俺の天使に手を出すな

 第7話 (1)
朝から空気が重苦しかった。
それは昨夜から続いていることで、夜勤だった者は周知の事実。
だが、今朝出勤した者たちは、まず彼の姿を見て息を飲み込んだ。
「…ちょっと、橘先生何かやったの!?」
夜勤を終えて帰る支度をしていた看護師に、出勤したての事務員が血相を変えて駆け寄って来た。
「何なんですか!あのほっぺたの痕!まさか、夜中に例の患者さんと、ついに取っ組み合いでもしたんですか?」
「あるわけないでしょ、そんなの」
相手は昨日手術を終えたばかりで、安静を保っているというのに。

「おはようございまーす」
ロッカールームのドアが開いて、ひとりの看護師が入って来たとたん、皆の視線が彼女に集まった。
その異様な雰囲気には、さすがにあかねもピンと来た。
おそらく、夕べのことが原因だろう。
自分のロッカーを開けて、中にあるナース服に着替えを始めると、私服に着替えた看護師が肩を叩いた。
「元宮さん、あのさあ…夕べ、先生と何かあったの?」
「別に何もありませんけど」
「そんな…何もないってのは、ないじゃない。だって先生のほっぺたのアレ…元宮さんでしょ?」
…夕べ彼に押し切られそうになった時、勢い余って平手打ちした痕。
力の加減をする余裕もなくて、思いっきりやらかしたから…さぞかしみっともないことになってるかも。
「ねえ、夕べあれからどうしたの?先生と一緒だったんでしょ?」
「何もありませんって!」
ナース服を上から被り、バッグをロッカーの中に放り入れたあかねは、バタン!とそのドアを閉めた。

何もなかったですよ!
友雅さんが無茶しようとしたから、止めただけだもの!
あの患者さんのことで、イライラしているのは分かるけれど、だからって院内であんなこと…受け止められないじゃない!
押し倒された重みと、強く抱きしめられた腕の感触は、まだ身体に残っている。
それと同時に、彼の頬を叩いた感覚も、手のひらにじんじんと染み込んでいるような、そんな気がする。




「…………」
その日、顔を合わせる人は誰もが、友雅の顔を見て言葉を失った。
「橘先生、どうなさったんですか…」
彼の右頬にうっすらと残っているのは、確かに手のひらの痕。
「天使に悪さをするもんじゃないな…思いっきりお咎めを食らった。」
藤原から受け取ったコーヒーを片手に、あかねが平手打ちをした頬に手を当てる。
問答無用で、夕べは自分が悪かったのだ。
仕事場であるにも関わらず、自らを見失ってしまったのだから。

でも、あの患者がこの病院にいる限りは、思うように自分をコントロールすることは出来ないだろう。
例え彼女を抱きしめても、胸から沸き上がる独占欲は高まるばかり。
こんなことを続けていたら、毎日のように彼女の平手打ちを受けかねない。
「先生、いっそのこと…完全に無視してしまうのはどうですか?」
窓際のソファに並んで腰掛け、朝日の下を飛び回る小鳥をガラス越しに見る。
「すべてこれは冗談なのだ、と思い込んで相手にしなければ、気が楽なのではないですか?」
隣の藤原が言うと、友雅は苦笑する。
「そう出来るなら…とっくにしてるよ。でも、無視出来ないんだ。あかねの事を考えるのを止めることは、私には出来ないから。」
だから、一緒に思い出してしまう。
「君も恋の炎が放たれたら…きっと分かるかもしれないよ。」
飲み干したコーヒーは、夕べあかねが置いていったものよりも、ずっと薄くて飲んだ気がしなかった。


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「それじゃ、どうぞこれからもお大事に。」
5才くらいの少年と、彼の母親らしき女性二人を見送りに、藤原たちはホールへと降りて来ていた。
二ヶ月ほど入院をしていた彼も、すっかり元気になり今日退院となる。
「もし、腕に違和感がまた出るようでしたら、ご連絡下さい。出来るだけこのスタッフで、お待ちしております。」
「はい。いろいろと、本当に有り難うございました。」
深々と頭を下げる母親の隣で、少年は保育士の手をぐっと引っ張った。
「イノリお兄ちゃん、今度サッカー教えてくれる約束、忘れないでよ!?」
「おう!元気になったもんな。あと2回病院に通って、何ともなかったらリフティング教えてやるからな。」
「約束っ!指切りして!」
少年が突き出した小指に、イノリは自分の指を絡めて指切りげんまんをした。


「やっぱ、子供らが退院するのは気持ち良いもんッスねー。」
「そうですね。まだ入院している子たちも、早くみんな元気になって退院出来れば良いのですが。」
少年たちを乗せたタクシーが去ると、彼らは院内へと戻る。
持ち場の仕事は、これからが本番。
藤原は回診や外来診察があるし、保育士のイノリも、また他の子どもたちの面倒を見に行くのだ。

「でも、イノリくんが来てくれてから、雰囲気が明るくなりましたよ。子どもたちが生き生きしていて、それだけでも良い傾向だと思います。」
「俺、子ども好きッスから!保育士は天職みたいなもんッスよ」
小さい頃から団地っ子同士で、遅くまで公園で遊び回っていたものだ。
リーダー格のイノリには、いつも年下の子どもたちも着いて回ってきて、もはや子守り代わりみたいだった時もある。
そんな事もあって、保育士の道を選んだのだが、一般の保育所ではなくこの病院に勤めることを決めた。
大人でも気が滅入る入院生活。子どもたちのメンタル面は、それよりもずっと弱くて脆い。
彼らの気持ちを盛り上げてやること。
それは大変なことではあるけれども、少しずつ元気に明るくなる表情を見るのは、本当に嬉しいからやりがいを感じる。

「さーて、今日も元気に行くかー!」
「よろしくお願いしますよ。………おや?」
小児外科のフロアに続く道の突き当たりで、少年が一人立っている。
10歳くらいの年か。仕立ての良いスーツを着て、金色の髪をおかっぱの位置で切り揃えている。
「あの子は確か…あの患者さんの息子さん…?」
「え?あの患者って、もしかして王族の…橘先生のライバルの?」
保育士のイノリの耳にも、友雅とアクラムの対決騒動はすっかり筒抜けだ。
二人は揃って、少年の所へ歩いて行く。

「君、確か特別室の患者さんの息子さんだよね?」
「……セフル」
「ああ、セフル君と言う名前なんだね。今日は、どうしたんだい?お父さんのところに来たのかな?」
セフルは藤原とイノリの顔を交互に見たあと、宝石色の瞳を遠くへ向ける。
「……母上、具合悪くて、病院…診てもらいに、着いて来た」
「え、お母さん病気なのか?」
イノリが顔を近付けると、セフルは首を傾げる。
「気分悪いって、寝込んでて。目眩いがして、メイドが病院連れてけって。」
「じゃあ、お母さんは診察をしてもらっているのかな?」
「ドクターが,外で待ってろって。そこでじっとしてた。」
まだ幼いからだろうか。
少し言葉のつながりがたどたどしいが、会話は成り立っているので、理解は出来ているみたいだ。

「父上、まだ具合安定してないから、部屋に行くの邪魔になる。だから、ここで待ってた。」
「どれくらい診察時間が掛かるか、わかんねえぞ?そんだったらさ、俺んとこに来て待ってなよ。」
「ですが…他にも世話をする子はたくさんいるのでしょう?」
不安そうに藤原は尋ねたが、その表情をイノリは明るく吹き飛ばす。
「良いって。昼間は他に保育士もいるし。時間つぶしに付き合ってやりますよ!」
「そうですか。イノリくん、本当にありがとうございます。」
イノリは、病気を治すことは出来ない。
けれど、ある意味彼の存在は、ドクターに出来ない大切な治療を行えるのだ、と藤原は感じた。



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Megumi,Ka

suga