俺の天使に手を出すな

 第8話 (2)
「そろそろ呼んできた方が良いんじゃない?ねえ、元宮さん…」
処置室で、壁の時計を見上げていた看護師が振り向く。
名前を呼ばれた看護師は、さっきから黙々と医療器具を整理していた。
「ねえ、橘先生…呼んで来てくれない?」
「じきに来ますよ。まだ十分前じゃないですか。」
脱脂綿、消毒液の補充も済んだし、器具の消毒も完璧に済んでいる。
あとは診察担当のドクターが、やって来ればOKなのだが…。

「でも、先生って夜勤明けなんでしょ?午前中は仮眠取るって言ってたけど、疲れて寝過ごしてるんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。診察時間には遅れたりしたこと、一度もありませんから」
気持ち良いくらいスパッと、あかねは事務的に返事をした。
風通しのために開けておいた窓から、風が吹き込んでクリーム色のカーテンをはためかせている。
あかねは窓に近付き、そっと閉めたあとにカーテンをまとめた。

ガチャン。
ドアが開く音がして、看護師がそちらに視線を向ける。
「あ、先生」
「少しギリギリだったね。でも、何とか遅れずに済んだかな。」
目が覚めたのはほんの2〜3分前で、白衣に袖を通しながら診察室にやって来た。

友雅はざっと室内を見渡した。
一番近くにいるのは二十代後半の女性看護師と、もう一人の看護師は部屋の奥。
そして問題の彼女は……部屋の隅でカルテをまとめている。

「先生?前髪少し濡れてますけど、どうしたんですか?」
看護師が、友雅の髪を指差して尋ねた。毛先が少し湿っている。
「目をすっきりさせようと思って、顔を洗って来たものだから。その名残だね、きっと。」
そう答えながら友雅は、診療机の椅子に腰を下ろすと、彼女の背中を伺いながら声を掛ける機会を待つ。
だが、なかなかあかねは振り向いてくれない。
そのうち、周りの看護師たちがそわそわし始めていた。

ナースステーションに戻って来たあかねは、何だか目が潤んでいるし。
どうしたのか、何かあったのかと尋ねてみても、"何でもない"としか答えないくせに、目をこすり喉を詰まらせてばかりで。
夕べ見つけた友雅の頬に薄く残る紅葉の痕と、今朝出勤したときのあかねの機嫌の悪さ。
そして例の患者に呼び出されたと思ったら…こんな状態で逃げ帰って来て。
何でもないと言ったところで、それを信用する者は誰もいない。
友雅が来たら、理由を聞いてみようと思ったのだが、診療が始まってしまってそれっきり。
しかも、昼も顔を出して来ないし…。
そしてここでやっと合流出来たと思えば、この調子。

……元宮さん、先生のこと無視してんのかしら…。
……でも、何で?やっぱりあの、先生のほっぺたのアレが理由?
……さあねえ。先生は何か、声掛けたい感じだけど、元宮さん無反応だし。
……そうなると、また先生のご機嫌が悪くなるんじゃないの?大丈夫なの?午後の診察。
……機嫌が悪くなるっていうよりもー、元宮さんに気を取られて集中力散漫になる可能性が……
「先生は患者さんを前にして、集中力を乱したりしませんよ!」
コソコソと話している看護師の背後から、無機質なあかねの声が響いて、彼女たちはぎくっと肩を震わせた。

あかねが診察室に入って来る。
「そろそろ、一人目の患者さんをお呼びしても良いですか?」
「ああ、構わないよ。」
友雅はそう答えて、手元に置かれたカルテに目を通し、あかねはノブを握り、ドアを開けて患者を呼ぼうとした。

「あかね、後で少し話を……」
言い掛けたとき、彼女がくるっと振り向いた。
そして、腰のポケットに付けた名札をつまんで、友雅に見せるように突き出す。
「『元宮』です、『橘先生』。」
きっぱりとした声と、まっすぐな目が友雅を見つめたが、焦点はわざと少しずらしている。

はあ…と溜息がこぼれた。
これじゃプライベートな会話のチャンスは、とてもなさそうだ。
「分かりましたよ。じゃあ『元宮』さん、患者さんをお呼びして。」
「はい。」
一言だけ答えると、彼女は今度こそドアを開けて、患者の札番号を呼んだ。


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今日は休みのはずなのだが、何故か森村は院内にいた。
研修医の日常も慣れて来たせいか、私服で病院へやってくるのは、何だかぎくしゃくしてしまう。
久々に今日はゆっくりと…と思ったが、たまりまくった洗濯とかを済ませたら、どーにもこーにもこっちの状況が気になって仕方なくなって。
買い出しのついでに、という言い訳を作って、結局今日もここにいる。

「あれからどうなったんだろーなあ…」
こそこそする必要もないのに、裏庭を通り抜けてカフェへ向かう。
そういえば、コーヒーのチケットがあったな…と思い出し、一枚取り出してアメリカンのトールサイズを注文した。


「だからさー、何が良いんだよ、もう〜!」
聞き覚えのある威勢の良い声がして、天真はカップを持ったまま振り向いてみると、奥のテーブルに座っていたのは、思った通り保育士のイノリだった。
が、その彼の前に座っているのは、金髪の少年。
確かあれは、今回の問題を引き起こしている患者の息子だったはず。
「さっきから、いくつ買ったと思ってんだよー。どれかひとつくらい、飲めるものがあるだろ?」
「普段飲んでいるコーヒー、こんな味じゃない。」
「はぁ?おまえ、どんなん飲んでんだよ?」
「コピ・ルワックとセントヘレナ。」
…聞いたこともない銘柄だが、多分とんでもない高級品なんだろう。
だが、そんなの知ったことか。
こっちとしてはいつも缶コーヒーばかりで、ここのカフェのプレスコーヒー(470円)でさえ高級だっていうのに。

「おい、何やってんの、おまえら」
森村がイノリの背中を叩いた。
テーブルの上には、ショートサイズのコーヒーが5〜6種類並べられている。
だが、それらはまったく手をつけられていない。
「あー、ちょっと聞いてよ。コイツさあ、コーヒーが飲みたいっていうから連れて来たの。そしたら『こんなのコーヒーじゃない』とか言ってさあー」
「…しょうがねえだろ。育ちが全然違うんだし」
空いている椅子を引っ張って来て、イノリの隣に腰を下ろした森村は、こまっしゃくれて座っている少年を見る。

「で、何でこいつがここにいんの?」
彼を指差しながら尋ねると、イノリはほったからしのコーヒーを啜った。
「何かおふくろさんが、具合悪いとかってんで診察に来てんだって。その間暇してるから、相手してやろうって連れ出したんだけどもさあー」
やはり森村が言う通りに、まったく日常的な感覚が桁外れで。
付き合うのもくたびれてしまい、飲み物でも…と思ったらこの調子。
普段はこっちが感心するほどパワフルなイノリも、彼には手が出ないみたいだ。

「手に負えないんだったらさ、親父んとこに連れてけよ?」
「…あの、EX室?」
「そうそう。俺、一応治療チームだからさ。受付までなら連れてってやれるし。」
イノリだって保育士なのだから、彼一人に構っているわけにもいくまい。
病室に連れて行けば、少なくとも執事やら誰かがフォローしてくれるだろう。
「じゃ、頼めるかぁ?俺、3時から絵本の読み聞かせがあるからさ」
「オッケーオッケー。任せとけ。」
森村が答えると、イノリはホッと胸を撫で下ろした。
多分それは、やっと仕事に戻れるという意味ではなく、この少年から解放されるという意味での、安堵感だったに違いない。



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Megumi,Ka

suga