俺の天使に手を出すな

 第8話 (1)
院内を走るなんて、何年振りのことだろう。
研修医だった頃は雑用に追われ、救急患者や容態急変が起これば、廊下だろうが全速力で走り回っていたものだが、最近はそこまでドタバタすることはない。
走らず、それでいて機敏に速度を速めて歩く。
無闇矢鱈な慌ただしさは、患者たちに不安を抱かせてしまうから、という理由もあった。
しかし、今はそんな余裕がなかった。

白衣の裾を翻して、友雅はエレベーターホールへと向かっていた。
突き当たりの角を曲がり、即座に階下のボタンを押す。
少し、息が上がっていた。

このフロアの部屋は、すべて目を通した。
屋上にも上がってみたが、洗濯物が風にはためいているだけで、人の気配はまったくなかった。
あかねがアクラムの病室を飛び出してから、もう20分が過ぎている。
どこにいる?
涙をためたまま、患者の前に出て行くなんて出来ないだろう。
少しでも早く見つけ出して、落ち着かせてやらなくては。
それはきっと、自分にしか出来ないことだろうから。

ポーーーーン。
軽い電子音が響いて、上昇して来たエレベーターがゆっくりと開く。
パールホワイトのドアの向こうから、降りて来た二人の人物。
「橘か。何を慌てている?」
現れたのは、産婦人科医の安倍である。
友雅より若い彼だが、日本でも名高いドクターの一人。
不妊治療や少子化問題でも、常に率先して提案を掲げる実力者だ。
「あの…元宮を、どこかで見かけていませんかね?」
「元宮なら、患者をリハビリ科に連れて行くとか言って、車椅子の用意をしていたのを見たぞ」
…仕事に入ってしまったか。
そうなったら、無理矢理押し掛けるわけには行かない。
目を赤く腫らしながらも、天使の笑顔を作って応対しているんだろう。
もっと早く部屋を飛び出していたら、捕まえられたのに。



あかねを追いかけようと部屋を出た時、友雅は受付の前でイクティダールに呼び止められた。
執事はあくまでも、主の意見を重要視するはずだ。
例えどんなに友雅が反論しようと、あかねが泣いて叫んでも、彼はアクラムの言葉に従ずると…そう思っていた。

-------「橘先生、元宮さんに、どうぞお詫びをお伝え下さい。」
そう言って彼は、友雅に深く頭を下げた。

「それは貴方ではなく、あなたの主が言うべき事ではないのかな」
自覚は無かったが、この時の友雅の表情は、今までになく険しかった。
これまで何度となく、アクラムの悪態に腹を立てていたが、今回はそれとは違う。
あかねの感情を滅茶苦茶にして、涙まで零させたあの男に対して、心底腹が立っていた。
「…先生がお怒りになられるのも、ごもっともでございます。アクラム様には、後ほど私からご説明致しますので、まずは私からお詫び致します、とお伝え願えませんでしょうか。」
イクティダールは、もう一度友雅に頭を下げる。
「ご主人様を説き伏せるつもりかい?執事の君なら、彼の意見を進めるはずだろうに。何故、そんなことを?」
今までの彼なら、そうだったはず。
あかねを看護担当にしろという、主人の命令を伝えるために深夜遅くに、友雅のPHSにまで連絡をして来た彼が、突然ここで反旗を翻す意味は何なのだ?

するとイクティダールは、張りつめた肩から少し力を抜いて、静かに目を伏せる。
「元宮さんを拝見していて、昔のことを思い出しました。一人を深く想う心は、私にも身に染みて分かりますので…」
そのあと、彼は自分の昔話を簡単に話し始めた。


完璧な日本語とマナーを身に着ける必要があった彼は、通っていた教室で教鞭を取っていた日本人女性と恋に落ちた。
異文化同士の恋は、互いの家族には到底認めてもらえず、半ば強制送還のような形で彼女は帰国させられた。
だが、それでもひとつの恋を彼は諦めきれず、数年後に彼は自ら日本へ赴き、直接彼女と家族に粘って結婚を認めさせた。
「人は見かけによらないね。貴方がそんなに、情熱的な人だとは思わなかったよ」
「今よりも若い頃でしたし、随分と行動的でございました。」
だが、諦めることは無理だと思った。
このままでいても後悔するばかりだと思ったら…いつの間にか日本に来ていた。

「それで、今は彼女と?」
「はい。私は勘当されましたが、執事の勤めがありますので、幸い経済的に不自由はなく、彼女と二人で暮らしております。」
自分の家族を犠牲にしてしまったが…その代わり、かけがえのない大きなものを得ることが出来た。
後悔は一切していない…と、昔を振り返りながら、イクティダールは穏やかに微笑みながら答えた。
「先程の元宮さんの姿が、あの頃の妻に重なりました。彼女も私との仲を反対されたとき…あのように泣き叫びながら、御両親を説得しようと試みて…」
不思議なものだ。
ついさっきまでは、敵の腹心だと信じていた男が、今は同じ目線の男に思える。
ひとりの女性を愛することを、諦めきれない…そんな自分と同じ男に。

「私の事情は、アクラム様もご承知です。ですから、私の口からお話しした方が良いでしょう。先生に、これ以上ご面倒がかからぬように努力致します。」
彼の言葉の中には、迷いも何もない。
真っ直ぐ背筋を伸ばして、低いトーンだがはっきりと答えた。

「…何だか君とは、一度ゆっくりと酒でも飲んでみたいね」
イクティダールが顔を上げると、友雅は彼を見て静かに微笑んでみせる。
「君の昔の恋物語、もう少し詳しく聞いてみたくなったよ。」
「つまらぬ想い出話でしかありませんが、先生のお耳障りにならないようでしたら、いずれ是非。」
「愛する人と結ばれた君の話だ。いろいろと、今後の参考にさせてもらうよ。」
友雅が言うと、彼は黙って微笑む。
この病室で、こんなにも気持ちが和らいだのは、初めてのことだった。



「どうした。今日は午後から外来担当じゃなかったか?」
「あ、ええ…そうです」
夜勤明けだと言うのに、そのまま居残りで午後から外来の代役だ。
手術〜夜勤と続いた時は、普通なら次の日は休みになるのだが、妻の代わりに息子の三者面談に行かなくては、ということで担当医が臨時の休暇を取ってしまって。
誰か代役を捜していたところ、院内に居残っていた友雅に白羽の矢が立ってしまったのだ。
「だったら午後まで、どこかでしばらく休んでおけ。少しでも疲れを軽減しておくと良い。」
「ああ、そうだね。そうしようかな…」
どのみち、あかねは仕事に入ってしまったから、昼休みまで捕まらない。
例え昼休みに会えなくとも、午後になれば診察室で顔を合わせられるし、その時に少しは話が出来るだろう。

とにかく、安倍が言う通り少し休んでおこう。
一日二日の夜勤明けなんて、もう慣れっこで疲労など感じていないが、自覚出来ない部分もあるはず。
『夜勤明けで診察に出るなら、その前に少しでも横になって下さい。眠らなくても、横になるだけで少しは疲労が回復出来ますから』
以前から、あかねが口を酸っぱくして言っていたな…と思い出す。
彼女はここにいないけれど、言われたとおりしばらく横になっていよう。
そう思い、友雅はエレベーターに乗り込もうとした。

「安倍先生?どこに行くんだい?」
入れ替わりに出て来た安倍が、フロアに降りて真っすぐ歩いて行くのを、友雅は呼び止めた。
ここはVIPのみの特別フロア。
そして、彼が行く方向にある病室は…あの患者の部屋だけだ。
「おまえの患者に、用があるので行ってくる」
「そう簡単に、彼本人には会えないよ?私たちさえ、いつも受付を通してからの面会になるくらいだし。」
すると安倍は再び背を向けて、遠ざかりながら答えた。
「事が事だから、そうもなるまい。直接話さねば意味がない。」

"事が事"って、どういうことだろう?
安倍の言葉に疑問を抱きながらも、閉まりそうになったエレベーターのドアをこじあけ、友雅は急いで中に飛び乗った。



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Megumi,Ka

suga