Please! Jealousy

 第二話(1)---------
南側に面する広い中庭の奥に、第一研究棟がある。
院内では一番古い建物なのだが、二年前に改修工事をした為に、見た目だけなら近代的な新館と大差ない。
その最上階には、院長室が設けられていた。
「いやあ、すまないねえ橘先生。急に決まったものだから…」
豪快に笑う院長が、ソファに深く背を預けながら頭を掻く。
その隣には、整外教授。
二人ともその表情には、どことなくぎこちなさもある。
おそらく原因は、彼らの隣に座っている彼女のせいだろう。
「帰国するのは彼女の勝手ですが、来院するのであれば、予め連絡を頂きたかったですね」
「あははっ、ごめんなさいね。勝手知ったる場所だから、つい直行しちゃって」
懐かしさを覚える、明るい笑い声。
クールビューティタイプの風貌に反して、意外と飾りっけのない性格で、笑うときも声を上げて遠慮なく笑った。

そういう過去もあったな。-----随分と前のことだが。
別れたのは、あかねがここに研修にやって来る少し前だ。
"そろそろ私も、結婚しようと思うの"
彼女の方から、その言葉を切り出された。もちろん、相手は他の男だ。
元から結婚するつもりはなかったし、それほど深い考えがあって付き合っていた感もなかった。
それなりの付き合いで、それなりに男と女で。
二人とも割り切って時間を費やし、彼女は最後に結婚という選択肢を取った。
自分ではなく、結婚に相応しい相手を見付けて、ここで築いた内科医の仕事を辞めて渡米した。
そうして今の彼女は、アメリカでも有数のメディカルグループの社長夫人。
玉の輿に乗った、というわけである。

「で?どうして帰国したんだい。そろそろ本題に入ってもらわねばね、仕事も残っているし」
「そ、そうそう!それなんだよ実は!」
急に間に入って来た院長が、身を乗り出して友雅の顔を覗き込む。
彼が説明するところでは、彼女の夫の母…義母であるが、右肘に関節障害が出ているらしい。
その治療を、友雅にお願いするために帰国したのだと言う。
「それくらいの治療なら、私の他にいくらでも医師がいるだろうに」
「まあそうなんだけれどね。でも、あなたこういう関節の治療って得意だったじゃない。手術後の処置も評判高かったし」
友雅が言うとおり、手術をするにしても執刀出来る者は、この院内にも多数いる。
なのに敢えて彼を指名したのは、実力を周知している安心感と…
「それなりに、いろいろ気の知れた同士ですもの。ちょっとした無理でも、受け入れてくれるかしらって」
「…まったく面倒なことを…」
はあと深いため息が、友雅の口からこぼれる。

ちらっと顔を上げると、院長がこちらを見てへこへこと頭を下げていた。
なるほど。この様子から察するところでは、何かしら有益な事情でも取り付けてあるんだろう。
「分かりましたよ。私も医師ですから、患者の治療を断るつもりはありません」
「おおお!橘先生なら、きっとそう言ってくれると!」
両手を広げて大喜びする院長を、友雅はせき止めるようにして彼らを見た。
「ただし、あくまでもビジネスライクで」
きっぱりしたその口調は、いつもの友雅とはどことなく違う。
やけに芯の通った、強めのトーンだった。

………ぷっ!
しばし沈黙が流れたあと、その空気を砕いたのは、またしても彼女の笑い声。
「ちょっと、もしかしてそれって…奥様に誤解されちゃ困るっていう意味?」
ケラケラと軽やかな声が、広い院長室に響き渡る。
今、彼女は"奥様"と言った。
つまり、友雅が結婚したということを、既に知っているということだ。
「昔の恋人と密会してるとか、そんな風に思われたら困っちゃうってこと?」
「は、はははっ!いやほら、実は橘先生と奥さんは、こっちが当てられるほどラブラブでねええ!」
沈黙を続ける友雅に、一抹の不安を感じた院長が場を和ませようとする。
だが、そんなことをしても、もやもやした空気は払いきれない。
「さっきのナースさんでしょう?仲良く手なんかつないじゃって、可愛いところあるのね、あなたも」
「可愛い子には、可愛いことをしてあげたくなるんだよ」
「じゃ、あなたは私を可愛いとは思ってくれてなかったのね?」
一度たりとも、手を繋ぐ行為なんてした覚えは無い。
彼女がそう問いかけると、意味深に友雅は静かに笑ってみせた。

「大丈夫よ、新婚さんの邪魔なんてしないから」
ロゼワインカラーの指先が、アイスコーヒーのグラスに伸びる。
細いストローがくるりと回転し、それを唇に付けてほんの少し吸い込む、
「噂で聞くところでは、あなたが何年も粘って粘って、ようやく手に入れた宝物なんでしょう?」
「宝物じゃなくて、天使だよ、彼女は。私だけのね」
照れるそぶりなど一瞬も見せず、当然のような顔で友雅が答えた。
「はあ、そう…。院長、随分と重症の恋の病に掛かったようね、この人」
呆れ顔の彼女に、院長は苦笑いを返す。
自分から誰かに対し、こんなにも盲愛な態度を示す友雅なんて、見た事も想像したこともない。

…あの、可愛い感じの女の子。
彼女がねえ…この人をそんなに変えちゃったってわけ。
どこをとっても、自分とは全然違うタイプの女性。
友雅がその気になれば、あっという間に手に入れられそうな華奢な子に見えるのに、プロポーズの返事に何年も粘ったということは、なかなかどうして芯は強そうな相手だ。

ポケットの中のPHSが、ブルブルと震え出す。
「もしもし、橘です--------」
そろそろ回診の時間だと、ナースステーションからの連絡。
生憎とその声の主は、彼の天使では無かった。
「じゃ、仕事の催促が来ましたから、私はこれで。患者さんの手続き等に関しては、院長がお好きなように進めてください」
アイスコーヒーを一口もすすらず、友雅はソファから立ち上がって、背を向けたままドアに向かう。
振り返ろうとも、立ち止まろうともしない。
「ちゃんと検査もしてちょうだいよ」
「分かっていますとも。きちんと完治するまで、全力を尽くさせて頂きます」
彼女が声を掛けたが、それでも友雅はこちらを向くことはなく、さっさと部屋を出て行ってしまった。


---------ナースステーション。

「嘘っ!マジっすか、その話!!」
「マジもマジ!すっごい美人!橘先生って、面食いだったんだねーって感じ」
「…面食い?おっかしいな…じゃあ何で、先生はあかねを選んだんだぁ?」
もしここにあかねがいたら、間違いなくカルテで殴られそうな台詞を森村が吐く。
外来受診時間が終わり、研修医たちも一段落。
医局に行くついでに、ナースステーションに顔を出したところ、こんな噂話に出くわしたのだ。

「で、問題のあかねは?」
「さっき帰ったわよ。夕飯の買い物があるからって」
今日は日勤なので定時も早い。既に予定の時刻から、30分は過ぎている。
一応彼女も主婦であるから、家事を怠るわけにはいかないので、こういう時はすぐに帰宅してしまう。
例え夫の友雅が甘やかそうとしても、頑として流されないのがあかねである。



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Megumi,Ka

suga