Please! Jealousy

 第二話(2)---------
仕事が終わったあと、医局に戻って帰宅の用意をする前に、友雅はもう一度院長室へ向かった。
彼女の義母の治療について、どんな手続きを済ませたのかを確認するためだ。
詳しい病状は、実際に会って検査してみなければ、何も分からない。
とにかく『よろしく頼む』と何度も院長は言いながら、友雅に頭を下げた。
院長に頭を下げられてもねえ…。
すっきりしない気分のまま、医局へと向かう。
夕食の時間が近付いているので、入院病棟は夜が近付いても慌ただしい。
あかねは日勤だから、もう先に帰ってしまっただろう。
気になることもあるし、カフェで待っていてくれと伝えるべきだっただろうか。

後ろめたいことは何も無いけれど、彼女に会わせたくはなかった。
昔の恋人の話なんて、今までしたことはない。
こちらが尋ねたことはあるが、恋人なんて一人もいないとあかねは言っていた。
片思いも含めれば、恋のひとつやふたつは経験があるはず。
ただ、正式に男女として付き合った関係は、一度もなかったらしい。
それはまあ、友雅が直に確かめたので間違いはない、取り敢えず。

逆に自分はといえば…。
恋と言って良いのかどうか、あやふやな付き合いばかりで。
好き、愛している、なんて言葉が浮かんでくるような付き合いが…果たしてあったかどうか。
うわべだけの、表面上の付き合い。
深層まで受け入れられない、どこかいつも突き放していたような。
だから、彼女とは一緒にならなかったのだ。
そんなつもりは、まったくなかったから。
でも、あかねだけは別だ。
一生懸命さがけなげで、可愛くて、目を離せなくて。
居心地の良いぬくもりを与えてくれつつも、丁度良い刺激を与えて目を覚まさせてくれる。
一緒にいると楽しくて、ずっとこのままだったら…と何度思ったか。
それはいつしか、あかねを独占したいという欲に変わって…今に至る。

あかねは、彼女を見てどう思っただろうか。
女性の勘は鋭いものだから、昔の恋人だと直感で気付いただろうか。
もし気付いたとしたら……あらぬ誤解を抱かれたら困る。
尋ねてみようか?
でも、もし気付いていないなら、逆に説明しなくてはならなくなるし。そうなれば、わざわざ余計な情報を与えてしまうことになる。

あかねにやきもちやかれるのは、悪い気はしないけどね…。
『よりを戻したりしたら許さないから』とか。
『昔の恋人なんか見ないで』とか。
『自分の奥さんしか見ちゃだめ』なんて言われてしがみつかれたら、想像しただけで心がくすぐったくなる。
つい、そんな台詞を言わせてみたい、なんて思ってしまうけれど、それは限りなく不可能に近い。
何しろやきもちをやかせる行為を、行う余裕が今の友雅にはなかった。
たった一人を追いかけることに、あまりにも精一杯だから。


ナースステーションを通り過ぎて、その先に医局がある。
顔見せ程度に挨拶しておくか、と友雅はステーションの前までやって来た。
ちらりと覗くと、スタッフたちはテーブルの周りに集まって、何やら話し合いをしている。
仕事の打ち合わせだろうか?と思ったが、それほど緊張した空気は感じられないので、ちょっとした雑談でもしているのか。

「んじゃ、あかねは知ってたっていうんですか、元カノを」
中から響く森村の声が、友雅の足をぴたりと止めた。
「どうかなー?前から知ってた感じではなかったなあ」
「私たち、ついうっかりあの子が後ろにいたの、全然気付かなくてさあ…」
面倒なことになった。
彼らの噂話に、遭遇してしまったか。
真相はどうあれど、意識されてはバレたのも同然。
知られても、別に問題があるわけでもないのだが。

「しかし、橘先生に知られたらヤバいんじゃないスか〜?あかねにチクったとかで、睨まれちまいますよ?」
…はあ。
頭を抱えながら、ナースたちがうなだれる。
問題はそこなのだ。
余計な情報をあかねにバラしてしまったと、あの友雅が知ったら…そんな仕打ちをされるか。
さっきからずっと、そのことが皆の頭の中を困惑させている。


「つい耳に入ってしまったのなら、仕方がないけどねえ」

その声が聞こえた瞬間、またもステーション内が凍り付いた。
あかね来た時とは比べ物にならないほど、一瞬のうちに氷点下50度の雪原に放り出されたような。
「…………」
友雅の声に背を向けたまま、森村たちは互いに顔色を伺う。
振り向くべきか、黙って無視しておくべきか…って、そりゃ無理だが。
返答するとは言っても、どう答えたらいい?
沈黙の中、嫌な汗で背中と額がじっとりと冷たくなる。
「え、ええと……」
勇気ある者が一人、やっと顔を上げて廊下の方を見た。
ずっと黙っているわけにもいかないし、彼の声に受け答えねばと思ったのだが…。
「あれっ?先生?」
確かに声がしたはずなのに、視線を向けたそこに友雅の姿は無い。
夕食を運ぶ栄養士たちが、忙しく行き来しているだけの光景が広がっている。
「今、橘先生…確かにいたよね?」
まるで幽霊にでも遭遇したような気分だが、間違いなくここにいる全員が彼の声を聞いた。
そうでなければ、あんなに硬直したりしない。

「も、森村くん!ちょっと見て来てよ」
急に若い女性看護士から、森村に向かって白羽の矢が放たれた。
「何で俺が、そんな怖い役目しなきゃならないんスか!!」
冗談じゃない。みんなさっきまで震えることさえ出来なかったのに、その問題の相手に近付けというのか。
「だってほら、森村くん研修医だからね?医局に行っても変じゃないしー」
ここに来て、適当な理由をつけては森村を後押しする。
友雅もそろそろ終業時間だろうし、医局に寄って帰り支度でもしているはずだ。
「こっそり様子見で良いんだって。先生のご機嫌、チェックしてきてよ」
「嫌ですって!勘弁して下さいよおおおおお!!!」
研修医という立場だから、権力的にかなり弱いと自覚してはいるけれども、こういう雑用を押し付けられるのは…はっきり言って迷惑だ!

必死で抵抗しようと思ったが、そんな余裕さえなく。
ぽいっとステーションから放り出された森村は、廊下の先の医局に目をやった。
一見普通に見えるそこが、ただならぬ妖気を醸し出しているような…気がする。

ちらっと肩越しに振り返ると、ステーションの中から数人が拳を挙げて”頑張れ!”と声もなく言っている。
「しくしく…みんなひでえ」
がっくりとうなだれた彼は、重い足取りで恐怖の医局へと一歩踏み出した。



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Megumi,Ka

suga