俺の天使に手を出すな

 第2話 (2)
「ほっ…本日は検査があります!冗談にお付き合いしている余裕はございません!用件がないのでしたら、検査のお支度をお願いします!」
「冗談?誰が冗談を言った?イクティダール、私はそんなことを口にしたか?」
アクラムはイクティダールに言葉を投げかけたが、彼は黙って首を横に振った。
「私は冗談やジョークなど、好きではない。本心しか言わぬ。」
そう答えるアクラムの声には、迷いのひとつも感じられないほど、はっきりとしている。

「私が日本にいるのは、予定ではひと月だ。それまでに、身辺整理をしろ。」
「はあ!?何を言ってるんですか!?」
ちょっと待った。
自分と結婚しろと言われて、こちらは混乱しているというのに。
こっちは承諾した覚えなどないのに、どうして話が進展しているんだ!?
「婚姻届の書類は、イクティダールに用意をさせる。おまえは身の回りを整えておけ。パスポートさえあれば、あとは何でも向こうに取り揃えておく。」
「ひっ、人の話を聞いて下さい!あのですね、わ、私はっ……!」

コンコン、と控えめなノックの音が聞こえた。
全員が視線を向けた場所には、受付の男性がドアのすき間から、そっとこちらを覗き込むように顔を出している。
「失礼致します。あの…係の方が検査用の着衣を届けに来られておりますが…」
あかねは、ホッと胸を撫で下ろした。
万事休す…助かった。
このまま彼の話に付き合っても、相手がこんなんじゃ埒があかない。
こういう相手には、徹底的に事務的に接すれば良い。
感情を表に出したら、向こうはそれに便乗して調子に乗って来る。
話題には触れないように、冗談と決めつけてさらっと流して、聞こえない振りをするに限る。
まあ、ここに第三者がいないだけラッキーだった。
部外者がこんなことを知ったら、いつ、どこから噂が蔓延するか、分かったものじゃないから。

逃げるようにあかねは、アクラムたちへの返事も無視して、部屋のドアを開けた。
すると、ゴツンと鈍い音がして、明らかに何かにぶつかった衝撃が手に伝わる。
「て、天真くん…!!」
「お、おう…あの、ほらこれ、検査着を届けに来ただけでさっ」
そこに立っていたのは、スポーツ整外の研修医の森村だった。
額を手で押さえて眉を顰めているところを見ると、今の衝撃は彼にぶつかった音らしい。
「別に俺はそのっ…何も立ち聞きなんかはっ…」

………!!まさか、今の騒動を聞いていた…!?
森村は部屋に入らなかったが、随分大声で話していたし。
部屋のすぐ外で待機していたとしたら、聞こえてしまったかもしれない…。

「ご苦労様です。それでは支度が済みましたら、こちらからドクターへご連絡させて頂きますので。」
動揺しているあかねに気も止めず、部屋から出て来たイクティダールは、天真から着衣を受け取ったあと、すぐにまたドアを閉めた。




「ちょ、ちょっとあかね、おい!さっきの話って、どーいうことだよ!?」
「どういうことも何も、こっちが聞きたいわよ!何なのよ、あの人!!」
スタスタとフロアを歩きながら、二人はエレベーターホールへと向かう。
ぽかぽかと気持ちの良い日差しが差し込むのに、あかねの機嫌は斜め下降気味だ。
地面を踏みにじるような足取りが、その感情を露に表現している。

ホールであかねに追いついた天真は、即座に口を開いた。
「けっ、結婚しろとか言ってたんじゃねえ!?おまえっ、あ、あいつにプロポーズされたのか!?」
「第二夫人になれ、ですって!何考えてんのよっ…。そりゃ向こうじゃ当たり前かもしれないけど、そんな風習は日本じゃ通用なんかしないわよ!」
私は日本で生まれた、生粋の日本人なんだから!
日本人の価値観しか知らないんだから!
ムッとしながら、あかねはブツブツと天真に愚痴をこぼす。
……小・中学校と付き合いの長い幼なじみには、遠慮なく何でも言えるから、少し気分が良い。


上昇して来たエレベーターが、ガラリと開いて二人は中に入る。
天真は検査室のある3F、あかねは外来診療の1Fのボタンをそれぞれ押した。
「いっそ橘先生のこと、あいつに言っちまえよ?」
「…でも、新しく入った患者さんには、あまり話したくないもん…。変な目で見られたら嫌だし…。」
ただでさえ同じ整形外科で、友雅とは一緒に仕事をする機会が多い。
家族経営の個人病院ならまだしも、規模の大きな大学病院となれば、職場恋愛だとあからさまに分かってしまうし。
「今だって、結構患者さんとかにひやかされるんだからー。これ以上そんなの増やしたくないよー。」
「しょーがねえだろ。おまえがごまかしても、先生の方は結構オープンに対応してるしな」
ニヤニヤ笑いながら言う天真の言葉に、下降していくエレベーターの中で、あかねはためいきをつく。
「はあ…。何でそーなんだろ、友雅さんて…」
あまりプライベートな事は、他人にはあけっぴろげにしないタイプだと思ってたのに、何故か婚約してからはそうでもなくて。
おしゃべりではないけれども、さらっと言葉にしたりするものだから、『また橘先生が惚気てたよ』とか言って、冷やかされる種になるのに。

「牽制してんじゃね?"俺がいるんだから、誰も触れるんじゃねえ"みたいにさ」
あかねは、何言ってんの?という顔をしてこちらを見る。
しかし、実を言うところそれは結構、ドクターの間では周知の事実で。

例えば…あれは一ヶ月ほど前のことだ。
彼女を気に入っていた若い患者が、退院の際にあかねにフラワーアレンジメントをプレゼントした。
それを知ったとたん、ロビーにある花屋に大きなバラの花束をオーダーして、それを抱えて自宅に帰って行った……とか。

……結構、負けず嫌いなんだよなあ、橘先生。
普段は至ってマイペースで、だからこそ波のない精巧な治療技能を持っているのだが、恋愛に関してはそうでもないらしい。

……あの先生を振り回すなんてなあ、えらい大物になったな、コイツ。
幼なじみの姿を眺めつつ、森村がそんな事を考えていると、エレベーターが3Fを告げる音を鳴らした。


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「本日の検査内容を、改めて確認のため申し上げます。まず、MRI検査ですが、オープン型MRIを使用します。これは一般的なMRIより、患者さんのメンタル面を考慮したものとなっており……」
VIP専用に作られた準備室。
そこで友雅は、今日の検査についてアクラム達に説明を始めた。
とは言っても、その内容を真剣に聞いているのは執事の方で、患者本人は半分くらいしか理解していない。
大人しく言う通りにしていれば、それで良いのだろう…という考えか。
まあ、それならそれで構わないが。

「これらは、骨の他に靭帯や筋肉などの検査としても効果があり…」
友雅の後ろで、森村は彼の説明に耳を傾けていた。
と同時に、白衣に包まれた広い背中をぼんやりと見ている。
…まさか目の前の患者が、自分の女にモーション掛けてるなんて、思ってねえんだろうなあ…とか。
そりゃそうだ。日本人の自分たちには、一夫一妻が常識なのだし。
相手は妻も息子もいるのだ。
まさか治療の為にやって来た異国で、その看護師を妻にしようと考えているなんて、まず思い付かない。
それだけ、ここでは常識から外れた価値観なのだ。


「森村君?研修医の君が、朝からぼんやりする余裕はないよ?」
急にぽん、と背中を叩かれて我に返ると、目の前に友雅の顔があって、天真はぎょっとした。
「ほら、患者さんたちが放射線科に移動するから。君も一緒に行っておいで。いろいろ参考になるから。」
「は、はいっ…」
友雅はそう言い残すと、患者のカルテと書類を手にして、軽く手を振りながら去って行った。

森村は急いで、患者たちの列に追いついた。
放射線医師が執事に向かって、細々としたことを説明している。
同行している看護師は三人。
女性二人はあかねの後輩で、もう一人はそれなりにキャリアのある男性看護師だ。
…ま、今日はあいつが担当から外れてるだけ、マシか。
そこに彼女がいたら、患者が何を言い出すかわかったもんじゃない。


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Megumi,Ka

suga