俺の天使に手を出すな

 第11話 (2)
「妊娠?」
「そうなんです。ずっと具合が悪かったんで、診てもらったら…そうだったんですって。」
診察した安倍から聞いた話を、あかねは友雅に伝えた。
そして、アクラムの日本滞在延長についても、説明しようと思ったのだが…。
「おおかた…奥方殿の体調を考慮して、帰国の際の長期移動で負担にならないよう、こちらで出産するという感じだろう?」
やはり友雅には、すぐに彼の考えは分かったようだ。
何しろ、他人には横暴極まりないが、妻に対しては驚くほど気遣いをする男なのだ、と教えてくれたのは友雅だから。

「安倍先生が、診療と出産まで受け持つんだそうですよ。」
場合に寄っては、小児外科の藤原まで引きずり出されるかも、という話もある。
父親の怪我が一安心…と思ったら、今度は妻が出産するまでのチームを編成するつもりだろうか。
「で、院長とか教授とかが、大騒ぎしてるらしいです。病院に近い住まいを、早く見つけろって言われて。」
ハイレベルなVIPの彼のご所望だから、注文はおそらく無理難題のはず。
さぞかし上の面々は、あちらこちらの不動産に連絡したりと、てんてこまいになっているだろう。
「まだまだ苦労は続く、ということか…」
やれやれ、困ったものだ。
いくらイクティダールが味方に着いても、あと一年も近くでウロウロされたら…やっぱり気がかりでしょうがないじゃないか。

あかねのポケットから、PHSの鳴る音がした。
「そろそろ、戻る時間なんじゃないかい?」
気付けば、店内には客が5〜6人に増えている。皆、早めにやって来た内勤のスタッフ達だ。
エントランスを行き交う人も、少しずつ多くなって来ていて、あと30分もすれば外来患者が診療待ちに来るだろう。
「じゃ、私は帰りますけど…それ、全部食べてくださいね!?」
「了解。最後の一仕事、頑張っておいで。」
あかねは、"はい!"と元気良く返事をして、足早に店を出ていく。
遠ざかる後ろ姿が見えなくなるまで眺めてから、残ったサラダをコーヒーで流し込み、新聞を折り畳んで友雅も立ち上がった。
まだ少し早いけれど、自分も仕事の用意を始めようか。
始業前に、彼女の顔を見るという目的は果たせたのだし、これなら今日一日気力も途切れないだろう。
「ご馳走様。」
空のトレイをカウンターに戻して、友雅は店から出た。

「橘か。どうした、今朝は随分と早いな。」
入口の外で、店に入ろうとした安倍と遭遇した。
そういう彼も早めの出勤だと思うが、元々誰よりも早く出勤していると噂だから、これが普段通りなのかもしれない。
「たまにいつもと違うことをすると、新鮮で良いものだよ。」
「フッ…。というより、夜勤明けの元宮が、入れ違いで帰ってしまわないように、ではないのか?」
安倍はシャープに整った顔立ちを、意味ありげに微笑ませてこちらを見た。

思わず、こちらが笑い声を上げてしまう。
すっかり他人には、考えがお見通しというわけか。
自分も、随分と分かり易い人間になったものだな、と改めて思った。


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友雅が早く出勤していることが、何故だかあっと言う間に上層部へも伝わっていたらしい。
着替えを済ませた友雅は、医局ロビーで手持ち無沙汰に医療雑誌を読んでいたが、突然やって来た教授に連れられて、そのまま院長室へ向かった。

「橘くん、そのー…君の知り合いやご親戚で、そういう心当たりはないかね?」
「生憎、全く心当たりはありませんね」
院長と教授が、揃って自分に話があるということで、何となく連れて来られた意味は感じていた。
やはり、あの患者の住まい探しの件だ。
彼の治療に関わるだけでも、腫れ物を扱うようで気を遣っているのに。
今度は別件で、まだ一苦労。
他人とはいえ、大変だな…と思ってみる。
が、自分の方がずっと災難を被っているのだが。

「そのー…変なことを尋ねて申し訳ないんだけども…」
そう前置きをして、教授が友雅の顔を覗き込んだ。
「橘くんは、今はマンション住まいだったよね?」
「ええ。ずっと普通の賃貸暮らしですが。」
最上階である7階の広いベランダからは、都心部の夜景と海が同時に望める2LDK。
しかもエントランスには24時間コンシェルジェ常駐の、月額40万円+αなマンションが、一人暮らしの彼にとって"普通"かどうかは、ちょっと突っ込みたいところでもある。
まあ、今は一人暮らしではないらしいが。

「その…ねえ?そこのマンションなんだけども、現在空室とかは……」
「ありません。満室です。」
答えは間髪入れず、切れ味のある口調で返却された。
院長と教授が、揃って笑顔を硬直させている。
マズイ。勘の鋭い友雅のことだから、こちら側の意図が分かってしまったのかもしれない。
例え病院から遠くても、同じマンションに医師と看護師が住んでいれば、いざという時にもどうにかなるんじゃないかと。
だが、相手は納得したとしても、やはりこっちがダメだったか。
随分と水面下では、泥沼試合が続いているようだし。
……院長、やはり話の矛先を、変えた方が良いのでは。
耳打ちする教授の言葉に、院長も慌てつつ首を縦に振った。

ゴホン、とひとつ咳払いをして、仕切り直し。
「そ、それでは、そのー…別の話をするけれども…。変なことを尋ねるけれど、以前の橘先生のご自宅は、今は?」
「自宅ですか?身内は私以外におりませんでしたから、既に土地ごと売却してしまいました。」
一人で住むには広すぎて、場所を持て余しすぎる。
だったら、マンション暮らしの方が気楽で良いと思って、売り払ってしまった。
「う、うーむ…そうか…」
またも院長たちが揃って、難しそうな顔をした。

友雅の亡き両親はどちらも医師で、特に父は、ここの外科主任教授だった。
彼が26の時、二人とも事故で亡くなってしまったのだが、彼の父の技術は今も伝えられているほどの名医だ。
そんな彼が構えていた自宅は、この病院から少し行ったお屋敷街の近く。
しかも、そこに家を建てた理由が、"いつ急患が入っても、すぐに駆けつけられるように"というもの。
まさに今、友雅が敵対している患者と同じような理由なのだから、妙なモノだ。

もし、あの自宅が未だに残っているのなら…。
一年だけでも良いから、貸してもらえないかと思ったのだが…結果は、もうどうにもならないらしい。
「さて、どうしたものかなあ」
ためいきばかりが、院長室の中に溢れて行く。

「こんなことになるなら、早まって家を作らねば良かったなあ…」
ぽつり、と院長が頭を抱えながらこぼす。
実は院長、昨年に売り出されていた近くの土地を、娘夫婦の新居の為に購入した。
邸宅は既に建築中で、あと一ヶ月かそこらで完成する状態。
「完成したお屋敷をお貸しする、というわけには行かないんですか?」
一年くらいなら、生活していてもさほど老朽化しないだろうし、例え不備があってもあの輩なら、新築同然にリフォームして出て行くことも出来るだろうに。

「せっかく藤のために、あの土地を買ったのになあ…」
はあ、と院長の溜息がもうひとつ。
「確か…お孫さんでしたっけ?」
院長に聞こえないように、友雅は教授にこっそり尋ねる。
「ああ。例の、溺愛しているお孫さんのことだ。」
ひとり娘がようやく授かった初孫で、年は小学4年の10歳。名前を"藤"と言い、日本人形のような可愛らしい少女である。
…会ったことがないのに、そんな風に彼女を形容出来る原因は、何かあればすぐ見せびらかす待ち受け写真と、院長室のあちこちに飾られている写真のためだ。
現に今も、この院長の机の上には、彼女の笑顔が写真立てに納められている。

「つまり、お孫さんが院長室に遊びに来やすいように、病院の近くの土地を購入したというわけなのだよ」
「そういうことでは、引き受け難いでしょうねえ」
携帯を開いては、憂いの表情を浮かべる。
そんな姿を見ていたら、さすがに友雅たちも院長が気の毒に思えて来た。



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Megumi,Ka

suga