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懐かしい空気の匂いは、何年経っても記憶に残っているものだ。
卒業して随分経っているのに、あれから変わった場所も多々あるというのに、一瞬で当時の自分を思い出す事が出来る。
「はいOKです。お疲れさまでした」
ビデオカメラを構えていたスタッフの声で、ようやく電源ランプがオフになった。
「適当なこと言っちゃった気がするんですけど、大丈夫でしたか」
「全然。とても晴れ晴れとした良いお話だったわよ」
久し振りに再会した恩師の言葉で、あかねはホッと胸を撫で下ろした。
「コメント撮影で緊張しているようじゃ、明日の講演会はつとまらないわよ」
「やめてくださいよ〜、更にプレッシャー与えないでください」
教師と生徒の関係だった頃は、こんなにフランクな会話は出来なかった。
しかし卒業してしまえば同じ社会人。対等とは言えないまでも、あの頃みたいな堅苦しさは消えた。
その証拠に、この後は一緒に夕飯を食べに出掛ける予定。
お酒もほどほどならOKと言われているが、そこはさすがに遠慮することにした。
「それにしても、相変わらず元宮さんは几帳面というか真面目ねえ」
握りしめていたコピー用紙を、丁寧に折り畳んでバッグにしまうあかねの姿を見て恩師が言う。
「旦那さんにチェックしてもらったんでしょ?」
講演会の内容だけでなく、ビデオコメントの内容も友雅に目を通してもらった。
たかだか5〜6分のコメントなのだが、短いなりにしっかりした言葉が必要だと思ったので。
「結婚の連絡を聞いたときは、びっくりしたわよ」
看護師になることに一心不乱だった彼女が、就職して三年程しか経たないうちに寿退社してしまうのかと。
現場での評判も良いと聞いていた矢先、祝福しつつも勿体ないと思ったりもしたがそんな心配はまったく不要だった。
それが、今ここにいる彼女そのものである。
と同時に、お相手の正体を聞かされて更に驚かされたが。
「色々と相談に乗ってくれるんだから、夫婦関係も円満なのよね?」
「心配ないです、それは全然。公私共に信頼してますので」
それって惚気?っと恩師たちから突かれているうちに、今し方撮ったコメントの編集が済んだ。
使用する部分を数カ所区切って見せられ、本人の同意を得た上で利用するという。
この学校を選んだ理由、学生時代の思い出、デメリットに思われないような言葉を選んで、と彼のアドバイス通りに。
「えーと、大丈夫だと思います。これで新入生が増えるかは保証できませんけど」
こればかりは受験生次第だ。
友雅が言っていたように、決めるのは本人。あかねたちの声は、他人の実例に過ぎない。
「そうね、あとは受験生に任せましょう」
ではこれで今日のおつとめはおしまい。
夕食の時間まではまだしばらくあるし、これからどうするの?と尋ねられ少しあかねは考えた。
「あの、ちょっと校内見学しても良いですか?」
5年間も散々通ったところを見て楽しいのかと聞かれたが、だからこそ改めて見てみたい。
もう自由に足を踏み入れることは出来ないし、次はいつ来られるかも分からない。
ほんの少しの間だけ、思い出を体験してみるのも良いじゃないか。
週末の夜となれば、どこの店も結構混雑している。
日頃の疲れを吹き飛ばすために友達同士で食事を楽しんだり、休日を利用して家族サービスを兼ねて外食に出掛けたり。
周りを気にせず気楽に過ごすというのは、おおよそ無理であろうと考えた。
そういうわけで土曜の夜。友雅は自宅のあるマンションに居た。
「なんかすごいリッチな気分〜」
テーブルの上にはホテルメイドのオードブル。和洋折衷、食後のデザートも完璧。
大きな窓から見えるのは、満天の星空みたいな夜景が広がるシティサイドと、遠くに海を望めるリバーサイド。
革張りのソファに足を組んで腰掛け、シャンパンのグラスを傾けてみたり。
「こんなとこ使っちゃって良いんすか?」
「構わないよ。こういう時じゃないと使う機会がないからね」
高層階にあるパーティールームはマンションの共有施設の一つ。住人であれば安価で利用が可能だ。
ここなら貸し切り状態だから気兼ねすることもなく、フロントのコンシェルジュに頼めば契約しているホテルからケータリングも出来る。
「でも、先生ってずっとこのマンションに住んでるんですよね?」
築年数は結構経っているにしろ、高級物件であることは見て分かる。
そこで一人暮らしをしていたなんて、まさに独身貴族といった感じ(現在の二人暮らしでも結構なセレブライフ)。
「元々は父が購入した物件なんだよ」
「え、でもご実家は一軒家だったんですよね?」
「ひと昔前に日本中が浮かれた時代があっただろう。その時にちょっとね」
なるほど。今とは正反対の華やかな日常が存在していた時代。
ビジネスの成果を更に別のビジネス資金に利用する者が多く、財源の豊かな人々が町に溢れかえっていたという。
…今となっては夢のような話だ。
「ここはそんな時代の遺産。大家の父から私が借りて住んでいたんだよ」
両親が亡くなって実家は空き家になり、あちらは一人で暮らすには持て余してしまう広さ。物に執着するタイプでもないので、土地と家屋を処分してこちらを生活基点に変えた。
「でもほら、今後家族が増える可能性もあるじゃないですか。そしたら手狭になりません?」
そう、当時はそんなことを考えてはいなかった。
結婚とか家庭とか、自分には縁がないことと思っていたのに、現実は思いもよらない出来事を引き起こす。その時はその時だと考えつつも、こればかりは多方面に渡り計画的に考えねばならない。
実は分譲賃貸として貸している部屋が他にもあるので、ゆくゆくは広めのそちらに引っ越す選択肢もあるか…とか。
「橘先生ー、飲み物なくなっちゃったから追加オーダーしますよー。何が良いですかー?」
最初から結構用意されていたのに、気付けばボトルもグラスも殆どがからっぽ。
若いメンバーがこれだけ集まっていれば、消費スピードは予想を超える。
「私は前と同じもので良いよ」
「ノンアルワインですか?先生ってお酒だめ…じゃあないですよね?」
飲み会や社員旅行先で飲んでいるところを見たことはある。
運転が必要なときは勿論飲まないが、エレベーターで数階下りれば自宅だし制御する必要はないのに。
「明日、出掛けるつもりだからアルコールは自粛」
休日なのに外出。あかねがいないのに外出。
「もしかしてあの子、自分の車で出掛けてないんですか?」
「恩師と食事会があると聞いていたからね。お酒など遠慮してたら可哀想だろう」
「はあ、そうっすか…」
何も気にせず楽しめるように、帰りは自分が迎えに行くのか。
ホントに何から何まで、彼女のことになるととことんマメな人だ。
-----と、そんなこんなで賑やかな空気の中、週末の夜が更けて行く。
その頃あかねは…。
9時過ぎに恩師たちとの食事を終えて、ホテルに戻ってきた。
手洗いとうがいをしてバスタブに湯を張る。白い湯気が浴室に充満して、空気をしっとりと潤わせた。
明日はいよいよ講演会だし、喉をやられたら大変だから加湿に気を使おう。
ベッドの周りに濡れタオルと、携帯用の加湿器とミネラルウォーター、あとは…。
寝過ごさないようモーニングコールの他に、スマホのアラームもセットしておいた方が、とバッグから取り出した画面にメッセージがひとつ。
「友雅さんからだ」
すぐに画面を開くと、短い英語の文章が。
"Take it easy"
たったそれだけなのに、不思議と肩の力が軽くなったような。
いつも背中を包み込んでくれる暖かさを思い出したような。
ふふっ、うん。"Take it easy"ですね。
気楽に行こう、彼の言う通りにいつものように。
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