俺の天使に手を出すな

 第4話 (2)
「あの…、さっきの話ですけど…家に帰ってからの方が良いです。病院じゃ、色々と落ち着かないし…」
並んで歩きながら、あかねはこちらを振り向かずに話す。
出来るだけ事務的に、プライベートな会話をしていないように見せかけながら。
「ちゃんと話しましょう?変な誤解されたりするの、絶対に嫌だし…」
「分かった。喧嘩をふっかけた以上、私も姿勢を立て直さないとね。」
どんなことがあっても、相手が何を言おうと、今の状況は絶対に揺るがないことを、互いに確認しよう。
誰にも邪魔させたりしない。
奪おうとしても、阻止させてみせる。力づくでも。

ナースステーションに近付いたとき、隣の足音がぴたりと止まった。
どうしたんだろう?とあかねも立ち止まり、彼の方を振り向く。
と、目の前から伸びて来た手が、ぎゅっとあかねの手を握る。
………ぎくっ!
強まる力が熱を発し、手のひらがどんどん熱くなる。
「渡さないよ、誰にも」
「あ、あのっ…ちょっ…」
立ち止まって手を握って、その眼差しで見つめられては、否応でも顔が赤くなる。
看護師達の目も、通り過ぎる患者の目も、痛いほど集中している。

「おやま〜。新婚さんは、昼間っからお熱いこと〜。見せつけられちゃうわねえ」
年配の女性患者が、二人の前を通り過ぎながら冷やかしていく。
…うう、まだ新婚でもありません…。
別に見せつけてるわけじゃないんですけどっ…。
でも、強く握る彼の力は、どうやっても解けない。

「あの、橘先生…」
我に返って声の主に気付いた友雅は、やっとあかねの手を離した。
そこに立っていたのは、背筋の伸びた姿勢の良い長身の若い男。
リハビリ科の医師、源だった。
「申し訳ありません。午後からいらっしゃっている、患者さんの打ち合わせで…」
そうだった。
担当患者のリハビリ内容について、源と打ち合わせをする約束の時間は、既にもう過ぎている。
「ああ、ごめん。ちょっと野暮用が入ってしまってね…。じゃあ行こうか」
立ち去り際にあかねの肩を軽く叩いて、友雅は源と共にリハビリ病棟へと向かって行った。


後ろを振り向くのが、ちょっと恐い。
ステーション内にいる看護師たちは、果たしてどんな顔で見ているだろう…。
既に友雅の行動には、誰もが呆れているほど公認済み。
だから、文句のようなことは言われないだろうが、さっき通りすがりの患者のように、冷やかされるのも肩身が狭い。

「元宮さん、先生のこと…頼むわよぉ…」
先に看護師の方が、あかねに声を掛けた。
「橘先生のご機嫌は、元宮さん次第なんだから…」
「はあ?ちょっと待って下さいよ。先生の機嫌って、どういうことですかー?」
ためらっていた気分は一気に晴れて、あかねはステーション内へ入って来た。
すると看護師たちは揃って頭を抱えて、はあ…と深い溜息をつく。
「聞いてるわよ…例の皇子様と橘先生の、かなりな険悪ムードのこと…」
「ちょっと!何でみんな、もうその話を知ってるんですか!?」
アクラムから、求婚(と呼べるかどうか)をされたのが、今朝だ。
まだ時間は午後2時。数時間しか経っていないし、大声で言いふらしているわけでもないのに、この話題の浸透率はどういうことか。

「当たり前じゃないのよ…。あの皇子様、この病院じゃみんな注目してるわよ…」
そう簡単にEXフロアには行けないから、午前中の検査や病室を出る機会のある時は、一斉に彼をひと目でも見ようと飛び出して行く。
数人しか選ばれなかった治療チームのメンバーは、他の者たちからは羨望の的。
そこにいれば、ひっきりなしにアクラムたちの話題を問い詰められるのが必須。
その中で…この騒ぎが飛び出して来ないわけがない。
「ただでさえ、あの皇子様の話を聞きたいと思ってるのに…。橘先生が絡んで来たら、それどころじゃないわよー…」
看護師たちは何度も繰り返し、はあ…と溜息ばかり。
一体彼女たちには、友雅がどんな風に映っているのか。

「頼むわよ元宮さん…。橘先生を止めるためなら、空き部屋を私用に使っても黙ってるから…」
どういうことだ、それは。
「だから、そのー…ねえ?この際あれこれ言ってらんないし?そのー…元宮さんが先生を満足させてあげれば…」
「何考えてんですか!!人柱ですか!私は!」
そんな、どこにでも転がってるような、AVのネタじゃあるまいし。
真っ赤なあかねの顔は、恥ずかしくてそうなっているのか、それとも血が上っているからなのか。
おそらくそれは、両方だと思われる。

「ま、その…それは良いとしてさ。先生がそっちの事で頭いっぱいになって、他に気が回らなくなると困るんでー…監視役、よろしくねぇ」
「変な役を押し付けないで下さいよっ!!私が何もしなくたって、大丈夫ですよ!先生は、病院内では真面目ですからっ!!」
あかねはそう言い残すと、仕事に行ってきます!と彼女たちに告げて、ナースステーションを出て行った。

残された看護師たちは、互いに顔を見合わせて再び溜息をつく。
「元宮さん、気付いてないのねえ…」
確かに仕事は、迅速かつ正確・丁寧な友雅ではあるけれども、彼女の存在が、どれだけ彼のメンタル面を左右してしまうか。
すたすたと背を向けて歩いて行く彼女を、眺めながらひとりの看護師がつぶやく。
「でも病院内では真面目…っていうと、普段の先生って…どんなんなの?」




その日の夜。
友雅は普段よりも遅く帰宅した。
とは言っても、あかねとはいつも帰宅時間が一時間は違う。
今日は特に、明日行われる例の患者のオペについて簡単な会議があり、三時間ほど遅く帰って来た。

それだけの時間差があれば、夕飯の用意は十分整っている。
玄関を開けて中に入ると、ふわりと暖かな香りが部屋に漂っていて。
大概あかねはキッチンに立っているか、既にテーブルに配膳しているか、だ。
今夜は、後者。
一人暮らしの頃には有り得なかった、白米、味噌汁、魚や野菜の煮付けなど。今夜は完璧な和食仕立てである。
「今日も一日、お疲れ様でした」
「ホント、お疲れ…だったな、今日は」
彼女が注いでくれたビールで喉を潤すと、友雅はしみじみそうつぶやいた。

まったく、散々な一日だった。
ただでさえ異国の王族とかいう肩書きで、病院でもVIP扱いとして、丁重に向き合うようにとうるさく言われているのに、まさかこんなとんでもない事態に陥るなんて、誰が想像出来ただろう。
「明日、予定通りにオペ…ですか?」
「ああ。特に病状には問題ないから、さっさと治療してさっさと回復してもらった方が良い。」
…何だか、妙に棘のあるような口振りが気になるが。
そう思っているうちに、友雅は二口でグラスを空にした。

「それにしても、あかねが手術室勤務じゃなくて良かったよ。明日は君が関わらないだけ、気が楽になりそうだ。」
「またそんなことを言う…。オペには参加しなくても、その後の看護の順番は回って来ますよ」
そうなのだ。順番で、看護担当はスライドしていく。
一度終わったから、それで安心というわけじゃない。
むしろ、あんな事件のあった後では、不安も増大する。
「公私混同してしまった報いかねえ…。」
二杯目のビールをあかねに注いでもらいながら、友雅はそんな風につぶやいた。



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Megumi,Ka

suga