俺の天使に手を出すな

 第5話 (1)
「橘先生?」
コーヒーの紙コップを手に、ぼんやり窓の外を眺めている友雅へ、チームの一員である男性看護師が声を掛けた。
「ああ、何だい?」
「あの…そろそろ、患者さんに今日の手術の説明を…」
看護師はおそるおそる、口にしながら友雅の表情を伺う。
その後ろにいるドクターや看護師たちも、知らぬ振りをしながら、耳だけは峙てている。

「入院した時に、説明しただろう。患者が覚えてなくても、執事の彼が理解してれば良いんじゃないかな」
「いえ、あのー…でも、一応簡単でも本日の経緯は、説明するのが決まりですんでー…」
看護師の彼も、立場的に辛い状況なのだ。
ルールはしっかり守るのが掟であるし、でも友雅の心境も分からないでもない。
どういういきさつでこうなったか知らないが、自分のフィアンセを横取りしようとする相手の顔など、見たくもないのは当然だ。
とは言っても、決まりを怠れば咎められるのはこっち。
言いたくなくても、言わなきゃならない。

しばらく、友雅は沈黙を決め込んだ。
黙って何ひとつ答えず、再び外に目をやって立ち尽くしている。
この緊迫感漂う空気。
清々しい朝だというのに、彼を取り巻く周囲の雰囲気は、心地良さなど全くない。

「分かった。じゃあ適当に済ませてしまおう。」
やっと声がして、一同がホッとしたのもわずか数秒。
カシャン!という勢いのある音がゴミ箱に響き、びくっと肩を震わせた数人が、ちらりと後ろを振り返った。
友雅は周りに目を向けず、看護師を連れて足早に部屋を出て行く。
ゴミ箱のすぐ近くにいたスタッフが、その中を覗き込んでみると…握りつぶされた紙コップの残骸が放り込まれていた。

「先生、今日もご機嫌悪そうだなぁ…」
「ってか、あの患者の話に触れなきゃ、いつも通りだと思うんだけどね。」
手術当日で、しかも執刀医の彼だ。
患者を無視するわけにもいくまい。
何せ、相手は異国のVIPで、直々の御指名なのだから。
「とにかく、早く完治して帰国してもらわなきゃなー。」
皆はそれぞれに顔を見合わせ、深いため息と共に肩を落とした。



「以上が、本日の手術の工程となります。特に難しい治療ではありませんので、2時間も掛からないかと。」
「傷はどれほど開くのでしょうか?」
「範囲を広く取る必要はありません。傷も出来る限り、小さく済む器具を使って行います。縫合も普通より早く完治するでしょう。」
友雅とやり取りをしているのは、いつもの通り執事のイクティダールだ。
相変わらず患者本人は、人形のように無言でそこにいるだけ。
ずっと黙っていればいいものを…と、彼を時折見ては思う。

「…今夜は看護師を一人、こちらに常駐させます。術後に何か異変がありましたら、すぐに連絡して下さい。私は今夜当直ですので、即座に処置に参ります。」
「了解致しました。では、どうぞよろしくお願い致します。」
そう言って友雅は、今夜担当する男性看護師の背中を押し、事務的に(あくまでも事務的に)揃って頭を下げた。
本当は、こんな相手に頭なんて下げたくないが。
どちらかと言えば、こっちが土下座させたいくらいだ…とかなんとか、思いつつ。

その時。
「何故、元宮が着かない?」
スワロフスキーのような色の瞳が、ぎらりとこちらを見て口を開く。
その輝きと視線の力に、気圧されそうになる看護師の隣で、友雅は睨み返した。
「昨夜イクティダールが、私の看護には元宮を着けろと頼んだはずだ」
「それについては、すぐにお断りしたはずですが?」
友雅の視線がイクティダールに向けられると、彼は一瞬どきっとしたようだった。
事の状況は全て把握しているであろうから、友雅がどういう心情でいるのかは分かるだろう。
主であるアクラムの威圧感も相当だろうが、この場合は友雅も負けてはいない。
「手術の立ち会いは、手術室担当の看護師に任せるシステムです。術後の看護に着きましても、万が一を考慮し、体力のある男性看護師を常駐させる考えです。」
「妻が夫に付き添うのは、当然だ。」
アクラムが平然と答えると、ぴくっと友雅のこめかみが歪んだ。

「なら、奥様をお呼び致しましょう。近くのホテルで、息子さんとお過ごしになられているのでは?」
そうだ、彼には妻がいるだろうが。
正真正銘の第一夫人。とびきり艶やかな、大輪の薔薇のような正妻が。
美しい妻と子供を、異国にまで連れて来たということは、そばに置きたいからではないのか。
最初からこの部屋で、共に過ごせば良かったものの!
と、これ以上正論はないと自負している友雅に、イクティダールが申し訳なさそうに口を挟んだ。
「申し訳ございません。実は、奥様は昨日より体調が優れませんで、ホテルのお部屋にて寝込まれておりまして…」
……つくづく、タイミングが悪い。悪すぎる。

だが、諦めるわけにも行かない。というか、引き下がるわけにはいかない。
「では、奥様のご容態も心配でしょう。尚更、こちらのお部屋で過ごされた方が良いと思いますけれども?」
ここは大学病院だし、国内でも十分なレベルの医療システムが整っている。
彼女の体調を診察出来る医師も、幅広いジャンルで待機しているし、ホテルなんかにいるよりマシだと思う。
それに、さすがに妻がいれば…他の女性に求婚なんてことは出来ないだろうし。
どうにかアクラムをねじ伏せようと、あれやこれやと友雅は策を練る。
なんとかして彼の興味を、あかねから引き離さなくてはと。

すると、アクラムは意外な事を口にした。
「ここにいれば、シリンは私を気遣う。体調が優れないシリンに、余計な負担を掛けたくはない。」
…………友雅も看護師たちも、言葉が止まった。
これまで傍若無人な態度と発言を繰り返し、友雅の逆鱗を刺激し続けて来たアクラムだったが、その発言は今までの印象を覆すもので。
妻は自分の側にいれば、自分の体調よりもこちらを気遣ってくる。
そんな彼女に心配をさせるのは嫌だ…と。
それはつまり、妻を労っている意味を含んだ言葉だった。

この男が、妻に対してそういう細やかな感情を抱いているとは…。
あまりにも人間的な感覚を見せつけられて、一同はあっけにとられた。
…………さすがの友雅も、だ。
"何だ、意外に愛妻家な一面もあるんじゃないか、この男は”
と思いながら、だったら最初から妻一筋にしておけ!と言いたい気持ちを抑える。

「故に、その役目を第二婦人が勤めるのが当然だろうが。元宮を呼べ。」
前言撤回。少しでも見直した自分がバカだった、と友雅は考えを速攻で改めた。
「無理だと何度も申し上げておりますが」
「それは、おまえが独断的に決めたことではないのか?」
ピシッと小さな落雷のような光が、病室内に走ったような…気がした。
「上司との打ち合わせで決まったことです。」
はっきりと友雅は答えたが、昨日の打ち合わせで意見を出したのは事実だ。
昨日のことなのに、既にアクラムがあかねに求婚したという話は、上層部にも筒抜けになっていた。
そして、その事を友雅が喜ばしく思っていない、ということも伝わっていた。
周知であるなら、逆に都合がいい。
そう思い、友雅はこちらの希望を全て吐き出した。

あかねの担当スケジュールを減らすこと。
担当日は一人で当たらせず、二人制で進めること。
とにかく、あかねが一対一でアクラムに接することを減らすこと。
上司たちは若干呆れた様子も見せていたが、こっちは人の顔色など気にしていられないのだ。

「これ以上粘ろうと、ご希望は受け入れられませんよ」
どんなに相手が打って出ようが、必ずそれを阻止してみせる。
きっぱりと友雅が答えると…アクラムは彼を見て、軽く鼻で笑いながら言った。

「何だ、おまえは嫉妬でもしてるのか?」

病室内の空気が、ピシピシと音を立ててひび割れ始めた。


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Megumi,Ka

suga