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黄昏に瞳を閉じて
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| 第二章「境界線」 |
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再会してから二年目に入る今年。
お互いに毎日の生活の中に相手の姿があることを、当然のように認識できるようになっていた。
幼い日の想い出の歯車が、もう一度回り始めていた。
「じゃあ、あかねって橘先生の幼なじみ…ってことになるの?」
「うん、まあ…そうなのかなあ。私、一人っ子だったしね。それに近所にも同年代の子とかいなかったから」
「橘先生だって、年代全然ちがうじゃん。一回り以上ちがうでしょうに」
「それはそうなんだけどね〜……」
お昼のランチタイムは、年頃の少女たちの会話で花が咲き乱れる。
テレビドラマの話、学校の話、恋愛の話……テーマはそれぞれバラエティに富んでいるが、やはり異性の話はひときわ盛り上がる。
ましてや学校内で女子生徒たちのアイドル的存在の友雅の話題になると、みんなそろって目を輝かせる。
「先生は……私のお母さんの、一番上のお姉さんの息子なの。一応従兄妹の立場になるから、そんなに離れた親戚じゃないんだ。」
あかねが語る友雅の話は、女子生徒誰もが集中して耳をすます。
元々自分のことをあまり語らない友雅であるため、彼の情報は不確かな噂程度で終わってしまい、真実性のあるものはほとんどないからだ。
しかしあかねとなれば別だろう。親戚同士のつきあいもあり、幼い頃からの付き合いもある。興味津々にならざるを得ない。
「一緒に暮らしてたの?」
「うん。私が4歳のときまで。20歳の夏に留学しちゃったの。26くらいまでずーっとウイーンにいて、帰ってきてからそのまんま、ここに来たって聞いたな」
「じゃあ、元宮さん一人っ子だったんなら、先生ってお兄さんみたいな感じだったのかな〜。」
「そうだな〜…生まれたときにはいたしね…。元々実家は県外なんだけど、こっちに音楽で有名な高校があったから、それに通うのに便利だから下宿してたって聞いたよ」
「へえ……うらやましいなぁ…生まれたときからずっと橘先生がそばにいたなんて〜…」
こんな風にあかねの話を聞くたびに、周りは羨望のためいきを漏らす。それほどにこの学校では、友雅の地位は特殊なところに位置付けされているのだ。
おかげで外部入学だからと言って友達に不自由することもなかったし、それなりに充実した高校生活だった。
そんな悠長な学生生活も今年が最後になるだろう。
来年は三年生。だが、あかねの進路は…まだ未定だ。
「いい加減に、自分の足下の向こうをちゃんと見極めたらどうだい?」
友雅にも同じようにそんなことを最近繰り返される。
「何かやりたいことはないのかい?目指している職業とか…あかねにはないのかい?」
「……そんなこと急に言われても……」
急というわけではない。
進路指導の際に、あかねはそのままエスカレーター式に、ここの大学に上がろうと漠然と思っていた。
が、選択科目を友雅の音楽に決めたとき、周囲の空気にやや圧倒されそうになった。
生徒はほとんどが、外部の音大に進むための受験を覚悟している生徒たちだった。その中であかねの存在は、一人だけ浮き上がってしまったのだ。
それを見逃す友雅ではない。あかねの進路に、やや不安を隠せなかった。
「いっそのこと、真面目に音楽を勉強してみたらどうなんだい?それなら私も協力してあげるよ」
「……うーん……じゃあ、ともちゃん教えてくれる?」
「…生徒を見捨てるわけには行かないからね、『橘先生』は」
「よろしくお願いします〜橘センセエ〜」
こうして付け焼き刃的な音大進学希望者が一人、また増えたのである。
■■■
結構勉強はハードな内容だ。
既に基礎が出来上がっている他の生徒たちに比べて、遅れを取っているのは一目瞭然であるのだから当然なのだが、友雅が提示する宿題の量は半端じゃない。
バインダーが弾けるほど束ねられたピアノの楽譜。今日の放課後もレッスンで居残りの予定だ。
「あかね、今日も橘先生のレッスン?」
掃除当番の友達が話しかけてきた。
「そーだよ〜……一人だけ出遅れたからしょうがないけど…★」
帰りの支度と一緒にレッスンの予定表などをまとめて、あかねは教室を出て行こうとした。
するとさっきとは違う友達が、あかねにこんなことを尋ねてきた。
「ねえ、一対一のレッスンなんでしょ?良い雰囲気になったりしない?」
立ち止まって振り向いたのは、その内容に反応したからだ。
「だって、橘先生ってさりげなく口説き方上手そうだもん。しかも音楽教室に二人きりでしょ?ちょっとは甘い空気になったりしたことないの?」
あかねの胸の振り子が、左右に激しく揺れる。
「別…にそんなことは…全然…」
「ホント?兄と妹の関係じゃ、やっぱり萌えないのかなぁ…」
なぜだかその友達の言葉が、あかねにずきんと痛みを胸の中に響かせた。
『兄と妹』
あたりまえのことだった関係を表す言葉が、ナイフの先のように鋭く心にキズをつけた…ような気がした。
■■■
自然の空の明かりが少しずつ傾き始めると、教室の中もぼんやりと黄昏色になって行く。
一日の終わりが近づいていることを、夕暮れが示していた。
響きわたるピアノの音は途切れることがない。つまづきながら、ぎこちなさを抜けきれない指使いで奏でられる音は、まだ安心して聴けるようなレベルではない。
「もうすこし練習しないといけないかな…。楽譜だけを目で追えるようにならないと。今はまだ指先ばかりを見ているから、楽譜にある次のメロディーを目で確認できなくなっているんだよ」
友雅はそう言って、一曲弾き終えたあかねに言った。
「そんなこと言われても…なぁ。私、グレード試験だって10級くらいしか持ってないし★」
「もっと続けていれば、あかねはその上だって目指せたよ」
「でもね〜…小学校でやめちゃったあと、それっきりだったもんな〜。ブランクって厳しいよ…まさか今頃またピアノやると思っていなかったし★」
ピアノを弾くということよりも、友雅にくっついて歩くことが一番楽しかったから、一緒にピアノ教室に通った子供時代。
何かと言えば友雅のシャツのすそをつかんで、どこまでも追いかけてつきまとって。
ふと思えば年頃の青年にとっては、あんなに小さな子供につきまとわれてうっとおしかったんじゃないだろうか…。
「あかね?どうしたんだい。ぼんやりしている余裕はないはずだよ?」」
はっと我に返ったあかねは、想い出の扉を慌てて閉じた。
「あ、ご、ごめんね★ちょっと…昔のこと思い出してたの…ともちゃんがうちにいた頃のこと…」
何故いきなりそんなことを思い出したのか。
深みを増したオレンジの夕焼けの色が優しかったからだろうか。
「あかねのところにいた頃か……高校からずいぶんお世話になっていたからね。あかねが生まれたときのことも覚えているよ」
「私の生まれたとき〜?」
「そう。私が部活から帰ったら近所のご夫婦がいてね。『急に産気づいたから病院に行った』って言われてね。生まれたって連絡が来るまで、家でずっと気になっていたんだ。」
椅子の背もたれにひじをかけて、少し目にかかる前髪を避けるように身体を傾けながら、遠い記憶を友雅は夕暮れの中で静かに語った。
「そのあとは色々…あったよ。入院している叔母さんのところに荷物持っていったりとか。生まれたばかりのあかねのことも見たよ。ひとまわり小さかったんだけれど、とても元気だった。」
「うん…未熟児だったって聞いた。今はこんなに元気なのにねー」
「そう、元気だったから安心したんだよ。あかねたちが退院して家に戻ってきたあとは、私も育児の世話をさせられたっけね。ミルクをあげたりもしたり、あやしてあげたりもしたよ…さすがにオムツの世話はしなかったけど」
笑いながら友雅は言ったが、あかねは妙に気恥ずかしくなった。
「お風呂に入れてあげたり…はしたけどね」
「えええええっ!!!」
あかねは思わず椅子から立ち上がって、友雅に食ってかかるような体制になった。
そんな慌てぶりを極めて冷静に笑みを浮かべながら。友雅は話を続けた。
「生まれたばかりの赤ん坊だよ?そんなに気にしなくても平気さ」
とは言っても……★
友雅の手で、生まれたときからずっと見つめられてきていたことを、改めて思い返してみると徐々に身体の芯が熱くなってくる。
そんなあかねに友雅は手を伸ばして、なだらかに髪を撫でる。
子犬の頭を撫でるような仕草で。
「そんな赤ん坊がちゃんとこんなに大きくなったんだから、それだけ時間が流れているってことだね……」
そう友雅はつぶやいた。
遠い目をしていた彼の目が、どんな場面を思い描いていたのかだけは、あかねには分からなかった。
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