Please! Jealousy

 第二話(3)---------
あれだけ覚悟を決めたというのに、森村の気合いは拍子抜けな結果で終わった。
「橘先生は、もう帰ったよ」
時計を見ると、午後6時を過ぎている。
確かに帰宅して当然の時間なのだが、さっきナースステーションを通り過ぎたとしたら、随分と早急の退出ではないか?
「あ、あのっ…橘先生、何か変なこと言ってませんでしたかぁっ!?」
「…別に?ただ、やけにぱっぱっと支度して帰ったけど、急いでたのかなあ?」
顔を見合わせてそう言ったのは、整外の医師たち。
一人は去年移動してきたばかり。もう一人は友雅の同僚というか後輩。
「先生のことだから、早く家でラブラブしたいんじゃないの?」
紙コップのコーヒーをすすり、誰もが笑いながらそんなコトを言う。
友雅とあかねのことは、院内スタッフで知らない者はいない。
更に勤務者だけでは飽き足らず、入院患者や頻繁に通院する外来患者にも、すっかり名前は知られている。
誰もが羨む…を通り越し、半ば呆れ気味の熱愛ぶり(主に過剰なのは友雅の方だが)で、おかしな意味の有名人になっている。

…ま、いいかあ。別に何でもないなら…。
他の者にも尋ねてみたが、友雅に目立った変化はなかったと言う。
直接対面したら会話せねばならないし、さっさと帰ってくれて助かった…と森村はホッと胸を撫で下ろした。
だが、今日が終われば明日が来る。
明日になれば森村はまた研修があり、よりにもよって友雅に同行せねばならない。
…今日よりも明日が悪夢だ…。
医局のすみっこで頭を抱える彼を、先輩医師たちは不思議そうに眺めていた。



契約している駐車スペースに、シルバーのBMWが戻って来た。
書類の入ったブリーフケースを手に、運転席から下りた友雅は助手席に回ってドアを開ける。
クリーム色の表面に、薄いピンクのバラが浮き上がるケーキボックス。
病院と逆の方向にある洋菓子店は、最近よく雑誌にも取り上げられたりして、話題が絶えない店である。
小さいながらも、割と値段が張るのはスイーツならでは。
手のひらに乗りそうなほどなのに、500円程度もするのだから豪勢なものだなと思うが、あかねが好きなのだから構わない。
「手土産片手に帰宅だなんてね…」
下りて来るエレベーターを待ちながら、箱を片手に佇む自分を鏡に映す。
わざわざ彼女の好きな店を選び、一番好きそうなカシスのフロマージュを選んで。
これじゃあまるで、うしろめたいことがあるから、相手のご機嫌を取っているみたいじゃないか。

終わった相手は、既に自分にとっては過去であり他人。
そんな相手を今まで、思い出しもしなかったというのに。
これから共に生きて行くあかねのことしか、今は考えられないほど大切な存在であるのに。
もしも問いつめられたら、そのことをしっかり伝えよう。
納得してくれるまで、どんな手段を使ってでも、自分に愛されていることを理解させてみせる。
♪♪♪----------
軽やかな電子音のメロディーが、インターホンを押したとたんに流れた。


「あ、おかえりなさい!」
部屋に入ると、キッチンからあかねが顔を出した。
一緒に住むのが決まったとき、新しく購入した水玉ピンクのエプロンを身につけ、大きなサラダボウルを抱えている。
「あともう少しで、お魚が出来上がるところなんです。良かったー、暖かいうちに食べられますね」
今日は駅前のスーパーが魚介類の売り出しで…と話しながら、コンロの前に戻って行く。

サラダを一旦カウンターに置いて、フライパンの蓋を開けると、こんがりとした香ばしい匂いが立ち上る。
「ほら、すっごい大きいサーモン!ムニエルにしたんですよ〜。美味しそうでしょ!」
「ああ…そうだね。冷えた白ワインがあると、もっといいかな」
「大丈夫ですよ、ちゃんと用意してますから」
冷蔵庫には、ワインとボトルを両方冷やしておいて。
レモンソースも、付け合わせのサラダも準備はOK。
「夕ご飯、先にしちゃいましょーね」
てきぱきと食器棚から、二人分の皿やカトラリーを取り出して、キッチンとダイニングを忙しく行き来する。
いつもと変わらない、明るい空気。
いつもどおりのあかねがそこにいるのだが、何故だか友雅はしっくり来ない。

「あっ!ねえねえ友雅さん!この箱って…もしかしてっ!」
ケーキボックスをいち早くあかねが見付け、友雅に飛びついて来た。
「そうそう、これは天使様への貢ぎ物」
その場で中を開けてみると、ふわりと匂うカシスソースの甘酸っぱい香り。
「うわ、よくこれ買えましたねー!いつも売り切れなんですよ?」
「そうみたいだね。でも一個だけかろうじて残っていたんでね」
「すごい!友雅さん強運ですよ?美味しそう〜」
喜んでもらえれば、何より。
その顔が見たかったから、わざわざ電話して一個だけキープを頼んでおいたのだ。
だけど…その顔を見ていても、払拭されない彼の中にある違和感。
あかねは、彼女のことを知っている。
どういう反応を示すだろうかと、少なからず戸惑っていた友雅だったが、あまりにもあかねは普通のままで。
その普通さが、逆に友雅は気になった。



食事を済ませて、あかねにとってはお待ちかねのデザートタイム。
ひとつだけ買うのもわざとらしいかと、自分用には出来るだけ甘みの少ない、エスプレッソを使ったプチフールを選んだ。
スプーンでフロマージュを一口一口すくい、味わいながら何度も"美味しい”と連呼する。
そんな幸せそうな顔を見るのは、こちらも嬉しいに越したことがないのだけれど。
「友雅さん食べないんですか?すっごく美味しいですよ?」
残りのワインばかりを口に運んで、ぼんやりとしている友雅をあかねは覗き込む。
「ここのお店のケーキって、男の人にも人気あるんです。だから、きっと友雅さんも気に入りますよ」
ほら、とプレートに載せられている、彼のプチフールをすすめる。
小さなコーヒービーンズに、はらりと飾られた金箔の輝きが映える。

「はい、どーぞ」
なかなか手の進まない友雅に痺れをきらし、フォークを手に取って一切れをすくい、身を乗り出して彼の口元へと近付けた。
仕方なく口を開くと、ほろ苦いコーヒーの味が舌を伝って流れ込んで来る。
「美味しいでしょ」
フォークに残ったチョコクリームを、ぺろりと舐めながらあかねは笑った。

「あかね」
「…はい?」
言いかけようとして、声が止まった。
コーヒーの苦みが、喉を麻痺させたかのように。
「いや、あかねの方も美味しそうだなと思ってね…」
思ってもみないことを、つい言葉に出してしまう。
本当に言いたい、切り出したいことは言えなくなっているくせに。
「味見します?美味しいですよ〜」
「じゃ、直接味見させてもらおうか」
ぐいっと彼女の腕を引っ張って、腕の中に転がり落としてから、唇でフロマージュの味を伝えてもらう。
甘酸っぱくてさわやかな、それでいて濃厚でもある…くちづけにも似た味わい。

「んうっ…ん、やだ、そんなに舐めちゃ…」
ソファの上に押し倒し、唇を丁寧に舐めながら彼女の心を探ろうとする。
けれど、どんなに舐めてもくちづけを繰り返しても、その唇からはカシスの香りしかなかった。



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Megumi,Ka

suga