黄昏に瞳を閉じて

 第三章「せつない瞳」
その朝、学校に行くと生徒達がざわめいていた。どうやら噂話をしているらしいのだが、賑やかすぎて全く後ろめたい雰囲気はない。
「あ、あかね!知ってる?松下先生の事!」
隣のクラスのルイが、昇降口から上がってきたあかねを見つけて駆け寄るなり、そう言った。彼女はあかねと同じように外部入学生で、一年の頃に同じクラスだった縁もあり親友となった。
「松下先生?英語の?どうかしたの?」
「何かね、来年結婚するんだって!でね、年内で学校辞めるんだってー!」
「へえ……そうなんだぁ」

松下はあかねたちも世話になっている英語の女性教諭だ。32才という年令だが独身で、比較的校内の教師達よりは友雅と並んで若い年令になるため、同性ということもあってか生徒達には人気があった。

「で、それで…どうしてこんなに騒いでるの?」
あかねはルイに尋ねた。
ルイはこそこそとあかねに近づき、耳打ちをするように小さな声で言った。
「あのね……どうやらその相手が…橘先生…なんじゃないか、って噂なのよ」

--------バタン。あかねの手から、バッグが廊下へと落ちた。手から力が抜けたからだ。

「誰から出てきた噂か知らないんだけど、どうやら松下先生『オフィスラブ』してたらしくてね。相手はこの学校の先生だっていうんだよね。でもさ、松下先生が32才としたら…釣り合う年令なんて橘先生しかいないじゃない?」
校内の教師たちは、殆どが熟年を過ぎた年令だ。男女共に50才前後である。そんな相手に松下くらいの年令の女性が、恋愛感情を抱くなどあり得ないと言って良いだろう。
そうなると………。
ルイが言った言葉が、ぐるぐるとあかねの頭の中で回る。
「誰か……見たの?先生と…一緒にいるところとか…」
あかねは一生懸命に平常心を装って、尋ねてみる。
「んー。はっきり見たってわけじゃないみたいだけど、時々お弁当二つ持ってきてるとか…ね。でも、前に橘先生が宿直当番で遅くまで残ってたとき、お弁当貰ってるところ見たって人が………」
「……うそ」
力の抜けた手の指先が、今度は少しだけ震えてくる。
「さあ…私はそれ以上は知らないけど。でもそうなら…橘先生が相手だったら、何となく二人ともお似合いだと思わない?年齢的にもさぁ。悔しいけど。」
ルイは二人が揃って歩く姿を浮かべて、うんうんとうなずきながら納得している。
だが、あかねはとてもそんな気持ちにはなれなかった。
…思い浮かべたく…なかった。
二人並ぶ姿が似合いすぎることが分かっていたから。

「あかねさぁ、機会があったら橘先生に聞いてみてよ、真相」
「………真相……?」
「そ。ホントに松下先生とそういう仲なのか?って。本人から直接聞けば間違いないし。あんたが一番先生に近い存在なんだからさ。それ聞いたら……アタシたちも泣く泣く橘先生諦めるからさ〜」
そう言ってルイは、ため息を付いた。
あかねは……胸の中に立ちこめるもやもやが、一層濃くなってゆくばかりだった。

■■■

年令はどれだけ時間が過ぎて行こうとも、距離を縮めることなど出来ない。いくら早く走っても追いつかない。相手は自分が近づく分、更に離れていってしまう。
常に、二人の距離は一定の時間のままで変化しない。

「今日からは新しい課題曲だ。予習はしてきたんだろうね?」
「…………………えっ?」
はっとして顔を上げると、友雅が少し呆れたようにこっちを見ている。
「集中力散漫だね。何度も言うけれど、そんな状態じゃ受験しても意味がないよ」
「ご、ごめんなさい…ちょっと考え事…してて」
あかねが頭をかいてそう言うと、友雅は静かに笑った。
「あかねくらいの年頃は悩み多き年頃だから、それもまたとやかく咎めるつもりなどないけれど…。でも、私が教える時間は、少し気合いを入れて貰わないと困るよ」
「ごめんなさい……」
申し訳なさそうに頭を垂れるあかねを見て、友雅も少し言い過ぎてしまったかと苦笑した。そしてその手で彼女の髪を軽く撫でてから、自分でピアノの前に腰を下ろした。
「新しい曲だからね。私が最初に見本を弾いてあげるから、そこで聞いていなさい。」
「うん……」
友雅はあかねから視線を外して、目の前の白と黒の鍵盤に向かった。
艶やかに磨かれたグランドピアノの輪郭が、夕暮れのオレンジ色の光に浮かんで光る。

友雅のピアノの音だけが部屋に響き、そして流れる。小さい頃もこんな風にして、彼の弾く音を聞いていた。
思い出の映像は時間が流れても消えるどころか鮮明になってきて、そして今の自分と重なっていく。
幼い頃の自分と、その頃そばにいた友雅と。

昔から全然変わってないんだ。
小さい頃からずっと、こんな風にしてともちゃんのピアノを聞いてた。
全然変わってない。
でも……それは、もしかして自分だけなんじゃないの?
ともちゃんはその間に色々なものを知って、見て………もしかして私は、あの頃から何も進んでないんじゃないの?

目に見えないところで、ともちゃんは私の知らないともちゃんになっているのかもしれない。

そう思った瞬間に、思い浮かべたくなかった映像が自然に浮かび上がってきてしまった。
友雅の隣に立つ、黒髪を背中まで伸ばした女性。
あかねは思い切り首を横に振って、その映像を振り切ろうとした。
見たくない。思い浮かばせたくないのに。

雑念ばかりに気を取られていたせいか、ピアノの音が止まっているのにも気付かなかった。ましてや目の前に友雅がいることにも気付かなかった。
「今日は練習には向いていないようだね」
顔を覗き込んで、友雅はそう言った。
「だ、大丈夫だってば…平気だって……」
言い返そうとして、彼の指先で額を軽くつつかれた。
「誰だってどうしても気の乗らない時もあるしね。今日は大目に見てあげるから帰りなさい」

時計は午後5時。どんどん時間が流れるにつれて、外は暗くなっていく。
「ともちゃん…あの……」
「ん?」
呼び止めると、友雅は足を止めて振り返る。いつもと変わらずに。

直接聞いて…みれば良い。あの噂が本当かどうか分かる。
だけどもしそれが本当だとしたら。
本当に友雅が……………………。
………………………………………………………………声が出ない。

ぎゅっと、ジャケットの袖にしがみつく。
声が出なくて、聞きたいことも聞けない。
「どうかしたのかい?何か相談に乗ってあげようか?」
あかねは首を横に振る。ただ、友雅の腕にしがみついて何も言わない。
「……駅まで送っていこうか。遅くなってしまったしね」
肩に触れた友雅の手が、切ないほどに暖かかった。

■■■

音楽室の戸締まりを済ませて、二人揃って一階へと降りた。
廊下は真っ暗で少し不気味な感じがしたが、一人じゃなければそんなに恐怖感もなかった。
玄関に行く前に、友雅は鍵を当直の教師に預けるために一度職員室に戻った。明かりがその部屋だけ漏れている。
あかねは友雅が出てくるまで廊下にいたが、ふと覗き込んだ部屋の中に、艶やかな長い黒髪の背中が見えるのに気が付いた。
友雅は彼女と少し会話をしてから、出入り口へ戻ってきた。
「待たせたね。それじゃ、帰ろうか」
そう言ってあかねの背中を押した。

気になって振り返るあかねの目が、偶然にこちらを向いている松下の目とぶつかった。
彼女は静かに微笑んで、軽く手を振った。

その笑顔を見たら、何故かとても寂しくなった。




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Megumi,Ka

suga