俺の天使に手を出すな

 第8話 (4)
時間通りに帰れば、彼より先に帰宅しているはずなのに……あかねは今、郊外のショッピングセンターにいる。
マンションの通り道や近所には、マーケットや食材店もあるのだが、週末くらいしか来ない店にわざとやって来たりして。
買わなきゃならないものがあるのか?と言われると、別にそんなわけもない。
スチールのカートの中には、オリーブオイルやらブラックペッパー。ライ麦パンと、ピザ用チーズ。
全部近所で買える物ばかりを、適当にカートへ放り入れている。

ただ、出来るだけ遠回りをしたかっただけだ。
そのまま帰って、彼と顔を合わせるのが気まずかったから。
買い置きなんて必要もないのに、食料品コーナーを行ったり来たりして時間稼ぎ。
コーヒー豆も買っておこうかな…とか。
先週大きな袋をまとめ買いしたばかりなのに。

そもそも、何で顔を合わせ辛いんだろう?
夕べ、思いっきり彼の頬をはり倒したから?
----だってそれは、怒って当たり前のことじゃない!職場であんなことっ…非常識じゃないのよっ。
体重で身動きをせき止められ、容赦なく肌に触れようとする彼の指先。
思い出しただけでも、顔が赤くなる。
イライラしてるのは分かるけど…っ、も、もう少し良識とか分別とか常識とかを考えて…っ。
「…おねえちゃん、ねつあるの?おかおあかいよ?」
視線に気付いて足元を見下ろすと、3〜4才くらいの子供があかねの様子を、じっと物珍しそうに見ている。
「は、はははは、別に何でもないのよー!はははは」
純真無垢な子供の視線に居たたまれず、あかねは逃げるようにその場を後にした。


ぐるぐる歩いていても、買い物の品数が増えるわけでもない。
もう7時を過ぎているし、今から帰ったら8時過ぎだ。
これ以上遅くなったら、友雅を心配させてしまうだろう。

…もしかして、とバッグから携帯を取り出してみた。
"着信有り"の表示。履歴を確認すると、5回着信が入っている。
4件はもちろん彼からの電話で、最後の着信は30分前。
だが…それは先輩看護師からだ。
"メール受信有り"のアイコンをクリックすると、彼女からメールが届いている。

『少し前に、先生から電話あったよ。帰って来てないんだけど、心当たりないかって。買い物してから帰るって言ってた、って伝えておいたけど…まだ買い物なの?どこまで行ってんの?先生心配してるから、早く帰んなさいよ!』

はいはい、もう帰りますよ…言われなくても。
そのままの言葉を、あかねは彼女にメールで返信した。
それっきり友雅から着信はないから、少しはホッとしたのかもしれない。

心配してるから…か。
黙って買い物に来ちゃったし、メールで一言送信しておけば良かったな…と、少し後悔した。
いつだって、心配してくれる。
遅くまで出掛ける用事がある日は、迎えに来てくれるし。
夜勤などで来られないときは、車を手配してくれる。
家から徒歩5分のコンビニに行く時でも、当たり前のように付き添ってくれるし。
一緒に歩くときだって、絶対に彼は車道側を歩く。
外へ出るときも、まず彼が先に出てドアを開け、周囲を確かめてからだ。

気付けばあちらこちらに、そんなさりげない配慮が散りばめられている。
皇子様とか騒がれている割に、私の方がお姫様かお嬢様みたいな扱いをされてるんだなぁ、と改めて思った。
それだけ、大切にしてくれているんだな…と。
………そして、そういう彼が…好きだった。

しょっちゅうからかわれるけれど、本気で悩んでいるときは絶対に茶化さない。
彼にとっては些細なことでも、真剣に向き合ってくれて、答えを出すためのヒントを与えてくれる。
自分の答えは自分で出すように。
そうしなければ、納得行く答えは出せないのだと、学生の頃から言われ続けて。
でも、ヒントは与えてくれる。選択肢が広がるように、情報も増やしてくれる。
そうやって今の今まで、どれだけ励まされて来たか。
だから、アクラムにあんな風に言われて、腹が立ったのだ。
誰が何と言おうと、誰がどう思おうと、自分は友雅の優しさを知っている。
世界中の誰よりも…彼が優しいことを知っているから、あんな風に侮辱されるのが我慢出来なかった。

好きな人を侮辱する人なんて…絶対に許せない。
何が『妻になれ』よ、冗談じゃない!
今まで患者さんだから我慢して来たけど…やっぱりこれだけは引き下がれない。
…あ、マズイ…。
何か思い出したら、また悔しくって目が潤んで来た。
即座に気を紛らわせようと、辺りをキョロキョロ見渡して…目に止まったアンチョビの瓶詰めを手に取った。
帰ったら、ポテトサラダ作ろ。アンチョビとバジル入れたやつ。
バゲッドに乗せて、ワインと一緒に食べるの…友雅さん、好きだから。

車に乗る前に、メールだけ入れておこう。
"遅くなってごめんなさい。今から帰ります"と。




思った通り、部屋の前に到着したのは午後8時過ぎ。
インターホンは鳴らさず、鍵だけを差し込んでくるりと回し、ガチャンとロックが外れたのを確認して、ゆっくりノブを引く。
部屋の中は、明るい。けれども…とても静かだ。

靴を脱ぎ、買い物袋を抱えてそっとリビングに向かうと、そこには誰もいない。
ただしテーブルの上には、食べ散らかした料理がそのままになっている。
「あーあ、だらしないなあ…やりっぱなし…」
ダイニングテーブルに買い物袋を置き、あかねはテーブルの上を片付ける。
夜勤明けで帰って来るだろうと思い、今朝作り置きしていたものをつまんだあと。そして、飲みかけの缶ビール。
しかし人の姿は……ここにはない。
バスルームにも気配がないとすれば、3LDKの中で彼がいそうな場所は…書斎代わりの6畳かベッドルームか、どちらか。
あかねはベッドルームのドアを、そっと開けると…透き間からぼんやり小さな明かりが漏れてきた。

…あ、寝てるんだ…。
ベッドサイドのテーブルに、飲み残したペリエのボトルがエメラルド色に輝いていて、枕元には携帯。
ドレッサーの椅子にジャケットとネクタイを放り出して、彼はベッドの上で寝息を立てている。
眠っていて、何となくホッとしたようながっかりしたような…不思議な気分だ。
あかねは、彼の脱いだものを畳み終え、足元に丸まっている毛布広げて、そっと彼の上から掛けてあげた。


「……あか、ね?」
びくっとして慌ててベッドから離れると、ぼうっとして友雅は目をこする。
「…帰って…来てたのか」
「は、はぁ、今帰ってきたばかりです…」
友雅は横たわったまま、気怠そうに寝返りを打つ。
まだ眠いんだろう。思えば夜勤明けに仮眠を午前中だけ取って、午後には外来を担当をしていたのだ。疲労困憊に違いない。
「夜勤と診察で疲れてます…よね。ゆっくり…休んで下さい。」
すり足をするように、徐々にあかねはベッドから距離を置いていく。
このままもう一度熟睡してもらって、今日のことは全てリセットしてもらって。
朝になったら何もなかったかのように、また新しい一日を始めれば良い。

そう思っていたのだが、彼は許してくれなかった。

「そんな遠くに、何を買いに行ったんだい?」
去ろうとしたあかねの手を、友雅が引き止めようと掴んだ。
「何を買ったの?」
「…あ、あの…コーヒーと、オリーブオイルと……っ…」
「先週買っただろう。オイルだって何本も買い置きがある。なのに夜遅く一人で、遠くまで買いに行く必要はないだろう?」
どうしよう。何も言えない。
彼の言うことはその通りだから、反論が思い付かなくて黙り込むしかない。

「言いなさい」
静かな口調だけれど、その声は厳しかった。
怒ってる…友雅さん。
これまで喧嘩らしい喧嘩はしたことはないし、本気で怒られたりしたこともないけれど…不機嫌とは違う厳しい声だ。
一言だけ言って、そのあとの沈黙が重苦しい。
顔を…上げられない。返事も出来ない。

……っ!!
捕まれた手への力が、痛いくらいに強くなった。
思わずあかねは、ぐっと目を閉じて歯を食いしばる。
本気で怒らせてしまった…?もしかして、叩かれる?
そうされても仕方ないけれど…っ。
まるで夕べと逆パターンだ。今度はこちらが叱られる方だ。
……ごめんなさいっ!!
力いっぱい目をつぶって息を止めて、身体を硬直させた。

けれど------その身体は、すぐに暖かなぬくもりに包まれた。
「頼むよ…心配させないでくれ…」
気付くと彼の腕の中にいて、耳元で囁く彼の声が聞こえた。



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Megumi,Ka

suga