俺の天使に手を出すな

 第8話 (3)
午後4時30分。
最後の外来患者が、深々と頭を下げて診察室を後にした。
本日の受診は終了だが、薬局前のフロアはまだ人の気配が消えない。
「お疲れ様でした。夕べから夜勤されていたのに、急に診察をお願いしてすみませんでした。」
ぺこりと看護師が頭を下げるが、別に彼女の責任ではないので文句はない。
ドクターに連絡を取って、代休として明日に休みを変更してもらったから、まあ良いだろう。
それに、仮眠を取ったせいか疲れも少し抜けている。
逆にこうして仕事をしていた方が、緊張感が入って頭もすっきりしてくるものだ。

「それじゃ…私はこれで上がるよ」
「はい、お疲れ様でしたー」
揃って看護師たちの声が友雅を労う………が、一人だけ処置室に引っ込んで、顔を出さない看護師がいる。
ちらっちらっと他の看護師たちは、彼女の方を振り向いて気に掛けるのだけれど、それでも一切無反応だ。

やはりすんなりここは諦めて、家に帰って話した方が良いかもしれない。
友雅はそう決めて、彼女たちよりも先に診察室を後にした。


パタン、とドアが閉まったあとに、看護師たちは足早に処置室に駆け込んで来た。
ベッドやら治療器具やらが揃えられていて、決して広いスペースでもないのだが、彼女たちはあかねを壁際まで追い詰める。
「ちょっと元宮さん、どうしたってのよー!先生、何か話したい感じだったじゃないのっ」
「…別に、そんなことないですよ。」
「そんなわけないでしょ!」
一人の看護師の手があかねの顎に伸びて、ぐっと顔を持ち上げた。
「目を腫らして駆け込んで来て、おまけに先生にはビンタの痕つけて…普通なわけないでしょう!」
そうよそうよ、と隣にいる看護師もうなづく。

「何があったか分かんないけどさ、元宮さんも今日は早く家に帰った方が良いわよ。で、ちゃんと話してあげなきゃ、先生が可哀想じゃない。」
その同僚たちの言葉に、何故かあかねの頭の中で、ピキッというひび割れのような音が響いた。
先生が可哀想…って、どういうことよ。
何で友雅さんのこと、庇うの?
理由も何も言ってないのに、泣いてたのは…私の方なんだけどっ。
それなのに、どうして友雅さんだけが可哀想って言われるのよっ。
「だってぇ…元宮さんに無視されてる先生、可哀想なんだもん。なんかさ、しゅんとしちゃって。」
「そんなことないですよ!そんな気弱な人じゃありませんっ」
全面的に無条件で庇われてる友雅が、妙に面白くなくて突っかかってしまった。

すると看護師たちは、そろって顔を見合わせたかと思うと、急にニッコリとあかねに満面の笑みを見せる。
「元宮さんは、ちゃんと見てないから分かんないのよ。そっぽ向かれてる時の先生、捨てられた子犬みたいに可愛いのよ?」
…かっ、可愛いっ!?と、友雅さんが可愛いぃ!?
カッコいいとか、素敵だとかという形容詞は、あらゆるところから耳にタコが出来るくらい聞いていた。
けれど、可愛いだなんて言葉を聞いたのは…もしかして初めてなんじゃないのか?
「なんかほら、耳がぺたーんとして、しっぽ丸めながら上目遣いでご主人様を目で追っかけてるみたいな…。母性本能くすぐられちゃう。」
「は、はぁ〜?」
名前が出て来なければ、この会話で表現されている人物が、あの友雅であるとは誰も思わないだろう。
母性本能をくすぐられるだなんて…可愛いだなんて…100%彼には無関係な言葉だと疑わなかったのに。

「何か、抱きしめてあげたくなっちゃうよね?」
「うんうん、思う思う。いい子いい子して撫でてあげて、ぎゅーって。」
「膝枕してあげて、寝るまで手を握ってあげたりしてね」
きゃあっと二人は盛り上がっているが、あかねは…正直微妙な気持ちで立ち尽くしている。
さっきまでは、自分よりも彼が庇われているのが面白くなくて、機嫌が斜めに傾いていた。
だが、今は少しそれとは違っている。
「可愛くなんかないですよ。第一、大の大人じゃないですか。」
「あーあ、分かってないなあ。そういうギャップが良いのよー。」
「私、慰めてあげたーい。」

………………なんなの、この騒ぎ。
一応目の前に、未来の奥さんがいるんですけど。

「そうだ!明日、先生の分のお昼も作って来てあげちゃおうかなーっ」
何だって?
「あ、ずるいじゃない!だったら私、デザート係でお菓子作って来ちゃうっ!」
オイオイ、ちょっと待て。
「ねえ、そういえば年末で辞めた先輩の旦那さんが、バーやってるって言ってたよね?明日、仕事終わったら先生誘って行かない?」
「良いかも!それなら結構メンバー集まりそうだなー。整外からでも5人は確実でしょ。あと内科と皮膚科と耳鼻科と放射線科と……」
「あと、歯科と婦人科と小児科にも、確か先生のファンがいたと思うよ。誘ってあげなきゃー」
何人集めるつもりなんだ。
それじゃ飲み会どころか、完全にちょっとした宴会クラスの人数じゃないか。
本気でそんな店に連れて行くつもりなのか?

20代から30代前半くらいの、女性看護師が大勢集まって友雅を取り囲んで。
慰める?頭を撫でて、抱きしめて、膝枕?

---------------冗談じゃないっ!!!
あまりにも、あまりにもその情景が様になりすぎて、嫌だ。

ぽん、と肩を叩かれて我に返った。
あれほどおしゃべりをしていたのに、いつのまにか彼女たちは、既に後片付けを済ませていた。
そして、ニコニコ嬉しそうな顔をしながら、あかねの前に顔を近づけてくる。
「帰ったら先生に、明日の予定聞いといてー。私たちはこれから、他の科の子たちを誘いに行って来るから〜!」
ルンルンという鼻歌が聞こえそうな浮かれ足で、二人はあかねを置いたまま処置室を出て行った。


しばらくしてから、あかねが診察室から出て来た。
彼女は部屋の鍵を閉め、とぼとぼとナースステーションの方へ歩いて行く。
その姿を、柱の影からこっそり覗いている目があった。
「…どう?元宮さんの様子」
「うーん、何か相変わらずぽわーっとした感じ。」
先に診察室を出た看護師二人は、陰からあかねの様子を目で追いつつ伺う。
わざとあんな嗾けたことを言ってみたが、果たして結果は得られただろうか?

そりゃ友雅のファンが多いのは嘘じゃないし、彼女たちも以前はその一人だった。
彼をお酒に誘いたいというのも、半分くらいは本気も入っている。
しかし、そんなことをしたところで、友雅がその気になるわけがないのは、誰もが承知のことだ。
酒の席を一緒にしようが、例えそこで膝枕をしたとしても、彼の頭の中はあかねのことしか考えられないはず。
そんな彼を、今さら誘う気もなりゃしない。

「元宮さんも、どっかやけに頑固なところ、あるからねえ…」
何があったのか知らないけれど、おそらく何かズレが生じているのだろう。
それに対して、何とか修復しようと自分から近付いていく友雅と、素直に反応できないあかね。
本当は人も羨むほどの、ラブラブカップルのくせして、三歩進めば相手が二歩下がるという、どっかで聞いたような歌の文句みたいな状態。
「でも、それで先生がまた気力低下して、集中力散漫になっちゃ困るしねえ」
あかねは、そこんところが自覚出来ていないから、困る。
何にしろ友雅の心を左右するのは、あかねの行動次第だということを、まだ分かってない。
……なので、周囲がこんな策を企てる羽目になるのである。

「だけど…確かに元宮さんに近付きたいのに、許してもらえない橘先生のしょげ方って…可愛いけどね」
くすくすと、暢気に二人は思い出し笑いをする。
冷静を装っていても、何だかそわそわして落ち着かないのが、傍目から見ていると面白いのだ。
「そっかあ。もしかして、プライベートの先生って、結構コドモっぽいところがあるのかもねえ」
あの、国内外でも名高い名医の彼が。
ドクターにしておくのは、勿体ないくらい華やかな佇まいの彼が。
教授たちの噂では、院内スタッフから患者の家族にまで、黄色い声が絶えたことのなかった彼が。
今じゃフィアンセのあかね一人を、とことんまで溺愛状態というか、まさに中毒状態というか。
よくもまあ、そこまで彼を手中に収められたものだ。
これはもう嫉妬どころか、尊敬の域だ。

「ま、明日は先生お休みでしょ?元宮さんは夜勤だったよね?」
そうなると午後3時くらいまでは、日中一緒にいることが出来るのだし……。
更にこれから帰宅してからの時間を足せば…かなりの時間を二人で過ごせる。
「二人っきりになっちゃえば、なんとかなるっしょ。」
多分明後日出勤してきたときは、ご機嫌な友雅が見られるだろう。



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Megumi,Ka

suga