俺の天使に手を出すな

 第7話 (2)
友雅は、EX室に来ていた。
「経過は問題ないようですね。傷口の縫合もしっかりしていますし。抜糸が済みましたら、少しずつリハビリを始めましょう。」
術後の個所を確認した友雅は、アクラムのカルテを同行の看護師に手渡した。
「リハビリのスケジュールについては、担当医と無理ない方法を選んであります。早まらず、ゆっくりと進めることをお勧めします。」
心の中では、無理してでも早く完治して、ここを出て行って欲しい。
そんな気持ちは相変わらずあるのだが、今日はどことなく気怠さが付きまとう。
頬に残っている痛みのせいかな…。
目の前にいる敵の姿を見ると、彼に対する攻撃心ばかりが膨らんでしまって。
そのせいで、一番大切な彼女の心を、読むことが出来なかった。
イライラが募り、慰めてもらおうと、彼女の声も聞かず強引に押し付けて。

ただ愛しいから、愛し合いたくて抱きしめる。
普段はそれだけの気持ちで、彼女のことを胸に閉じ込めるのに、昨日の自分はそれだけじゃなかった。
苛立ちを彼女に癒してもらうだけの、一方的な気持ちがあったのだ、少なからず。
だから、時も場所も考えずに、自分の感情だけで奪おうとして。
そんな風に荒れた心を、天使が気付かないはずなかった。
逆に、頬をはり倒してくれたおかげで、我に返れたのだから感謝すべきだ。

謝らなきゃいけないな、ちゃんと。
みっともないところばかり見せては、目の前のアクラムどころか、他の輩にまで取られてしまうかもしれない。
それだけは絶対に防ぎたいから、しっかり足を着けなくては。


「昨夜、イクティダールが、おまえに電話で連絡をしたと思うが。」
アクラムの声に、友雅は我に返って顔を上げた。
相変わらず彼の表情は、感情があまり浮かんではいない。
「ええ、ナースステーションで繋がらなかったそうで。直接私のPHSに掛かって来ましたよ」
「……なら、話の内容は聞いているだろう。何故、看護師が元宮ではないのだ。」
「元宮を同行させることには、お断り致しましたので、ここに連れて来るはずありません。」
少し気持ちを落ち着けて、言葉を話せ。
感情的になっては、こちらが苛立つばかりだ。冷静に、事務的に交わせば、少しは気持ちも高ぶらない…はずだ。
何度も自分に言い聞かせて、友雅はアクラムの前に立つ。

すると、アクラムは枕元に置かれていた、黒いファイルを手にした。
それをぱらぱらとめくり、ある書類を挟んだページを広げると、友雅に見えるように開く。
「何です?この文書は」
彼らの国の言葉で書かれたそれは、数カ国語をある程度理解出来る友雅でも、何と書いているのか解読出来ない。
「自国の婚姻届けだ。昨日、使いの者を大使館に向かわせて、取り寄せて来た。」
「婚姻届?」
日本の書類は何度か見たことがあるが、彼等の国のものはまた少し変わっていて、しかも文字が分からないから気付かなかった。
だが、彼が婚姻届を取り出してきたということは………まさか。

「本来ならば、自国に戻って届けを出すのが通説なのだが、周囲が何かと五月蝿い。大使館と自国の王との話も付いている。あとは、元宮が書類にサインをすれば済むことだ。」
ついに実力行使を使うというのか。
フィアンセである自分の目の前で、彼女が奪われるのを見ていろと?
「おまえのいない場所でサインを済ませても良いが、あとからぐずぐず言われても困る。この場に立ち会って、完全に元宮が私の妻になるのを確かめさせてやる。有り難く思え。」
「有り難く…ね。よくもまあ、とんでもないことを考えてくれるね、あなたは。」
友雅はファイルをパタンと閉じて、それを彼のベッドの上に放り投げた。
ばからしくて、相手にする気にもならないことばかりだが…それに反応してしまう自分も、ばからしいと思う。

「元宮がここにいない限り、それは実行出来ないでしょう。」
いくら何でも、彼女自身がサインをしなくてはならないはず。
勝手に彼が自分で書いて提出し、それで受理されるなんてことはないだろう。
あかねさえ、ここから遠ざけてやれば。
公私混同だと言われても良い。彼女がここに近付かなければ、それで良い。
彼が病院内を、自由に歩き回ることなど…まずないだろうから、彼女がここに来ないようにさせれば。


「……おまえの浅はかな考えは、既に見通している。」
アクラムが、鼻で笑いながら友雅を見た。
「元宮をここに来なければ、と考えているのだろう。だが、既にイクティダールは元宮を呼びに行っているところだ。」
………何だって?
友雅は辺りを見渡してみると、確かに彼の側から離れるはずのないイクティダールの姿がない。
「そろそろやって来る頃だろう。」
「いくら何でも、そう簡単に意味もなく連れて来られませんよ」
あかねと話は着いている。余計な誘いは乗らずに、無視をすれば良いと言ってある。…自分には出来ないくせに。

だが、相手は裏の手口を使っていた。
彼女がそう言えば、ここにやってこないはずがないという手口で。


病室のドアが開いた。
イクティダールが顔を出す。その後ろには…あかねがいる。
「…あかね…」
「アクラム様、元宮さんをお連れ致しました。」
彼女の背を押して部屋に入るイクティダールに、ご苦労だったとアクラムは労いの声を掛けた。
そしてイクティダールは、あかねを友雅の横に立たせる。
「……橘先生、どんなご用件で呼ばれたんですか?」
夕べのことがまだ引っかかっているのか、あかねは横に立っているだけで、友雅を見上げない。
いつものように、病院では事務的に名前を呼ぶ。
だけどそれは、ここが仕事場であり私的な場所ではないのだ、と言っているかのようにも聞こえた。

「何かご用ですか?ご用があるようでしたら、患者さんのお部屋ではなく、別の場所にてお呼び下さい。患者さんに迷惑になりますから。」
「…私は、君を呼んだりしていないよ」
友雅がそう言うと、はじめてあかねは友雅の顔を見上げた。
その表情は、少し驚いた様子で。
「だって、イクティダールさんが"橘先生がお呼びです"って…」

アクラムの顔を見た。彼は…静かに、そして不敵に笑っている。
騙したのだ。例え友雅に止められていても、彼が呼んでいると言えば着いてくるだろうと、そう知っていてわざと。
ここまで連れてこられれば、あとは押し切れるだろうと考えているのか。
冗談じゃない。


「元宮、これにサインをしろ。」
さっき友雅が放り出したファイルを、もう一度開いてアクラムはあかねの目の前に差し出した。
スーツのポケットから、イクティダールが万年筆を取り出して、彼女に渡す。
あかねはそれを見たが、何て書いてあるか分からない。
ただ、誰かの名前らしきものが、既に明記されていることだけ気付いた。
「これ、何なんですか?」
イクティダール、アクラム、そしてちらっと友雅の顔を順々に見てから、あかねは尋ねた。
「我が国の婚姻届だ。そこにおまえが名を記せば、おまえは私の妻になる。」
アクラムがそう言ったとたん、あかねの手から滑った万年筆が、ベッドの奥へコロコロと転がっていった。

「おまえのサインひとつで、完了だ。早くサインをしろ。イクティダール、もう一本ペンを渡してやれ。」
主から指示されたイクティダールは、ベッドサイドにあるテーブルの上にあった、メモセットからシルバーのボールペンを取り、再びあかねに差し出す。
だが、あかねもそれには黙っていなかった。
「じょ、冗談じゃないですよ!何で私が、婚姻届にサインをしなくちゃいけないんですか!」
今度はペンを受け取らずに、その書類をさっき友雅がしたように、アクラムの手元に放り投げた。



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Megumi,Ka

suga