黄昏に瞳を閉じて

 第一章「桜の時」
いつの頃からか、ずっとそばにいた。
気がついたら、すぐそばにいてくれていた。
会話の内容がクロスできるほど年が近いわけでもないのに、同年代の友達よりもずっと心が安らいだ。
そのぬくもりのある場所で。

近すぎて言い出せない想いが心の中には溢れてきていたけれど。
こらえようとずっと思って、そして悩んだりしながらも表向きは笑ってみせて。

楽しいのに苦しい。
嬉しいのに、切ない。
そんな想いがいつ頃から続いているんだろう。

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つないだ手のひらの感触が、微妙に変わったことに気付いたときには……すでに戻れない方向へ足が向いていた。
土曜日の昼下がりは日差しが急激に強くなる。天井まで伸びる古めかしい造りの格子窓からは、容赦なく太陽が光を教室の中へ注いでいる。
ぼんやりするには気温が暑い。でも、うっとおしいほどの真夏日じゃない。

「ともちゃん」
ガラッと教室の戸が開いたかと思うと、聞き覚えのある声が近づいてきた。
音楽雑誌を日除け代わりに顔に乗せて、うたた寝している友雅のそばに声の主がやってきている。
「あかねか?」
雑誌を取り払うと、白いブラウスにワインレッドのリボンタイの制服姿の少女が、上から友雅の顔を覗き込んでいた。
「お昼、食べたの?私まだなんだ。一緒に食べない?」
「……今月のお小遣い、ピンチ…ってことかな。私におごらせるつもりなんじゃないのかい?」
「あ、バレた?」
ピンク色の舌をぺろっと悪戯ッ子のように出して、あかねは笑った。軽く彼女の額を指先でつついてみる。
「伊達に小さい頃からのつき合いじゃないよ。さて、裏のカフェでいいかな…」
「やった♪さすがともちゃん!頼りにしてます〜♪」
「………学校では『先生』。二人の時だけだよ、その呼び方は」
念を押して友雅は言う。
あかねはVサインをして笑ってから、彼の腕に手を回した。


中心街から離れた少し高台に、友雅が勤務している学校がある。今年で創立150周年という、かなり格式のある有名女子校だ。
友雅はここで、5年前から音楽の教師をしている。
数学や古文などのように、直接受験に関わる教科を担当していない分、気楽に出来るのがマイペース志向の友雅に合っている。
たまに音大進学希望の生徒に、ちょっとした受験の特別講義をしたりすることがあるくらいで、あとはタイムテーブルに添って仕事をこなせばいい。
おかげでさほど毎日を徒労と感じることもなかった。

名門校という肩書きとカトリック系という方針のこともあってか、比率的には裕福なお嬢様という生徒も少なくない。
30代も半ばに差し掛かろうとしている友雅だったが、彼と同じ年代で唯一の独身男性教諭ということに加えて、若い女性にウケそうなルックスも手伝い、学生たちの憧れのまと的な存在だった。

そんな中に、二年前外部入学してきた少女がいた。
試験合格者の書類を整理していたとき、深く自分の記憶の中に刻まれ続けている名前を友雅は見つけた。

『元宮あかね』
----------彼女は友雅の幼なじみであり、遠縁にあたる少女だった。



あれは春の雪がちらつく日の夕方だったと思う。
卒業式も終わって三年生が校内から去っていき、そろそろ教員たちは4月の入学式に向けて準備を始めた頃だった。

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帰宅してドアを開けようと鍵穴を差し込んだ瞬間に、部屋の中全体に電話のベルが鳴り響いているのに気付いた。
慌てて友雅は部屋に駆け上がり、叫ぶように鳴り続ける受話器を取り上げた。
「もしもし?橘さんのお宅ですか?」
若い女性の声が聞こえてきた。声の雰囲気からすれば、まだ十代半ばくらいだろうと推測できる。
毎日学校で聞いている女生徒と同じくらいだと思われる。………だけど、どこか意識の中に引っかかる雰囲気の声。

「そうです。どちら様?」
「……友雅さんですか?」
「ここには私しか住んでいないからね。受話器を取った者が家の主だよ」
おそらく校内の女子生徒あたりが、また悪戯半分で電話をかけてきたのだろうと推測した。
男の一人住まいに興味がある年代だろうし、よくそんな電話も現実に掛かってきたりする。もちろん一度たりとも、この部屋に生徒を通したことはないが。

「で、君のお名前は?何年生?どこのクラス?」
「…………………」
受話器の向こうの声が止まった。
口ごもっているとか、戸惑っているような気配が聞こえてきそうな気がする。
「用件を言いなさい。私も帰ってきたばかりで、これから色々と忙しいんだよ。君たちみたいに長電話する余裕なんて、一人暮らしの男は全然ないんだ。」
「…………………」
受話器の向こうの声は続かない。
「仕方がないけど、これじゃどうにもならない。悪いけれど受話器を置かせてもらうからね。話は学校で頼むよ」
友雅はしびれを切らして、耳につけていた受話器を離して電話機に戻そうとした。

そのとき、やっと受話器から声が聞こえてきた。
「……ちょ、ちょっと待ってよ!ともちゃん!」
声が耳に流れ込んできて、友雅の中にある記憶の針が大きく揺れた。
ずっと昔、ずっと聞いていた懐かしさの残る声。
「……もしかして?」
「……そーです!お久しぶり〜!あかねだよ」
肩の力が一気に抜けていった。相手を確認して心がほっとする。
聞き覚えのある声のはずだ。何せ彼女が10歳になるくらいまでの間、毎日のように一緒にいたのだから。

「本当に久しぶりだ。5年ぶりくらいかな?」
「うん、それくらいだねー。ともちゃんがウイーンに留学するまで一緒だったもんね。帰国したと思ったら、そのまま今の学校に転任しちゃって一人暮らし始めちゃうし。全然会わなかったでしょ」
二年間ウイーンに留学したあと、何とかそのキャリアを認められて今の学校へ赴任の要請があってからはずっと、彼女の家に行き来したことはなかった。
「そうだ…ね。あの小学生のあかねが、いつのまにか高校生になるんだからね。」
「あ、もしかして気付いてた?ともちゃんのところに合格したこと」
「合格者の名簿見て、分かったよ。合格おめでとう。それにしても、よく外部入学する気になったね…。ここは家からは遠いだろうに。うちに合格できるくらいなら、もっと近くに良いところもあったんじゃないかい?」
「……お父さんが淑女教育しろってことで…」
ばつが悪そうなあかねの声を聞いて、友雅は笑った。

確かに世間では友雅の学校は、『お嬢さま学校』という例えを掲げられていることが多い。
実際現場は普通の学校と大して変わらないのだが、古い歴史と高い偏差値がイメージを先行させてしまうんだろう。

「三年間で、どこまで淑女になれるか楽しみだね。近くで観察させてもらうよ」
「…無理だと思ってるくせに★」
姿が見えないのに、向こうであかねがどんな表情をしているのかが声だけで分かる。
彼女が物心つかない以前から、ずっとその表情を見てきたのだ。
ただ、その面もちは最後に会った10歳のあかねの顔でしか思い出せないが。


「それはそうと、家から通学するのかい?」
友雅は子機を手にしたまま立ち上がり、キッチンで水の入ったケトルを火に掛けた。
「うん。遠いけど通えない距離じゃないし。それに、寮は市外の人しか許可してくれないでしょ?」
と、そういう古めかしい規則が、古い学校には付きものである。
「だからって、若い娘を一人暮らしの男の部屋に置くなんてことはダメだよ」
「あ、やっぱダメか」
一回り早く友雅に釘を差されて、あかねは苦笑いで答えた。


「ともかく…合格おめでとう。4月からは頑張って勉強するんだね。私の教科だけじゃなくね。」
急に教師としての意識が芽生えて、友雅は背筋をのばした。
「分かってますよー。がんばって合格したんだから、悔いを残さない高校生活にします!」
「よろしい。」
どこか馴染みきれない先生と生徒の口調は、二人そろって後から笑い声に変わった。

5年間のブランクを埋める3年間が、もうすぐ幕を開ける。
桜で包まれた正門をくぐってくるあかねに会えることを、友雅は日々を数えるように待ち続けた。
そしてあかねも同様に、新しい生活に織り込まれていく友雅の姿を、目に焼き付ける日々が始まることを待ち焦がれていた。

それはもう二年近くも前になる、桜の満開の春の想い出。

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Megumi,Ka

suga