Please! Jealousy

 第六話(3)---------
患者のカルテに目を通しながら、薄暗い廊下を病室に向かって歩いている。
丁度夕食の時間ではあるが、一般病棟と違って個室が並ぶフロアは意外と静かだ。
ドアの前に立ち、インターホンを鳴らす。
しばらくして、中からドアが開いて彼女が顔を出した。
「あら、こんばんわ」
「これから当直なのでね、今出勤したところだ。容態を見ようと思ったのだけれど、食事中だったかな」
「大丈夫よ、今終わったところ」
彼女の手によってドアは開かれ、友雅は部屋の中へと入る。
済んだ食器を載せたトレイをもう一度抱え、彼女はミニキッチンへ洗い物に行く。

「大企業の奥様も、後片付けや家事をするのかい」
「何言ってるの、これくらいあたりまえでしょう?」
そう笑いながら言うけれど、彼女が家庭的なことをしている記憶なんて、全くと言って良いほどない。
食事は大概外で済ませ、洗濯はクリーニング任せ。
部屋の掃除も二週に一度くらい、業者に頼んでいた頃が、彼女と過ごしていた時期と重なる。
家事をする必要がなかったから、やらなかっただけなのか。
それとも、その頃は何も出来なかったのか。
…どちらなのか、分からない。
それくらいに彼女との時間は、生活感の無い毎日を過ごしていた。
「まあ、私はあなたの奥様みたいに、家庭的な女じゃないけれどね」
「確かにね」
あかねみたいに、自分からてきばきと動き回って、掃除や洗濯や料理までこなしたりなんて、彼女はしないだろう。
洗濯も乾燥まで機械に任せるのではなく、天気が良ければベランダにきちんと干したりして。
料理の本やテレビを見ては、レパートリーを増やす努力を惜しまない。
そんなほがらかで暖かい雰囲気を出せるのは…あかね以外にいない。

「また、あかねさんの事考えてるんでしょう」
顔を上げると、いつのまにか彼女は片付けを済ませて、友雅の目の前にやって来ていた。
「私と比較してた?どれだけ、自分の奥様が優れているかって」
「…君は、あかねとは違うよ。比べたところで、何の意味もない」
「そうね。私にはとても真似出来ないもの。あなたをこんな風にするなんて」
「どういう意味だい、それは」
くすくす…と小さな声で笑うだけで、彼女は何も答えを言おうとはしなかった。
自覚が無いのねえ、自分がどれだけ無防備な状態になってるってこと。
あかねのことに気を取られていると、周りのことなど耳に入らなくなる状態に陥って、残像や記憶の中に刻まれた姿までも追いかけようとしている。

こんな人だとは思わなかった。
こんな一面が、彼にあるなんて知らなかった。
数年、男と女として付き合っていたのに、初めて今になって知る素顔の一面。
でもそれは…彼の中にあかねの存在があるからこそ、露になるものである。

「甘えさせてもらって、少しシャキッとしなさいよ」
ふいに、ぽん!と背中を叩かれた。
まるでエールを送るかのように、彼女は綺麗な顔をにっこりと笑みに変える。
何を言っているんだ?と不思議そうな顔で見る友雅の前を、スルーして彼女は病室のドアを開けた。


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時は流れて---------------午前1時近く。
昼間はまだ蝉の鳴き声が五月蝿いのに、深夜になると小さな虫の声が聞こえる。
「橘先生、交代しますから仮眠取って来てもいいですよ」
二つ年下のドクターが、担当患者の巡回から戻って来て、友雅にそう告げた。
今夜はこれまでに、3件の急患があった。
交通事故の患者だったが、幸いそれほど怪我も酷くなかったため、手当をして帰宅させた。
それでも、唐突にやってくる救急の連絡は、精神的にかなり緊迫する。

「奥さんの愛妻弁当でも食べて、しばらくゆっくり休んでて下さい」
当直スタッフたちは、友雅があかねの手作り夜食を持参していることは承知だ。
看護師の仕事をしながら、当直の夜食まで用意するなんて…と、あかねに感心する声もあちこちから聞こえる。
「愛情あってこそですよねえ、やっぱり」
冷やかすような声を、友雅は笑いながらあしらって部屋を出て行く。
コツコツ…と静かな廊下に、彼の足音が響きながらも小さくなっていくのを確かめて、看護師たちは顔を見合わせた。

「相変わらず、なーんか先生おかしいよねえ」
「絶対、原因は元宮さんだと思うけど、喧嘩してるわけでもないみたいだしなあ」
日中仕事で顔を合わせても、普通にいつも通りに会話しているし、お昼だって仲良く一緒に食べているみたいだし。
何ら変わりない二人なのだけれど、何故か友雅は心ここにあらずのような気配。

「元カノさんと、再熱しちゃったとか?」
……と言って、ドクターは"ありえないわな"と自分でツッコミを入れた。
あれだけあかねに執着している彼が、そんなことあるわけもない。
「橘先生、また子犬化かあ」
こっそりと囁かれている、彼のあだ名。
あかねがいなくて気が抜けている彼。
または、あかねの姿をずっと目で追いかけている彼。
まるで飼い主が構ってくれるのを待ってる、子犬みたいな感じ…と、誰かが言い出したのがすっかり浸透してしまった。
もちろん、本人やあかねには内緒だが。



そういえば、あかねがコーヒーを届けに来ると言っていたのを思い出した。
携帯を取り出してみると、まだ連絡は入っていない。
今からメールすれば、2〜30分くらいで来られるか…いや、深夜だから15分くらいで到着するかもしれない。
当直室に戻ってから連絡しようと考え、友雅は部屋のドアを開けた。

「あ、友雅さん、おつかれさま」
「…なんだ、来ていたのかい。連絡を待っていたんだよ」
「んー、でも当直中に連絡するのもアレかなーと思って。ここで待ってれば良いかなって」
まあ、どんな方法や手順を踏まえようが、そんなことはどうでも良い。
ここにあかねがいるかいないか、それだけが重要だ。
「急患あったんですね」
「ああ、事故の患者がね。でも軽傷だったよ」
休憩時間くらい、堅苦しいドクターコートから解放されたい。
友雅は脱いだ白衣を、適当にソファの背もたれに放り投げた。


すると……突然、後ろから華奢な両腕が伸びて来て、彼の身体にがしっとしがみついてきた。
ぎゅっと押し付けられる、暖かで柔らかいぬくもり。
そして、甘いフローラルのコロンの香り。
毎晩この香りに包まれながら、安らかな眠りにつくことが出来る。
「あかね?どうしたんだい?」
振り向こうとする彼を、あかねは阻止した。
「だめ、こっち振り向いちゃだめ。このままで、ちょっとだけ私の話を聞いてて」
きゅうっと締め付ける腕の力と、きゅんとする胸の奥。
友雅はあかねに背中を預けたまま、静かにベッドに腰を下ろした。



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Megumi,Ka

suga