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家にあるピアノは、最近になって何年ぶりかに調律を済ませた。
殆ど誰も弾かなかったので誇りを被っていたところだったが、あかねが友雅の指導を受けるようになってから、またその音を響かせることが出来るようになっていた。
学校で友雅に教えてもらったことを、何度も家に帰ってから復習してみるが、なかなかうまく行くことがない。
本当にこんなんで受験がうまく行くかどうか、あやしいところだ、と自分でも思った。
それに加えて余計な雑念まで混じり合って、どうも指先の神経が集中出来ないでいる。
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駅から少し離れているが、家賃はさほど安いとは言えない。
設備は普通のアパートやワンルームマンションと変わらないが、ネックになっているのはピアノだ。
仕事柄、手元に置かないわけには行かないし、弾かないわけにも行かない。そのためには防音設備が第一条件となる。そのおかげで、間取りにしてはやや割高の部屋に住むことを余儀なくされている友雅だった。
まあ、若干だが住宅手当というものが学校から支給されているせいで、生活苦を強いられているわけではないのだが。
やや広めのリビングにはグランドピアノ。留学先の恩師が、帰国の先に餞別にとくれた、スタインウェイだ。
学校でも毎日弾いているのに、家に帰ってからも弾かないことはない。
ただ、課題曲を弾くことは殆どない。
いつも、ふと思い出したように昔聞いた歌を弾く。それらはウィーンにいたころに課題として弾いた曲だったり、高校時代に何度も練習した曲だったりする。
楽譜がなくても指先が記憶している。動きに戸惑いを覚えることはなかった。
今、友雅が奏でている曲は高校時代に弾いていた曲だ。タイトルはもう覚えていない。あかねの家に世話になっていた頃に弾いていた一曲だ。
確かあの頃あかねは幼稚園に入ったばかりで、初めて覚えた童謡を彼の目の前で何度も歌ってみせたりしていた。
時々その歌にピアノで伴奏をつけてやったり……まるで保育園か幼稚園の先生のようだったな、と、昔の自分の姿を思い浮かべると彼は苦笑した。
人付き合いもさほど上手いわけでもなく、ましてや子供の扱いなんて苦手の部類に入る。
それなのにあかねだけは突き放せなかったのは、生まれた頃から見届けてきた自分の中に父性愛のようなものがあるからだのだろうか。
と、その時、友雅の指がいきなり止まった。何故だか、そのあとのメロディーが全く思い出せなくなった。
こんなことは希なことで、曲に対しての記憶力には自信があったはずなのだが、どうしてなのかここから先のメロディラインがぷっつりと切れている。
とはいえ楽譜など手元にあるわけもなく、その記憶をはっきりと浮かばせる手がかりはない。
こだわるようなことではないのだが、どうも気分がすっきりとしない。中途半端なところで切れてしまった糸が手持ち無沙汰に揺れているのが心地よくない。
あの頃の曲を知っている人がいるとしたら。
それはたった一人しかいない。
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調子の乗らないピアノを諦めて、あかねはリビングに戻った。テレビには流行のタレントが数人、他愛もない話題を中心に盛り上がっている。たいして面白いわけではないが、流しっぱなしには適度な代物なので、あかねはソファに腰を下ろしてぼんやりブラウン管を眺めた。
そのとき、軽い電子音が部屋の中に響き渡った。電話の音だ。あわてて受話器を取りに行く母の足音が聞こえた。
「はい…あら、お久しぶりねぇ。いつもあかねがお世話になっちゃって………」
何やら妙に親しげに電話の主と話している母だが、あかねの方をちらりと見てから手招きをする。ソファから立ち上がって近づくと、受話器を手渡された。
「電話よ。友雅くんから」
あかねはびっくりして受話器を耳に当てた。
「もしもし?夜遅くに電話したりして悪いね」
「そ、そんなことないけど……ど、どうしたの!?電話なんて……」
「いや…たいしたことではないんだけれどね。あかねに聞きたいことがあってね」
母はあかねに受話器を渡してから、すぐにキッチンへと戻っていってしまった。電話の置いてある廊下は少しだけ肌寒い。
「昔、あかねのところにいた頃によく弾いていた曲なんだけれど、どうも思い出せないものだから…。あかねなら知っているかなと思って電話してみたんだけれどね」
「ともちゃんが弾いてた曲?……どんなの?」
「うーん………こんな感じ…かな?」
友雅は受話器をピアノの鍵盤の近くに寄せて、片手でメロディラインだけを弾いて聞かせた。
聞いたことのある懐かしい音が、電話を通じて流れてくる。
「あ、ちっちゃいころに聞いた……」
「うん。だけど、ここから先がね、思い出せないんだ。あかね、分からないかい?多分君が幼稚園に入ったくらいの頃だったと思うんだけれど」
そう、確かにその頃に聞いていた音だ。
毎日のようにあかねが友雅にせがんで、弾いてもらっていた曲だ。
「たしか……♪♪♪♪……じゃなかった?」
あかねが受話器の向こうで、メロディをかいつまんで唇で奏でた。ふっと浮かび上がってくるメロディ。昔の記憶と同時に。
「ああ、やっぱり聞いてよかった。思い出したよ…ありがとう」
「良かった。でも…なんでそんな昔の曲のことなんて気になったの?」
「うーん……ま、気まぐれに思い出して弾いてみたんだけれど、ついど忘れしてしまってね。でもこれで全部思い出したよ」
友雅はあかねにお礼を言って、その電話を置いた。
電話が終わったあと、もう一度あの歌を口ずさんでみる。幼稚園の頃、繰り返し覚えた歌。
あれっきり歌ったことなんて全然ないけれど、全然忘れないのは…その時の情景が鮮やかだからかもしれない。
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次の日の放課後、あかねはいつものように友雅の待つ音楽室に向かった。
夕日が傾く時刻、廊下はうっすらと闇に包まれてくる。
がらり、とドアを開ける。ピアノの前に座っている友雅が、こちらを向いた。
「いらっしゃい。夕べは悪かったね、いきなり電話なんかしてしまって」
「ううん。でもびっくりしたよー。お母さんも久しぶりだってあとから言ってた。たまには遊びに来たら?って」
「そうだねえ…ずいぶん顔を出していないから、電話は失礼かなと思ったんだけれど、あかねの携帯の番号は知らないもんでね」
友雅がそう言ったとたん、あかねの人差し指が目の前に差し出された。少し勝ち誇ったような表情で、彼女の目が彼を見つめる。
「今、まだ学校なのにあたしの事『あかね』って言った!『元宮』と『橘先生』じゃないといけないんじゃなかった!?」
あかねに言われて、友雅はふとした自分の失態に頭をかきながら苦笑する。
「……参った。じゃ二人の時はOKってことにしようか…」
あかねは笑顔でうなづいたが、そういう友雅も彼女を名前で呼ぶ方が気楽ではあるのだ。
そして、先生という肩書きで呼ばれるよりも、昔と同じように呼ばれる方が…本当は心地よい。
友雅のそばにあかねがやってくると、いつもなら立ち上がってピアノ椅子を彼女に譲る。
だが、今日は何故かそんな気分にならない。
「せっかくだから、昨日の思い出した曲、弾いて聞かせようか」
「え?でも練習あるのに?」
指先でひとつ鍵盤を押してみる。透き通ったピアノの音が響いた。
「特別に。もう一度弾いてみないと忘れそうだからね」
そう言って友雅はひとつ深呼吸をして、両方の手のひらを鍵盤の上に乗せた。数本の指が白と黒のキーを叩き、懐かしいメロディーを生み出していく。
あかねはピアノにもたれながら、ずっと友雅の横顔をぼんやり眺めながら耳を傾ける。
……昔、こうしてともちゃんのピアノ、聞いていたっけ。覚えたばかりの歌とか、絵本を持ってきて弾いてもらって一緒に歌ったりして。
先生の弾くピアノより、ともちゃんのピアノの音は優しくって大好きで……思えば私の子守歌って、ともちゃんのピアノの音だったかもしれないな……
そう。そんなに小さい頃からずっと一緒にいてくれた。
だから、家族と言ってもおかしくないくらい近い存在で。
だけど、この学校に来て久しぶりに会ったともちゃんは、あの頃の印象と殆ど変わっていなかったけれど、私はどうだっただろう?
高校生になった私を…ともちゃんはどう見ただろう。少しは…大人になったと思ってくれただろうか。
「ともちゃん……私がこの学校に来たとき、どう思った?」
友雅はあかねの声に、鍵盤を押す指を止めずにそのまま視線を傾けた。
「いきなり妙なことを聞くね。何かたくらんでいるのかな…?」
「そんなんじゃないけど。ただ…何となく。ほら、小さい頃会ったきりだったから、少しは成長したかな〜って…」
途端に友雅の指を動きが止まって、軽く吹き出すようにして笑った。
「何よそのリアクションは〜っ!」
姿勢を正してあかねは友雅の肩を軽く叩いた。それでも友雅は笑いを止めない。
「どう答えて欲しい?綺麗になったね…とか言ってもらいたいのかい?」
……そう率直に言われても、きっと友雅のことだから、からかっているだけなんだろうし。
でも少しくらい思ってくれていても…。
「女の子だねぇ。そういう変化を気づいて欲しいっていう感覚は。」
友雅はそう言って、優しくて甘い視線をあかねに向けた。
鼓動が揺れ動く。
「そういうことを気にするほど、成長したということだね。可愛らしい女の子から、少しずつ立派な女性になって行くんだね」
その言葉のあと、さっきつまづいた部分からメロディが再び奏で始められた。
本当は……どう思ってる?
私は、あなたの立っている距離に近づいている?
『女性』になるために歩き続けている少女の一番気になることは、彼の目に映る自分の姿だ。
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