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時が止まったかのような錯覚にしばらく陥っていたが、予鈴の音が現実に意識を引き戻した。
我に返って。
あかねは顔を上げた。そして背中に伸びた手のひらの感触に気付いた。
友雅はあかねを見下ろした。そしていつのまにか彼女を包み込んでいる自分の手に気付いた。
「あ…ご、午後の授業が始まっちゃう……」
慌ててあかねが友雅の身体から離れると、ふっと彼の手が緩んで彼女の身体を解放した。
「遅れないように、急いで教室に戻りなさい。気分が悪かったら…保健室に行くんだよ?」
「う、うん…分かった。じゃ……ね」
さっと身を翻したあかねは、コートとランチボックスを抱えて音楽室を飛び出すように出ていった。
しばらくの間、廊下を走るあかねの足音が聞こえていた。それらもどんどんと小さくなり、いつしか耳で捕らえることは不可能となっていた。
午後の木漏れ日が窓辺に腰を下ろした友雅に注ぎ込み、足下まで長い影を作った。冬の気配はここにいる限り感じられなく、ただ暖かな光だけがそこにあった。
友雅は自分の手のひらを広げ、ぼんやりと眺めていた。そして、そこにまだ残っているぬくもりを消そうとしたが、いつまでたっても消えることはなかった。
「まいったな……」
独り言をつぶやいた友雅は、ぐっとその手のひらを握りしめて溜息をこぼした。
---どうかしてるな。あかねは…私の生徒で、そして生まれたときからずっと見てきた…。兄妹というより、父親と子供の関係にも近いというのに。---
それなのに……近づくと香り立つ異性の気配に驚かされる。そして…その香りに眩暈を起こしそうになる自分に戸惑いを覚える。
素直に笑顔を作る無邪気さは幼い頃のままで、めまぐるしく変わる表情もあの頃と変わっていない。
ただ背が伸びて、年頃の娘らしく成長しただけだというのに……。
美しくというよりも、愛らしく成長した姿がそこにあるだけなのに。大人になるにはまだ時間がかかりそうなあかねの現在の姿に、惹かれている自分に何度も気付く。
---妹…娘…教師……だろう?。何をのぼせあがっているんだろうな、私は。
越えては行けない最後のライン。
感情が例え前に行こうと動き出しても、フライングだけは許されない。飛び出してしまったら、やり直しはきかないのだから。
■■■
「ごめんねー。どうしても今日、メンツが足りないっていうから行かないといけなくって!ホントにゴメン!」
「良いよー、別に約束してたわけじゃないんだから気にしないで良いから。」
放課後、いつものようにルイと下校するつもりでいたあかねだったのだが、急にクラブの友達の合コンに誘われてしまったルイは、そちらに顔を出さなくては行けなくなってしまった。
「ねえ、だったらあかねも一緒においでよ?隣町の県立校の男の子たちって結構イケてる子多いよ?一人くらいなら多くなっても平気だからさ」
「え?あ、あたしは良いよ!そういうの…何となく苦手っていうかー」
あかねが何とかごまかしてやりすごそうとすると、ルイは笑ってあかねの鼻の頭を突いて笑った。
「ま、橘先生みたいに素敵な人はいないから、あかねのお眼鏡にかなう子はいないかもしれないけどね?」
「ちょ、ちょっとルイ!変なこと言わないでよっ!!!」
途端にあかねの顔がまっ赤に染まる。そしてドキドキと鼓動が乱れてきた。無気になって反論すればするほど、想いを肯定してしまう結果になることなど、今のあかねには気付くはずがない。
「じゃーねー。また明日ね!」
一人だけパニックを起こしていたあかねを取り残して、ルイは教室を出ていった。
「全く……ルイってば、いきなり変なこと言うんだからなぁ!」
あかねはブツブツ言いながらコートに袖を通して、バッグを手にして教室を後にした。
丁度向かいの棟の三階に会議室はある。部屋の明かりが付いていた。
---今日は会議だもんね……---
廊下を歩きながら、あかねはその部屋の明かりを目で追い続けた。
人影は見あたらない。奥歯っている部屋であるから、おそらく窓の近くにいる者はいないのだろう。
---どれくらいかかるのかな……終わるの、何時頃だろ……---
コートの袖に包まれた手首をめくりあげ、シルバー製の時計の文字盤を見る。現在の時刻は午後4時を10分ほど過ぎた頃だ。
冬の気配のせいで、もう日が暮れてくるのも早くなっている。5時になればかなり暗くなってしまうだろう。
このまま帰ろうか。何も用事はないのだから、寒くなるだけだしさっさと家に帰った方が良い。
なのに。足が別の方向に向かっていた。
薄暗い廊下を歩きながら…………辿り着いたのは、昼間の音楽室だった。
そっと戸を開けると、誰もそこにはいない。古い校舎は夕暮れになると更に不気味な感じがするものなのだが、何故か今のあかねにはそんなことも考えつかなかった。
あかねは教室の明かりをつけて、いつも使っているグランドピアノの前に腰を下ろした。
蓋を開けようとしたが、生憎と鍵が掛かっているらしい。勿論この教室の管理責任者は友雅であるから、彼が鍵を閉めたことは間違いない。
あかねは一人目を閉じて、ピアノにもたれるように顔を伏せた。
いつも友雅が弾いているピアノ。同じピアノを使っているのに、友雅の指が触れたとたんに、まるで絹のような艶やかでなめらかな音が流れ出す。
生まれたときから、ずっと聞いてきた音。生まれて初めて、好きになった音。友雅の奏でるピアノの音。
どんなに有名な楽団が奏でようと、どれほど名声高いピアニストが奏でようと、あかねの一番好きな音はずっと幼い頃から変わらない。
ずっと好きな音を探して、辿り着く最後の場所は……友雅の指先だった。
友雅のピアノの音が好きだ。友雅の奏でるメロディーが好きだ。
「………ちがうよ」
-------------そんなんじゃないよ。私が好きなのは…………。
胸が痛くて、苦しくて。それは間違いなく、恋の症状だ。
■■■
会議が終わったのは、午後6時を過ぎたころだった。学期末の予定と来年度の予定も加わり。思った以上に面倒な話し合いになってしまった。とは言え、その大概は友雅には無関係だったのだが。
「橘先生、例の曲目…決めて下さいました?」
教室を出ようとしたとき、友雅を後ろから呼び止めたのは松下だった。女性にしては背が高く、さほど友雅の目線も下降することはない。
「ああ…まあ、何とか。三曲ほど見繕ってみましたよ。無難なところで落ち着いてみましたがね。」
「フフ、橘先生ならびっくりするような選曲をしても、誰も驚きませんよ。」
友雅と松下は談笑しながら廊下に出た。
「じゃあ楽譜をお渡ししますよ。一緒にいらっしゃいますか?」
そう言うと、友雅は松下を連れて古校舎の方へ続く階段を上がっていった。
音楽室のある階まで上がって、ふと友雅は足を止めた。
「どうかなさいました?」
後ろにした松下も足を止め、友雅の次の行動を待った。
音楽室から明かりが漏れている。誰かが教室の中にいる。こんな時間に古校舎の明かりがついているなんて、この教室以外にはなかった。
………もしかすると。
友雅はそっとドアを開けた。
広い教室には誰の姿もない……はずだったが、たった一人ピアノにもたれるようにして眠っている生徒がいた。
「あら……」
友雅の肩越しからのぞき込んだ松下は、無邪気に眠るあかねの姿を見つけて、微笑ましく笑った。
「待ちくたびれてしまったのねえ…」
「困ったな…今日はレッスンの予定はないんだけれども……」
髪の毛を掻き上げながら苦笑する友雅に、松下は言った。
「何を言ってるんですか。レッスンのためじゃないでしょう?。あなたのことを待って、待ちくたびれたんですよ、彼女は」
松下のその言葉に、友雅の胸の中で何かが揺れた。
彼女はピアノの後ろから、寝息を立てるあかねを眺めて微笑む。
「いじらしい女の子の感情…ですね。ホント、可愛らしいこと……」
「風邪をこじらせたら大変だっていうのにね…全くそれも気付かないんだから、まだまだ子供ですね。」
松下の向かい側からあかねを見下ろすように友雅はつぶやいた。それを再び松下がたしなめるように口を挟んだ。
「あら…橘先生、『恋する女の子』と『大人の女性』の感情は同じものですよ。女の子は恋をしたとき、大人になるんです。知りませんでした?」
また、友雅の胸の中で何かが揺れた。
「楽譜だけいただいて、私は先に職員室に戻りますね。せっかくなのだから、目が覚めるまで付いていてさしあげては?」
彼女に言われなくとも、このままあかねを置き去りにして友雅が教室を後にすることなど出来るはずがない。
友雅は準備室にある机の引き出しから、ピアノのスコアを取り出して松下に手渡すと、彼女はそっと足音の忍ばせて教室を出ていった。
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