俺の天使に手を出すな

 第5話 (2)
「フィアンセを奪われて、そんなに悔しいか」
「…奪われたつもりはありませんが。」
「フン、強がるな。王族の私と単なるドクターのおまえとでは、比べものにならん。最初から違いすぎるのだ、諦めろ。」
そう言われて、簡単に諦めるわけがないだろうが!
何とか冷静さを保とうと、腕を組みながら懸命に歯を食いしばる。
だけど、そんな彼の手が震え出していたのを、ギャラリーは蒼白した表情で見つめていた。

「とにかく、あなたのお話を通すわけには行きません。あなたは治療をするために、ここに来たはず。それに専念して頂きたい。出来ないのであれば…私としても治療に専念する事は不可能です。別の医師か、他の病院で治療を進めてもらうと良い。私でなくても、あなたの怪我の治療を出来るドクターは、日本に五万といますからね。」
…げっ!先生、ここに来て執刀医辞退発言かよ!?
後ろで緊迫する光景を眺めていた看護師が、隣の同僚と顔を見合わせて冷や汗を垂らした。
確かにアクラムの怪我の治療は、複雑骨折と言えど日本の医療レベルなら、さほど難しくない。
友雅が言う通り、今日の手術を容易に済ませることが出来る医師は、他の病院はもちろんのこと、ここの病院内の外科医でも何人かは出来るはず。
だが、何故そんな比較的簡単な治療を、国内外でもそれなりの名を持つ友雅に頼んだのか。

理由は、整外教授の旧知の同僚が、アクラムの父である国王の主治医として、数年前から王宮に出入りしているからだった。
更に彼は友雅の大学時代の恩師でもあり、学生当時から技術を買ってくれていた教授だった。
石油産出国として裕福な国だが、医療システムはまだまだ高度とは言えない。
気温が高く乾燥地という気候もあり、近代的な設備を整えるには時間が掛かる。王族の深刻な体調変化の場合は、近隣の高度成長化した国へ受け入れてもらうことも多かった。
そこに訪れた、第四皇子アクラムの怪我。
代々かなりの親日家が揃った王族で、主治医も日本人を招き入れたほど。
腕の立つ日本人医師がいないかと尋ねられ、彼が名前に挙げたのは……長年付き合っている同僚と、その下で働いている昔の教え子。
その二人がいる病院なら、他のどこよりも信頼出来ると。
そういう経緯があって、今回の執刀医に友雅が選ばれてしまったのだ。

はじめは、まあ光栄な事だとは思った。
世話になった恩師からの依頼だったし、友雅にとっては簡単な治療なものだったから、いつも通りにスムーズに進むと思っていた。
なのに、それは思いもよらないトラブルを引き起こした。
医者として重要な冷静さを失うほどの、とんでもないことをやらかして。

これまで多くの患者に携わって来たが、始めての経験だ。
患者と敵と見なしたのは。

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「あれ?こんなところで、どうしたんですか天真先輩」
裏庭のベンチに腰を下ろし、頭を抱えている森村の前に、通りすがりの少年が立ち止まって声を掛けた。
コットンキャンディのような金色の巻き毛に、青空を煮詰めたような色の瞳。
彼はキャンバス地の、大きなバッグを二つ抱えている。
「あー…詩紋かあ。家の使いか?」
「うん、そうです。ローズマリーとカモミールと、あと…無花果の葉と生姜とか…いろいろ頼まれて。」

彼は流山詩紋と言い、天真やあかねの幼なじみでもあり、中学までの後輩だった。
実家は"朱雀苑"という香草・薬草専門の農園を営んでいて、彼の父は漢方医でもあった。
病院を経営する天真の父は、西洋医学や東洋医学にも進んで取り組んでいる。
そのため、詩紋の家とは古くから親しい付き合いなのだ。

詩紋は、自家農園でハーブ栽培などを手伝いながら、天真と同じように実家の後を継ぐつもりで、現在は薬科大学の漢方薬学科の生徒。
暇な時は家の手伝いと称して、契約しているクリニックや病院など配達に行ったりもしている。
今日もそれが理由で、この病院に来ていたようだ。
「何か疲れてそうですねー。研修医って大変なんでしょ?」
「そりゃあなー、いろいろやる事あるしなー。使いっ走りも多いしなー…」
研修というのだから、覚えることはたくさんある。
でも、今の天真に一番疲労を与えるのは…そんな普通の事ではないのだ。

「そういえば、あかねちゃんは?頑張ってる?」
詩紋は、もう一人の先輩のことを尋ねた。
兄妹のいない詩紋にとって、あかねや天真は昔から兄や姉のような存在。
看護師の仕事は大変だと聞いているから、少し心配でもある。
何せ、彼女は結婚を控えた(挙式はいつなのか知らないが)、大切な身体なのだから(別に妊娠しているわけではなく)。
「…そのあかねのことで、院内はとんだピリピリムードだぜぇ…」
天真はぼやくように言うと、再び頭を抱えてうなだれた。


「ええっ?あかねちゃんにプロポーズ!?」
初めてその話を聞いた詩紋は、驚かずにはいられなかった。
「で、でも、あかねちゃんには橘先生がいるじゃないですか!」
「だから、相手は嫁が何人いようが構わねえ国の人間なの。自分だって、すっげえ金髪美人の嫁さんと息子がいるんだぜ」
つまり、こちらの常識が通じない相手、というわけだ。
「そ、そんな!何でその皇子様は、あかねちゃんを選んじゃったんですか!」
「俺が知るか。言っちゃ悪いが、あの嫁さんとは月とスッポンだぜ。外見の好みってわけじゃないのは間違いないだろーが…看護をしっかりしてたとか何とか…よく分かんね」
はあー…と大きく溜息を吐き出し、がくりともう一度天真はうなだれる。

「橘先生は…どう思ってんのかなあー…」
詩紋がぽつりと言うと、途端に天真が顔を上げてこちらを見た。
「俺にとっちゃ、それが一番問題なんだって」
「え?何で先輩が困るんですか」
「あーもー、どうすりゃ良いんだよぉー!」
がしがしと頭を掻きむしりながらジレンマに陥る天真の姿を、渡り廊下を歩いていた永泉が見つけて手を振った。
「詩紋君、いらっしゃい。お待ちしておりました。」
ハーブを注文したのは永泉である。
彼は東洋医学室の漢方医と共に、リラクゼーション効果のあるハーブ料理や飲み物を、患者たちに提供する研究に携わっているのだ。

「森村君、どうしたのですか?随分とお疲れのようですが」
「あー…例の話っすよ、あの皇子と橘先生の…」
「ああ、あの事ですか…」
永泉もそれに関しては十分理解しているらしい。
今度は天真と口を揃えて、こめかみを押さえながら溜息を着いた。
「橘先生は、元宮さんが他の男性の注目されているのを知ると、本当に冷静さを失いますからね…」
「しかも、俺は今日の手術に見学で立ち会う予定なんスよ〜。先生、ちゃんと手術出来ると思います〜!?」
「で、でも…いくら何でも手術だし!」
詩紋がそう口を挟むと、どんよりした影を背負って天真たちがこちらを見た。
「おまえは部外者だから、そんな風に言えんのよ〜…」
「私も、先生のことは信頼しております…けども…」
最後の"けども”が、妙に気になる。

「まあ、森村君は先生以外で、一番元宮さんたちに近いところにいるのですから、何とか先生を落ち着かせてあげて下さい。」
「おっ…俺がですか!また俺っすか!」
何でこんなに、自分ばかりが巻き込まれてしまうんだ…。
日本の医療システムについて、とかいう真面目な問題で悩むならともかく、幼なじみのフィアンセの、そして上司(みたいな)の恋愛問題。
病院で悩むような話じゃないだろうが。

「取り敢えず…オペの前に少し落ち着きましょう。この間詩紋君が持って来て下さった、レモンバームで作ったお茶をご馳走しますよ。」
爽やかな香りのハーブティーは、気持ちをリラックスさせてくれる。
けれども、おそらくこれから見学する手術室の中は、そんな清々しい香りには程遠いに違いない。


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Megumi,Ka

suga