黄昏に瞳を閉じて

 第五章「無邪気な関係」(2)
あまりに車内の暖房が心地よかったのか、それともなだれかかった友雅のぬくもりが暖かかったのか、気付くとあかねは眠っていたらしく、家に辿り着いたことを友雅の声で教えられた。
「それじゃ、私はこれで失礼す……」
あかねだけを外に下ろして友雅は自分のマンションへ戻ろうとしたのだが、タクシーのエンジン音とヘッドライトに気付いて、家の中から出てきたあかねの両親たちに半ば強制的に家に立ち寄ることになってしまった。

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「一人暮らしなんでしょう?だったら夕飯でも食べに寄れば良いのに」
家に上がったとたん、笑いながらあかねの母に愚痴をこぼされた。後ろに立っていた父親も、黙って頷く顔は微笑んでいる。
心から友雅の来訪を受け入れてくれているのが分かった。
「これでも教師なもので、なかなか早く帰宅するわけにもいかないんですよ。」
「そんなこと言って…男一人じゃたいした食生活も出来ないでしょうに?それともいい人がいるのかしら?」
着替えてリビングに降りてきたあかねに、母のそんな言葉が耳を貫いた。
友雅がどんな風に答えるのか。それを聞かないうちは足が先に進まない。心音は早くなって、耳からこぼれ落ちてきそうなほどに大きな音を立てている。

「悲しいかな、そんな甲斐性のある男でもないんで…。わびしい男一人の生活というのは反論できませんがね。」
「あらま、よく言うわねえ。あかねから聞いてるわよ、学校では随分人気があるって。」
「独身男が珍しいんでしょう。だから人目を引くだけですよ」
母親と友雅の明るい雰囲気がやっと空気を和ませてくれて、あかねはリビングに降りることが出来た。
テーブルには来客用のティーカップと共に、あかねの愛用のマグカップに紅茶が注がれている。
友雅の隣のソファに腰を下ろして、カップに手を伸ばそうとしたと同時に、友雅がミルクパウダーの入ったポットをあかねの方に差し出した。
「ミルクをスプーンに大盛り三杯。変わっていないかな?」
「えっ!覚えてたの?」
「そりゃ、ずっと一緒だったからねえ。やけどなんかしたら大変だと思って、いつもお茶の支度をしたのは私だったし。もちろんあかねの分も用意していたからね。」
小さい頃から、ミルク三杯。さすがにシュガーの量は減ったのだが、ミルク多めなのは未だにあかねの好みの紅茶だ。それを知っているのは昔から親しい人しかいない。
「じゃあ…ともちゃんは、まだ角砂糖一個……?」
「そうだね。」
「コーヒーだったら…ミルク1杯に角砂糖一個半?」
「さっきはエスプレッソだったけど。でも一番好きなのはやっぱりそれかな。」
いつも友雅が飲んでいるのを見ていたから、その映像を記憶の中にしっかりととどめられている。
今だったら豆の種類や紅茶の葉の種類まで分かるだろうが、小さいころではそこまでは無理だ。
それでもどんな風に彼がいつも飲んでいたか、思い出そうとすれば驚くほど覚えている。
それだけ……一緒にいたのだ。同じ時間を、一緒に過ごしたのだ。同じ場所で。


「じゃ、そろそろ帰ろうかな。これ以上生徒の寝不足の元にはなりたくないしね。」
そう言って友雅が立ち上がった。時計を見ると、既に11時も過ぎている。
「待ちなさいよ。ここからどれくらいかかるの?」
あかねの母に呼び止められて、友雅は推定で頭の中で交通事情を考える。ここから駅まで歩いて15分程度。そこについたとき…終電に間に合うかは微妙だ。
「タクシーでも拾って帰りますよ。どうせこの時間じゃ渋滞もしていないし。」
多分駅からタクシーを使えば、何とか午前様にはならないだろうと思う。

「ねえ、久しぶりなんだから泊まっていけば?」
いきなり母がそんなことを言った。一番驚いたのは友雅本人ではなく、隣にいたあかねの方だった。
持っていたカップが手から滑り落ちて、もう少しでカーペットに染みを作ってしまうところだったが危機一髪で受け止めることに成功した。
「あなた、着替えとか何着か置き忘れて出て行ったのよ。多分押し入れあたりにあると思うから。どうせ昔は住んでいたところなんだし。朝はあかねと一緒に出掛けてくれれば、この子も遅刻しなくて済むし。」
「お、おかーさんっ!何を言い出すのよっ!」
嬉しいのか困っているのか、自分でも全く分からない状態のパニックに見舞われて、取り敢えずあかねは母に詰め寄ったが、当の本人である友雅は冷静な表情を崩していない。
「……じゃ、今日は学生気分に戻って、ゆっくりさせてもらおうかな」
そう言って友雅が微笑んだおかげで、あかねは明け方までどきどきして眠りにつけなかった。

昔みたいに一緒に眠っているわけでもないのに。
自分は二階の部屋で、友雅は下の客間で寝ているのに、この家に友雅の存在があるということだけが気持ちを高ぶらせる。
ずっと気になっていたことなど忘れてしまうほどに、心が目の前にいる空気に包まれて落ち着かなかった。

■■■

目覚めたときに、いつもと違う雰囲気を肌が感じ取った。
それは決して嫌な感じではなくて、どこか懐かしく暖かい空気だった。そして起き上がって周りを見て気付く。若い頃を過ごした家に、今日は戻っているのだと。
乱れたままの髪の毛を軽く後ろで束ねて、庭に面した廊下に出る。朝日がさんさんと差し込んで、客間としてはとても良い日当たりだ。
元々住んでいた家なのだから、何がどこにあるのか記憶は残っている。洗面所に向かおうと部屋を出ると、朝食の支度をしているあかねの母の姿が目に入った。
「あら、おはよう。さすがに先生ともなると起きるのが早いわね。」
「遅刻は出来ないですからね。生徒の手前もありますしねぇ。本当はゆっくり寝ていたい気もあるんですがね」
朝の暖かい食卓の香り。もう何年こんな空気を味わっていないだろう。
「そうだ、先生の立場で寝坊の生徒を起こしてきてくれないかしらね。それまでに朝ごはん用意しておくから。」
「……私が?」
友雅は一応尋ね返してみた。あかねの母はうなづいて上を指さす。まだあかねは起きていない。
「よろしくね。」
そう言って再びキッチンに消えていったが、友雅は一人階段の前に佇んで苦笑した。
「分かって言ってるのかねぇ……年頃の娘の部屋に男が立ち入るってことに。」
勿論そんなやましい想いはないが、現実は十六〜七の大人に近づいている少女と、世間を理解出来るようになった大人の男であることには変わりはないのだ。


取り敢えずあかねの部屋の前に立って、軽くドアをノックしてみる。それに反応がないと声をかけてみることにした。
「あかね…そろそろ支度した方が良いんじゃないのかい?遅くまで寝ていると、ゆっくり朝食も食べられないよ?」
それに続いてもう一度ノックをしてみたが、まったく反応は返ってこなかった。
……仕方がない。
友雅は思い切ってドアのノブを掴むと、そっと内側に押し開けた。

チェリーピンクのチェックのカーテンが窓の光を遮って、部屋の中はまだ薄暗いままだった。
友雅がこの家に住んでいた頃にはまだあかねは自室を持っておらず、両親と一緒に寝ているのが殆どだった。
故に友雅にとってこのあかねの部屋だけは、この家で初めて見る未知の空間だった。
およそ6畳から7畳くらいの洋間。白木のクローゼットとデスク、テーブル。彼女のイメージに似合う、暖かな深みのあるピンク色が多く目立つ以外は、シンプルにまとめられている。
そしてあかねは、まだベッドに横たわっていた。普段セットしている目覚まし時計よりも時間が早いのだから、しばらくは自然に目を覚ますことはないだろう。

友雅は静かにベッドのそばに近づいた。
枕に顔をうずめたままで、あかねは閉じたまぶたをまだ開かせようとしない。ぐっすりと眠っているのを起こすのは可哀想な気もしないでもないが、教師が着いていて遅刻させるわけにもいかない。
そっと指先を伸ばして頬にかかる乱れた髪の毛を払ってやろうとすると、あかねの枕元のフォトスタンドが目に止まった。白いフレームの中に古ぼけた写真が一枚飾られている。

…………一体何歳くらいの頃の写真だろう?。
自分では殆ど記憶にないが、一緒に写っているあかねの姿を見ると、多分幼稚園に入り立ての頃かもしれない。
友雅の記憶に一番深く刻まれているのは、いつも自分の後を着いて回っていた、この小さな少女の姿だ。
それが気付くといつのまにか、一人前の女性に少しずつだが近づいている。
横たわる寝顔は無邪気な子供の面影を残しているが、友雅がかがまなくても話せる程度の身長になり、大人びた会話を仕掛けるようにもなって。
目の前の少女はどんどんと大人になる。
ふと、この間のあかねの言った言葉が浮かんできた。

「綺麗に成長してくれたよ、本当にね…………」

独り言のように、ぽつりとつぶやいた。長く伸びた睫毛が瞳を閉じさせている。
手を付いたマットがきしんで、かすかに音を立てる。
そしてその睫毛に唇で触れようとした瞬間--------友雅はゆっくりとベッドから離れて溜息をついた。

……眠気が覚めていないのは私の方か。何を考えてるんだ……
自分の無意識の行動に戸惑いながら、そしてそれを苦笑してごまかそうとした友雅は立ち上がって髪をかき上げた。
「目を覚まさなければいけないな…」
そうつぶやいて、友雅はあかねの部屋を出た。

-------その間、あかねが息を殺して眠ったふりをしていることがどれほど苦しくて、どれほど胸が破裂しそうになっていたか、多分友雅は気付かなかっただろう。
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Megumi,Ka

suga