俺の天使に手を出すな

 第5話 (3)
こそこそと忍び込むような動きで、森村は手術準備室の中を覗き込んだ。
中には、手術室担当の看護師が数人。ペールブルーの手術着姿で、話をしながら手洗いをしている。
どうやら友雅は、まだ来ていないようだ。
「あ、森村君、ちょっと来るのが遅いよ」
ホッとしている森村の姿を見つけ、母と同じくらいの年の看護師が声を掛けた。
手術見学はこれで三度目で、今は何人かの看護師とも顔見知りだ。
彼女に指示されながら、森村も一緒に並んで手洗いを始める。

「ねえ、橘先生のこと…聞いたよー。何だか、今日の患者さんとヤバい空気なんだって?」
「はあ…まあ、お察しの通りです」
「普段ならそんなことないけど、元宮さん絡みの話だからねえ…」
よくよく友雅の執心ぶりは、病院内隅々まで届いているようだ。
果たして彼自身は、そんな状況をどう思っているんだろう?
名医として一目置かれる存在なのに、その彼がフィアンセのことになると盲目になってしまう、そんな自分を。


ガラリ、とドアが開く音がした。
そちらに目を向けると、準備室の誰もが顔をこらばらせた。
……渦中の人の登場である。
「ああ、森村君。」
ぎくっとして、肩を震わせた森村のところへ、友雅が歩いて来た。
「夕べはわざわざ、あかねに電話をしてくれてありがとう。」
「は、はい…す、すいませんです!夜分遅くご迷惑をお掛けしましてっ!」
身長はそれほど変わらないのに、肩に手を掛けて笑顔でこちらを覗き込む。
彼から与えられるとてつもない威圧感に、今にも卒倒しそうなのを、多分友雅は気付いていない。
「ご迷惑、ね。まあ…迷惑を掛けられたのは、君じゃなくて、あの輩だけれど」
これから執刀する相手を、輩呼ばわりか…。
噂には聞いていたが、こりゃ本当にかなりなご機嫌斜めだ、と周りの看護師たちがうなづく。

「でも、良い所を邪魔されたという意味では、君の電話も迷惑ではあったかな」
「は、はあ…?」
「二人きりで甘い時間に浸れるのは、我が家だけなのでね。丁度天使を独り占めして、良い気分の最中だったんだよ」
「そ、そ、それは申し訳ございませんでしたあっ!!」
体育会系の部活みたいに、森村は即座に友雅の前で頭を下げた。
場所が場所なら、土下座でもしそうな勢いだったが、これから手術室に入るというのに、床に跪くわけにも行かないだろう。
「まあまあ、構わないよ。その後は、しっかり朝まで独り占めしたから、君には文句はないよ。」
「は、ありがとうございましたあっ!」
気恥ずかしい会話をしているのに、森村が気付いている…はずがないか。
多分友雅へ返事をするだけで精一杯なのだろう。

「先生、そろそろ…」
先に手術室に入っていた看護師が、準備室にいるメンバーを呼びにやって来た。



既に手術台の上では、麻酔を施されて横たわるアクラムの姿があった。
目を閉じてじっとしている彼の顔を、眩しいライトが照らしている。
女性看護師たちが、きゃあきゃあ言うのも分かる。
ヨーロッパの美術館にあるような、大理石の彫刻みたいに整えられた顔つきだ。
「せ、先生、が、頑張って下さい!」
テンションが狂ったのか、後ろにいる森村が応援のような声をかけた。
「ふふ、適当に問題なくやるよ。」
そう答えた友雅の手に、看護師からメスが手渡された。

執刀開始。
……のはずなのだが、いつまで経っても友雅は動こうとしない。
心電図モニタからの音が、ピクンピクンと小さな音で響くだけの、静寂に包まれた手術室。
目の前に患者を置き、彼はじっと…手の中にあるメスを黙って見続けている。

「セ、セ、セ、センセーっ!!は、早まっちゃいけませんですーっ!!!」
慌てて森村が大声を上げて、後ろから友雅に飛びかかった。
まさかとは思うが、まさか、まさかついに頭に血が上って、治療するどころか息の根を止めるつもりなんじゃ!?
「駄目っす!医者は治療をするのが仕事ですーっ!!先生がヤバいことしたら、あ、あかねが泣きますってーっ!!」
必死にしがみついて叫ぶ森村。
呆気にとられる周囲のスタッフの視線が包む中、友雅は笑いながら彼を見た。
「はは…森村君、何を言ってるんだい?治療するために、私は手術室にいるんだから、変なことは考えていないよ。」
そう言って友雅は彼に離れるよう告げると、ようやく仕事に着手し始めた。

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午後8時。
この時間になると、院内の施設は殆ど閉店している。
開いているのは、9時まで営業しているレストランが1軒。
他に24時間のコンビニと、玄関に面したカフェが10時まで。

「あれ、元宮さん…今日はお休みじゃなかったっけ?」
顔なじみのバリスタが、私服姿で現れたあかねを見つけて声を掛けた。
既に診療時間は過ぎていて、ロビーは日中のざわめきなど欠片も無い。
「ちょっと、そのー…様子を見に来たんですけどね…」
暖かいカフェラテを受け取ると、あかねはそう答える。
「あ、橘先生?そっか、休みが別で顔を見られないから、気になっちゃうんだ?」
「そっ、そういうわけじゃ…!ただ、今夜はオペを終えた患者さんのために当直だから、疲れてないかと思って…」
「心配なんだ?良いなあ、新婚さんはラブラブでー」
冷やかすような目で彼らが見るので、気恥ずかしくなったあかねは逃げるようにカフェを出た。

昨日の騒ぎがあったあとだから、無事に手術が終わったかどうか気になって仕方が無くて、差し入れを口実にやって来てしまった。
患者さんのこと、随分敵対視してたもんね…大丈夫かなあ。
そこまで公私混同はしないだろうけれど、何か面倒なことに発展してないと良いのだが。
コーヒーを啜りながら、あかねは整外のフロアに向かう。
ナースステーションは面会時間も終わり、夕食時間も済んで、ほんの少し余裕のある時間。

「え、元宮さん!今日、休みでしょう!?」
「あのー…差し入れに…立ち寄ったんですけども」
私服のあかねを見つけて、びっくりしている看護師に紙袋を渡す。
一応それらしい風にと思って、同僚たちへの手土産も用意して来た。

「あのぉー…今日のオペ、無事に済んだ…んですよね?」
おそるおそる例の事を尋ねてみると、看護師から最初に帰って来たのは溜息。
何だか、嫌な予感がしないでもないが…まさか。
「無事には終わったみたいだけど、何かいろいろ大変だったみたいよー…」
「た、大変って、どういうことで…?」
「私たちは又聞きだから、詳しいことは分かんないけど。明日森村君にでも、直接聞いてみたら?現場にいた彼が、一番目の前でとばっちり受けたみたいだから。」
また森村か。つくづく何と言うか、可哀想な状況に追いやられる男だ。

取り敢えず明日、第三者の立場として森村に話を聞いてみるとして。
あとは…それとなく友雅本人に様子を尋ねてみよう。
そう思い、あかねは当直室へと向かった。


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Megumi,Ka

suga