ヒロインを抱きしめて

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今日は急患もなかったので、定時通りに仕事を終えられる。
医局で軽い雑用を済ませた友雅は、さっさと帰り支度を始めていた。

「いやー、助かりましたよ先生!これで家内の機嫌を損ねずに済みます」
後ろから上機嫌で肩を叩いたのは、3つ年上の内科医だった。
「先生があの店の馴染み客で、ホント良かったですわー」
「運が良かっただけですよ。キャンセルが出たのは、偶然ですから」
ホワイトデー当日は、人気のあるレストランは軒並みに予約いっぱい。
よほど早めに連絡を入れなくては、弾き飛ばされる確立は高い。
ちょっとした夫婦の諍いを起こしてしまった彼は、妻のお気に入りの店を予約して何とか体裁を保とうとしていた。
が、今になって予約など取れるわけもない。
そこで、店の常連である友雅に間に入ってもらい、どうにかならないかと頼み込んでもらったのだった。
「図々しいことを言うようですが、たまには奥様への感謝を形にすべきですよ」
「ははは…そうですねえ。先生に言われると実感するなあ」
「何しろ、こうして毎日普通に仕事が出来るのは、奥様のフォローあってのことですからね」
彼の妻は専業主婦であるから、炊事洗濯等の家事すべてを承っている。
それに加えて、小学生の2人の子どもの世話も。
「たまには贈り物でもすると、喜ばれると思いますよ」
「はあ、参考にさせていただきますわぁ」
そんな会話を交わしながら、友雅はマフラーを巻いて医局を出て行った。

「橘先生、実体験を言ってたんだろーなあ」
同じ場に居合わせていたドクターが、彼らの話を聞きながらつぶやいた。
奥様への感謝を形に、とか。
奥様への贈り物を、とか。
傍目から見たら照れくさいことでも、さらりとこなしてしまうような彼だから、彼女に対してもきっとそうなのだろう。


関係者通路から駐車場に出ると、吐く息がふわりと白く映った。
シルバーのBMWの隣に、寄り添うように停まっている赤のPASSOは既にない。
彼女の方が定時は早いので、先に帰ってしまったのだろう。
「さて、私も急がないとね」
コートを着たまま、運転席に乗り込む。
静かなエンジン音と共に、大通りへと滑り出した彼の車は、いつもと逆の方向へとウインカーが点滅した。


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所謂都心のど真ん中だというのに、森のような緑が広大な敷地を塀のように覆っている。
ライトアップされた落ち着きのある佇まいは、どこかクラシックで、それでいて洗練された雰囲気を醸し出す。
友雅の車がロータリーに入ったとたん、即座に二人のドアマンがやって来た。
「いらっしゃいませ。本日ご宿泊のお客様でいらっしゃいますか?」
「ああ、今日から一週間ね。荷物はトランクケースにあるから、後から部屋に運んでくれるかい?」
「承知致しました。では、フロントへご案内致します」
車のキーを一人に預けると、すぐにもう一人が中へと案内してくれた。
まだ若いスタッフだが、丁寧な応対はしっかりと教育されていることが目に見えて分かった。

フレスコ画が描かれるような高い天井に、重厚感のあるオークのインテリア。
アンティーク仕立てのデスクやソファセットに、フロアは柔らかな絨毯が敷き詰められて。
「今日から宿泊を入れている、橘と申しますが」
ブラウンのスーツをスマートに着こなした、まさに執事のようなコンシェルジュ。
名を告げると、彼はすぐに革張りの台帳を開き、宿泊予定客の欄に目を通した。
すると、背後から小さな足音が近付いて来た。
コンシェルジュと話を交わしている友雅の背中に、後ろからガッとしがみついてきたぬくもり。
「や、やっと来てくれたあ〜!」
「何だい、部屋で待っていると思ったのに。ずっとここにいたのかい?」
「そ、そうですよ…。何だか先に行くのが不安で…」
ホッとした顔で、あかねは友雅の顔を見上げる。
慣れない雰囲気の中で、かなり緊張していたようだ。

戸惑うあかねから車のキーを預かり、近くにいたスタッフに車の荷物を運ぶよう伝えると、彼女の肩を抱きながらカウンターデスクへ向かう。
「橘様、プレミアムスイートを本日から一週間のご宿泊ですね?」
「ああ、間違いないよ。それと、事前にオプションもお願いしていたんだが…大丈夫かな?」
「はい。お受けいたしております。御用の際に、お申し付け下さいませ」
コンシェルジュからの問いに対して、スピーディーに彼は受け答えをする。
台帳に二人の名を明記すると、ベルボーイにルームキーが渡された。
「お部屋は15階となります。ご案内いたします」
上品な装飾が施されたエレベーターのドアが静かに開かれ、ベルボーイに導かれて二人は先に中へと進む。
15と書かれたボタンが点滅すると、ドアは再び閉まり、ゆっくりと目的のフロアへと上昇して行った。



「きゃー!!!」
ベルボーイがドアを閉めたとたん、あかねはぷつんと緊張の糸が途切れたようた。
ソファに座ってみたり、チェストの中を開けてみたり。
カップボードの中には、ワイングラスや洒落たセンスの雑貨が並ぶ。
そして、15階の窓から見下ろせるのは、広大な緑の庭園。
「わー!こっちのベッドルームすごいー!」
続いて白いパネルドアを開けると、そこはベッドルームになっていた。
リビングにも負けないほどの広さに、家族が川の字で寝てもゆったり感のあるキングサイズのベッド。
窓の向こうはバルコニーがあり、白いガーデンチェアもある。
「友雅さんっ!すごい!こっちのサイドボードの下、冷蔵庫になってるんですよっ!」
家具調に仕立ててあるので分からなかったが、扉を開くと確かに中は冷蔵庫だ。
氷はもちろん、ワイン、吟醸酒、ジュースや発泡酒にスポーツドリンク…もちろんミネラルウォーターも完備。
「中に入っているものは、自由に飲んでいいんだよ」
「えっ?こういうのって有料じゃないんですかっ!?」
「そういうプランになっているから、好きなだけ飲んでも大丈夫なんだよ」
友雅は後ろから手を伸ばし、中にある外国製のライトな発泡酒を取り上げた。

「あっ!あっちのドアはクローゼットかなあ!」
立ち上がったあかねは、続いて寝室の奥にあるドアに向かって走って行った。
…やれやれ、落ち着きのない天使様だねえ。
子どものようにはしゃいでいる彼女を見るのは、随分と久しぶりな気がする。
看護学生だった頃は、デートで連れて行く先々でこんな顔を見せていたけれど、正式に看護師として働くようになってから、随分と彼女は大人びた。
常に患者の様子に気を配りながらも、周囲には朗らかに笑って見せる。
たまに夜勤をこなしつつ、家に帰れば妻としての家事までもやってのける日々。
目に見えなくても、蓄積される緊張は半端じゃないだろう。
だから時には、こんな風に楽しい思いをしても良いはずなのだ。

「友雅さーん!ちょっと来てくださいよー!」
冷たい発泡酒のアルミ缶を片手に、そんなあかねの日常を思い起こしていると、また自分を呼ぶ声がする。
真っ白なドアの向こうに広がる世界に、きらきらと目を輝かせてこちらを見る。
「ねえ早く!こっち来てくださいー!」
この満面の笑顔の力。
それに引き寄せられて、友雅は一歩踏み出した。



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Megumi,Ka

suga