かに独身であるのだから、結婚したとしても問題はない。
しかし彼は50歳近い男であり、相手の松下は30代前半だ。一回り以上違う年の差で、しかも見た目も決して釣り合うとは言えない。
現代の正統派美人タイプの松下と、それなりの年齢を重ねて落ち着きを兼ね備えた男。
師弟という立場が一番似合う以外は何もない。

「似合わないと言いそうな顔しているね。」
あかねの表情を見ていた友雅は、その心の中で考えていたことを言い当てた。
「そう。確かにね、ちょっと見た感じは釣り合わないかもしれない。でもね、もう十年以上恋愛を続けていたのだから、他人がどう思っても彼らにはかまわないんだよ。」
「十年以上っ…って、松下先生と教頭先生って、そんなに前から付き合ってたの!?」
「私もここ最近になって知ったんだけどもねえ」
笑いながら昔のことを思い返して、友雅は彼らのいきさつをあかねに語り始めた。

「今から十二年くらい前、大学生だった松下先生は、当時その大学の附属高校で倫理を教えていた教頭先生に恋をしたらしい。昔からまじめな人で、それでいてぎすぎすしていない穏やかな人柄だったらしくてね。教育実習をきっかけに、その後も故郷から遠く離れた町で一人暮らしを始めたばかりの彼女を、とても優しく世話してくれたらしい。」

二十歳過ぎの娘は三十代半ばの彼に恋をした。
そしていつしか彼も彼女を特別な目で見るようになり、二人の間に恋愛感情が生まれた。

「でも、どうしてもっと早く結婚しなかったんだろ…何で今になって……」
あかねは当然の疑問を友雅に振った。
「彼女はね、一緒になりたいと思っていたらしい。教頭先生もそうだったのだけれど…丁度その頃にカナダの姉妹校からお呼びが掛かったんだそうだ。だが、卒業を控えた彼女は既に赴任先の学校が決まっていた。やっと決まった彼女の仕事を、結婚で壊すことが出来なかったんだと言っていたよ。」
彼も彼女も想いは同じだった。
だが、お互いを想うあまりに、相手の立場を優先すると一歩先に進むことが出来なかった。
彼女が苦労して教職免許を手にしたことを知っているからこそ、彼は結婚して向こうに連れて行きたいとは言えないで居た。

そして時は流れて……彼がカナダから戻り、そしてこの学校の教頭となった時。彼女はやっとこの学校に赴任することになった。
日本を離れていた間のブランクは、再会したときにすべて抹消された。
彼は地位も名誉もそれなりに手にした大人の男となり、彼女は一人前のキャリアを持つ教師となっていた。

離れていた間、互いのそばに誰もいなかったのは、まだ二人の恋が終わっていなかったからだった。
そして再び逢瀬を重ねるうちに、これ以上他人としての生活を続けたくなくなっていた。
例え年月が流れようとも、燃え始めた心は消えなかった。それを互いに確認したとき、やっと結婚の決断が出来たのだと友雅は言った。

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Megumi,Ka

suga