黄昏に瞳を閉じて

 第六章「本当のせつなさ」
制服に着替えてからも、朝からほてった頬の熱は冷めない。友雅の指先が触れていた部分が脈打っている。
落ち着いて、何でもないように……おはよう、と言えば良い。
いつも学校で挨拶するように……。
鏡の前に立って深呼吸をしてから、あかねは部屋を出てダイニングルームへと降りた。

「まったくあんたは、先生よりも遅く起きてくるなんて、良い度胸してるわねえ!」
うっすら良い色味に焦げたトーストの香ばしい匂い。コーヒーのほろ苦い香り。
庭に続くガラス窓からは朝日が差し込んでいる。
父親の読んだ新聞は折り畳んでおいてあるが、それに手を伸ばすしなやかな指先。

「おはよう、と言うには少し遅いかな?早く食べてしまわないと電車が一つ遅くなってしまうよ。」
背中に注がれる日差しのせいなのか、それとももっと他の意味があるのか……いつもなら普通に見ていられる友雅の微笑みが異常なまでに眩しく感じる。
そしてそれと同時に、やっと落ち着かせた鼓動が再び揺れ動き出すのが分かった。どうにか平静を保てたというのに、これじゃまた元通りだ。

「冷めてしまってはトーストもコーヒーも美味しくないよ。」
はっと我に返って、あかねは友雅の顔を見る。
あちこちが不整脈だらけになっているあかねとは反対に、友雅の表情はいつもと全く変化もない。落ち着いていて、そしてどこか余裕を携えてリラックスしたムード。
「……い、いらない。食欲ないのっ。」
「何言ってるのよ、まだ食べるくらいの時間はあるでしょう?」
母が半分後かたづけを始めながらあかねに言う。
時計は7時を過ぎた頃。いつも家を出るのが7時45分ごろであるから、まだゆっくり朝を過ごせるはずではあるのだ。
だが………。

「ちょっと……友達に借りてたもの返さないといけないからっ…ともちゃん、先に行くねっ!」
「待ちなさいよ!ちょっとあかねっ!?」
背後から母が止めるのも聞かずに、バッグを抱えたあかねは玄関を飛び出した。
あのままいつものように、友雅の隣に腰を下ろしていたら…それこそ呼吸が止まって倒れそうだっただろう。

-------どうしよう……これから、どうやってともちゃんと話せば良いの…。
息を切らして走ってきたからではないあかねの胸の律動は、揺れ動いたまま落ち着きを取り戻せないでいた。


「友雅くんはまだ良いの?先生の方が色々と支度が忙しいんじゃないの?あかねと一緒に行けばいいのに。」
二杯目のコーヒーをカップに注いだあかねの母が、新聞を広げた友雅に言った。
「いや、時間をずらした方が都合良いでしょ。何せ年頃の女生徒の集まりですからね、うちの学校は。全く家の方向が違うのに、二人で一緒に登校したりしたら格好の噂のタネになって大騒ぎになってしまいますから。あれくらいの時期の女の子たちは、思っている以上に噂話の連絡網が発達しているようなので、注意しないとあかねも困るだろうしね」
そう笑いながら答えて、友雅は新しいコーヒーを口に運んだ。
すると、あかねの母は丁度友雅の向かい側に腰を下ろして、ほおづえをついて顔をのぞき込むようにしながら言った。

「ねえ友雅くん、ちょっと話したいことあるんだけど良いかしらね?」

■■■

今日、音楽の教科が組み込まれていなくて良かった、とあかねは思った。
友雅と普通に顔を合わせて話すことが出来るようになるまでは、もうしばらく自分を落ち着かせる時間が必要だろう。毎週水曜日の放課後は友雅も職員会議があるため、ピアノのレッスンも休みになる。
本当に今日が水曜日で良かった……と、ホッとしたのも一瞬だった。

昼休みのチャイムが鳴り、あかねはいつものように財布を片手に購買部へ出掛けた。
適当に飲み物とサンドイッチを抱えて、教室に戻ろうと職員室の前を横切ろうとしたとき、後ろから腕を軽く引っ張られた。
無意識のうちに背後を振り向く。

「朝食も食べないで出掛けたっていうのに…それっぽっちの量で足りるのかい?」
緩やかに束ねた豊かな長い髪が、肩から流れ落ちるようにわずかに乱れている。彼の手は、あかねの腕をしっかりと掴んでいた。
そして今度は自分があかねの前へと踏み出して、軽く引っ張り上げるように歩き出した。
「これからお昼だろう?一緒に音楽室においで」
「えっ……ちょ…あ、あたし…ルイと一緒に食べる約束が……」
くるりと友雅が振り返る。
「おしゃべりなら放課後が空いてるだろう?今日はピアノのレッスンもないのだから、授業が終わったらゆっくり話せば良い。」
……本当は特別にそんな約束をルイとしたわけではない。だから、このまま友雅と一緒に音楽室に行ってしまったとしても、咎める者はいないだろうと思うのだ……けれど。

握りしめられた手が熱い。まるで心臓が移動したかのように、鼓動が友雅の指先に伝わってしまうのではないだろうか…と不安になる。
そして、そう思うたびにまた、触れている手が熱くなる。


音楽室は古校舎の奥にある。
こんなところに好きこのんで昼休みを過ごしに来るものはいないために人気もわずかだ。そのせいでひっそり静かな空間が古めかしい佇まいに溶け込んで、ゆっくり過ごすには良い雰囲気だ。
いつもだったら、友雅とこうして二人で昼食の時間を過ごすことも普通だったのだが、今日はそうも行かない。
あかねは窓際の座席に腰を下ろす。友雅はグランドピアノの裏にある準備室に一度向かってから、すぐに戻ってあかねの前の席に座った。

「忘れ物だよ。コート。そんな格好で夕方帰ったら風邪を引くって昨日も言ったのを忘れたのかい?」
バーントシェンナのダッフルコートは、友雅の手に抱えられてあかねの前にやってきた。毎年寒くなると必ず着ている、愛用のコートだ。
それに続いて、小さなギンガムチェックの布袋を取り出す。大人の男の友雅には不釣り合いなほど、その形は丸みを帯びて可愛らしい。
「それと、お弁当も預かってきたよ。せっかく栄養もいろいろ考えて作ってくれてるんだから、そんなものじゃなくてこっちをちゃんと食べなさい。」
そう言って友雅は、あかねが買ってきたサンドイッチを取り上げて、母から預かってきたあかねのランチボックスを差し出した。

「どうかしたのかい?いつもの元気はどこに隠れてしまったのかな」
食の進まないあかねを見て、友雅が言った。

----誰のせいで元気がないと思ってるのよぉ………。

声を殺して、何度も心の中で繰り返し大声でそう叫んでいるが、友雅には気付いてもらえないだろう。
友雅が結婚するんじゃないか、という噂だけでも混乱して普通の状態でいられないのに………今朝、瞼の近くに感じた友雅の吐息の感触が、今もまだ忘れられなくて。

いつのまにこんなに……こんなに好きになってたんだろう。
友雅の行動のひとつひとつが、つながった糸を引っ張られるように胸に衝撃を与えて…じっとしていられなくなる。
一体いつから……?小さい頃から……?
『子供』と『青年』だったお互いが時間を重ねて、年令だけはあの時の友雅に近づくことが出来たけれど…その分友雅は先に行ってしまった。手を伸ばしても…届かない距離にいるのだろうか。
瞼に感じた吐息だけで、こんなに心が乱れているのに。彼にとっては大人の悪ふざけの一つなんだろうか。
こんなに……好きなのに。

「きゃあっ!」
びくっとしてあかねは身を引いた。急に額に手のひらの感触が伝わったせいだ。もちろんその手のひらは、さっきまであかねの手を引いていた彼のものだ。
「な、何するのっ…い、いきなりっ…」
「いや…本当に風邪でも引いたんじゃないかと思って、熱でもあるのかと…」
「そ、そんなことないよっ…な、何でも……な…っ………!」
足下をぐらつかせながら、何とか身をよじらせて後ずさりしようとするあかねの肩に、友雅の両手が伸びた。
大きな手のひらの感触に、今まで感じたことのない鼓動の揺れを感じた。

背中には窓ガラスがある。日差しが制服の上からも感じられて暖かい。
だけどそれよりも熱い…肩が焼けるように熱い。友雅の手のぬくもりに、溶けてしまいそうになる。

二人だけの空間が、ここにあった。誰も、いない。何も聞こえない。聞こえてくるのは自分の鼓動だけ。
向かい合って顔を上げる。目線のほんの少し上に、友雅のあごがある。
年令を重ねるうちに身長は伸びて、少しつま先をたてたら…………。友雅の唇を見て、また胸が早く鼓動を打つ。
「じっとしてなさい」
静かな、穏やかな声がする。そしてもう一度、そっと友雅の手があかねの額に触れた。

熱なんか、ない。風邪なんかひいてない。
だけど……だけど熱は……上がる一方。
全然下がらないよ…………。今にも倒れそうだよ………。

ふっとどこかの意識が途切れたのか、あかねは自分の身体が意識から解き放たれたような気がした。
そして気付くと……友雅の胸に飛び込んでいた。
「やっぱりどこか……具合悪いのかい?」
友雅が尋ねるが、あかねは首を横に振った。
「午後の授業はどうする?早退するかい?」
「……ううん…平気……」
あかねはそう小さくつぶやいたが、再び友雅の胸に顔を埋めた。

ぬくもりが変化している。
あどけなく無邪気な、まるで洋菓子のようなぬくもりとは別物だった。
今、友雅の手に、そして胸に感じているのは、幼いころに感じた懐かしさよりも…………。

その甘さに麻痺でも起こしてしまったのだろうか。
友雅の手は自然に動き、あかねの背中に緩やかに伸びて、その身体を包むように抱き込んでいた。


***********

Megumi,Ka

suga