ヒロインを抱きしめて

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窓辺に飾られたガラスのボトルに差した、ヒヤシンスの球根がどんどん蕾を膨らませている。
昨年の秋に小児科病棟の子どもたちが、中庭の花壇に植えたチューリップや水仙も、少しずつ土から顔を出し始めていた。
それでも、まだ寒さが遠ざからない3月の半ば。
昼休みのナースステーションは、ひときわ賑やかな雰囲気に包まれている。

「今年は何をおねだりしよっかな〜」
テーブルの上に、無造作に置かれた女性誌。
先月はバレンタインの特集かと思ったら、今月はホワイトデーの特集。
プレゼントするものから、プレゼントされるものへと内容が180度逆転している。
「森村くんのお返しも期待してるからね!3倍ね!」
「はぁぁ!?ちょっと勘弁して下さいよっ!何で義理なのに、3倍返しをしなきゃならないんスかっ!!」
「まあまあ、良いじゃないのよ。3倍って言っても1000円くらいのものよ」
「…先輩、予算ケチったのがバレバレっす…」
先輩ナースたちからもらったチョコは、明らかに義理と分かる小さなパッケージだったけれど、さすがに値段が知れるとがっかり感がある。
そろそろ本命チョコに本命のお返しが出来るような、そんな相手が欲しいもんだ。
などと、彼氏にホワイトデーのおねだりを品定めしている彼女たちを見て、森村は軽くためいきをついた。

「ただいま戻りましたー」
空っぽのランチボックスを持って、あかねがナースステーションに戻って来た。
お昼は大概決まった相手とばかりの彼女は、昼休み時間になると、某外科医と一緒に姿をくらませる。
どこでどんな昼休みを過ごしているやら。
あまり深い推測をするのは、独り身青年の森村には毒が強すぎた。

「あー、あかねあかね!アンタは先生にお強請りしたの?」
「お強請りって、何をですか?」
戻ったばかりのあかねを捕まえて、ナースたちが尋ねる。
奥方にご執心の某外科医であるから、ホワイトデーのお返しはさぞかし気合いが入るんじゃなかろうか。
巷で言う3倍返しどころか、5倍、10倍、20倍……だって、あり得なくもない。
「ちょっと、ねえ聞かせなさいよ!何買ってもらうの?」
「んー…別にこれと言っては…」
「何だ、気が抜けてるなあ。でも、先生はちゃんと考えてくれてるよね」
「分かんないですけど、毎年何かはありますから、多分今年も何かはあると思います…けどね」
こちらから"○○が欲しい"と言ったことは、一度も無いのだ。
欲しいものを尋ねられたときは、それなりに思い付いたものを伝えるけれども。
だから大概は、彼まかせ。
バッグだとかアクセサリーとかパフュームとか。

「先生のことだから、セレブ〜なブランドを選んでくれるんでしょっ」
「そんな身の丈に合わないもの、買ってもらいませんよ」
確かに、家と勤務先の行き来ばかりの仕事なら、機能的なものが一番である。
独身だったら、合コンやら出会いの場に行くときにおめかしも出来るが、院内一…というか、世間的にもかなり上のレベルの相手を夫にした彼女には、今更そんな機会も必要ない。
そもそもそんなところへ、彼女を出向かわせるはずがない。
あの、頭のてっぺんから足のつま先まで、独占欲がどっぷり詰まった某外科医が。


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院内には、数店のカフェがテナント入りしている。
ゆっくり座ってお茶を楽しめる店もあれば、気軽にコーヒーを楽しむスタンドタイプなど。
インスタントの味に馴染めないスタッフなどは、テイクアウト用にMyタンブラーを常備している者もいる。
「これで良いんじゃね?」
「でも、これ人数分あるかあ?何人いたっけ」
カウンターのすぐ側に、大きなバスケットが置かれている。
中にはチョコやクッキー等のパッケージフードが並んでいるのだが、それらを若い研修医が数人で取り囲んでいた。

「おやまあ、最近の若い男性は甘党が多いのかい?」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこには白衣のドクターが一人。
タンブラーをスタッフに手渡しているのを見ると、どうやらオーダーを終えたところらしい。
「しかし、これは一人一個の数じゃないねえ。君らくらいの年なら食欲も旺盛だろうが、糖質の摂り過ぎは好ましくないよ」
「違いますって!これはその…ホワイトデーのおかえしで…」
ちらりと彼が目をやると、"バレンタインのお返しに最適"という、手描きのPOPが添えられている。
「ああ、なるほどね。でも、こんなにお返しが必要とは、君たちもすみにおけないねえ」
「そ、そーいう先生こそ大変でしょ。がっぽり貰ってるでしょーし!」
いくら義理であっても、彼ならさぞかし大量の貢ぎ物があるはずだ。
それに関しては、同性の目から見ても納得せざるを得ない。
だがその膨大な貢ぎ物全部に、果たして彼はお返しをしているのだろうか?
「まあ一応、礼儀として用意はするよ」
「マジっすか?大変じゃないっすか!」
「大変だけどねえ。でも、きちんとしないと天使様からお咎めされるしね」
「あ、そーっすかー」
"天使様"とは、彼の愛妻であり当院の看護師のことだ。
若いのに結構なしっかりもので、気ままに振る舞う彼を遠慮なくぴしっと窘める技を持っている。
「お返しのことは、毎年彼女に任せているんだよ。同じ女性が選ぶ方が、好みも近いだろう?」
ま、彼の言うことは正しい。
いちいち愛妻を持ち出して来るところは、ちょっと惚気が入っている気がするが。

タンブラーに入ったコーヒーを受け取り、友雅はカフェを出て行った。
「相変わらず橘先生、元宮さんに入れ込んでるなあ」
「あれじゃ、さぞかし本命のお返しにも力入ってんだろーな」
さっきナースステーションでも、二人のことが話題に上っていたばかりだ。
果たして彼が、あかねにどんなホワイトデーのお返しをするのか。
他人のことなんて気にならないけれど、こればっかりはちょっとだけ興味がある。
「今更指輪でもないだろーし。どんなこと考えてんだろうな、先生」
さっぱり検討は着かないけれど、少なくともあかねが喜ぶものを。
それだけはきっと間違いない。



慌ただしくも、無事に今日も終業時間がやって来た。
今日はあかねも定時で上がり。
友雅も定時の予定だが、あかねより時間は時間遅いので、一緒に帰れることは殆どない。
「それじゃ、お先に失礼しまーす」
「おつかれさまー。あとで、先生から何もらったか教えなさいよー!」
ひやかしの声を背中に受けつつ、ナースステーションを出る。

窓から見える景色は、既に薄暗く日も落ちている。
しかしそれでも以前から比べれば、随分と日が延びた。年末年始頃なら、真っ暗になっていた時刻だ。
日中の気温もやや高めにはなって来て、春が近付いているのだなと思いながらも、夕方や明け方はぐっと気温が低くなる。
「コートとか仕舞えるのは、まだ先だよねえ」
本格的に春物のファッションに変えることが出来るのは、もうしばらく先か。
そんなことを考えながら、あかねは駐車場へと向かった。



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Megumi,Ka

suga