俺の天使に手を出すな

 第10話 (4)
立ち話でもなんだから、と言って、イクティダールは応接セットの椅子をあかねに差し出した。
受付に飲み物も用意するようにと言ったが、そう長居するわけにも行かないので、それは断った。
ふかふかの椅子に腰を下ろす。
何度も来ているのに、この病室でこんなにのんびりできたのは、今日が初めてだ。

「先生は本当に、元宮さんを愛してらっしゃるのですね。ご様子やお話を伺っていて、しみじみ感じてまいります。」
「は、はあ……それは何というか…そう…なんですかねえ…?」
婚約までしたのだから、相思相愛なのは自覚している。
けれど、改まって他人からそんなことを言われると……思いっきり照れる。
「元宮さんの、先生に対するお気持ちも…先日の件で十分に伝わって参りました」
イクティダールがあまりにも穏やかに言うので、あかねは恥ずかしくてたまらなかった。
そう、あの時あの場所に彼もいたのだ。
だから、あかねが取り乱して口走ったことを、すべて目の前で見ているのだ。

「元宮さんにこんなにも思われて…先生ご自身も、お幸せでしょうね。」
暖かな色の椅子に腰掛け、イクティダールは柔らかに微笑みながらあかねを見た。
「私は…友雅さんに恩返しもしなきゃいけませんから…」
「恩返し、ですか?」
彼に聞き返されて、あかねは"はい"と答えた。
友雅に恩があるということは…もしかして患者として治療してもらったとか?
「いえ、そうじゃないですよ。私、健康だけは小さい頃からの自慢ですから」
細い腕をまくって、コミカルに力こぶを作る真似をしてみせる。
これでも健康優良児だったんです、と彼女は笑う。
「恩返しっていうのは…私が看護師になる前も後も、ずっと力になってくれてるから……」
腕を畳んで、あかねは答えた。

「私、普通の人よりもハードな道を選んじゃったんです。少しでも早く看護師になりたくって。」
小さい頃からの憧れであった看護師。
早く資格を得て、現場でしっかりとキャリアと経験を積みたいと思い、衛生看護科のある高校に進んだ。
でも、その環境は思った以上に厳しく、余裕の無い毎日ばかりで。
高校の勉強の他に、医療の知識も学ばなければならないのだから、ほとんど休み無しの多忙な学生生活。
遊び盛りの友達を羨ましく思いながら、それでも夢を叶えるために必死だった。

「でも、余裕がないから、ついミスとかもやっちゃって…。そんな自分が情けなくって、自己嫌悪に陥っちゃって。」
頑張ってるはずなのに、間違えるはずがないのに、起こしてしまう初歩的なミス。
もしかして、これが自分の頑張れる限界なんじゃないのか…と、何度か落ち込んでしまったこともある。
「でも…そういう時に先生…は、いつも私を励ましてくれたんです。頑張りなさいって。」
ミスに関しては自分の責任。フォローすることは出来ない。
だから、その失敗を繰り返さないように、また頑張っていけば良い。
「先生は慰めるよりも、励ましてくれるんですよね。それがすごく…嬉しかったんですよね…。」
頑張れる力がちゃんとあるから、大丈夫だって…背中を押してくれているような気がして。
言霊というものが存在するとしたら、きっとあの時の友雅の言葉には、そんな力があったのだろう。

「それがきっかけで…特別な関係に?」
「いえ、あくまでもそれはきっかけで…。その、先生とは何となく…いつのまにかそんな感じに…」
ホントにどこでどうなったのか…気付いたら、二人で過ごす時間が増えていて。
それは病院内だけじゃなく、外でも同じこと。
デートなんてしたことがなかったのに、一緒に食事に行くのも普通になっていた。

ただし、当時はあくまでも相手はドクターで、こちらは臨床実習経験のある看護師のタマゴ…いわゆる、先生と生徒みたいな関係。
「彼氏が出来たんだろうって友達に言われても、ごまかすのが大変で。いろいろと苦労しましたよ、看護師になってからも。」
悪戦苦闘の恋人時代を、あかねは笑いながら話した。
新人看護師がドクターと既に恋人関係だなんて、格好のスキャンダルになるのは間違い無し。
町に出掛けると人目がコワイから、殆ど彼のマンションで過ごすしかなかったとか…今思えば笑い話だが。
「先生も忙しいから、しょっちゅう会えるわけじゃなかったんですけどね」
………それは今も同じ。
お互いに夜勤があったりで、すれ違いもある。
でも、今は二人で暮らしているから、以前よりはずっと長く一緒の時間を過ごせているはず。

「ご結婚されたら、看護師はお辞めになるんですか?」
「いえ、このまましばらくは続けます。先生が、そうしなさいって言ってくれているので…」

------看護師になるのに、君がどれだけ一生懸命だったのかを、私はそばで見ていたから誰よりも分かってる。
その結果をすぐに取り上げたくないし、まだまだ現場で学ぶことはたくさんある。
看護師になる夢じゃなくて、看護師としての夢がまだ残っているんだから、経験を積めるうちは頑張っておいで。

「私はいずれ、専門看護師になりたいんです。地域看護に関われるように。」
これから増えて行く高齢者のケアや、安心して乳児の容態をその場で看てあげられるように。
そのためには、まず現場でのキャリアが必要不可欠。
まだまだ、覚えなきゃいけないことはたくさんあるのだ。
「その為にも、自分が納得出来るまで頑張ってみなさい、って。」
こちらから相談を持ちかける前に、彼がそう言ってくれた。
その夢を話したことがあったかどうか、自分でも覚えていないのに…友雅は分かってくれている。
「だから…先生に恩返ししなきゃ。こんなに大切にしてくれてるから……」
出来ることは、精一杯頑張ること。
彼が背中を押してくれた夢と……彼と生きていくことを選んだ生活を。

「先生以外の方では、駄目なのですね。」
「……はい。」
迷わずに一言、あかねは答えた。
他の男性なんて、もう考えられないし、考えたこともない。
もしかしたら出会ったときに……そんな運命に引き寄せられていたのかも。
「例え相手が王族でも、無理ですね?」
「はい。友雅さん以外の人は…好きになれませんから、私。」
どんなに突き進んでも、答えはそれひとつだけ。
尊敬する医師として。
そして、愛する人として……彼だけが好きだ。



「こんな事を申し上げるのも何なのですが…アクラム様も、お二人がお考えになっているほど、冷たい御方ではないのですよ。」
入口の外まであかねを見送りに出て、イクティダールは切り出した。
我が主であるが故の、偏った価値観かもしれないが…と前置きをして。
「元宮さんに無理な事を申されておりましたが、シリン様とセフル様には想いの深い御方なのです。」
「…ええ。奥様のお身体のために、長期滞在をお決めになったんですよね。お優しい方だと思います。」
だけど------

「私は、旦那様は一人で十分ですから。」
にっこりと微笑んで、あかねはイクティダールを見上げた。
「世界中探しても、友雅さん以上の人はいませんから。」
「そうですね。お二人とも、とてもお似合いです。アクラム様であっても、お二人の間に入ることは不可能ですね。」
「もちろんですよ。だから…ご自分の奥様を大切にしてあげて下さい、って伝えて下さい。」
イクティダールは、黙って微笑んだままうなずいた。

「奥様のお身体も、どうぞお大事になさって下さいね。」
「お気遣い頂き、有り難う御座います。元宮さんにも、そのようなお告げが来られると良いですね」
薄暗いドアの向こうで、あかねの頬がふわっと熱を帯びる。
「い、いえ…私たちはまだ…」
何だか、安倍にしろイクティダールにしろ、同じようなことばっかり言われている気がする。

取り敢えず、その予定はもう少し先。
いろんなことを頑張って…彼が手渡してくれたチャンスを無駄にしないこと。
それがきっと二人にとっての幸せに繋がると…信じてるから。



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Megumi,Ka

suga