俺の天使に手を出すな

 第10話 (3)
アクラムの長期滞在の話は、看護師全員の耳にあっという間に広まった。
それもこれも、院長と教授たちが住居探しに苦戦しているらしく、院内のスタッフに心当たりがないかと伝達されたらしい。
「とは言ってもねえ?ここらの土地に縁があるような、セレブな知り合いなんていないわよー」
ステーション内では皆、口を揃えてうなずきあう。
「もし見つからなかったら、どうするんだろうね?」
「見つかるまでは、取り敢えず今のホテルに滞在したままらしいですよ。」
安倍から聞いてきた話を、コーヒーを飲みながらあかねは話した。

今夜も整外の病棟は静かだ。
深刻な状態の患者も今はおらず、ナースコールが響くこともないが、深夜の巡回は絶対に行わなくてはならない。
「元宮さん、そろそろ見廻りに行ってきましょうかー」
「あ、そうですね」
時計はもうすぐ午前1時。丁度巡回時間だ。
立ち上がった看護師にライトを手渡され、あかねと彼女はひんやり静かな廊下へと出て行った。


柔らかめのナースシューズでも、足音は完全に消すことは不可能だ。
そっと歩いているようでも、すり足の音が響いたりもする。
薄暗く人の気配もない深夜の病棟を見回りだなんて、考えただけでも怖いと思われがちだが、さすがに慣れた。
患者の睡眠を妨げないように、と神経を尖らせているので、それどころではない。
「ねえ、元宮さん。先生…元気?」
「え?せ…先生は…別に、具合も悪くないですけど…」
急に尋ねられてあかねが戸惑うと、彼女は人差し指を目の前で意味深に揺らした。
「違う違う、体調のコトじゃなくって、ご機嫌の方よ。仲直りしたんでしょ?」
……喧嘩していると思われていたのか…。
まあ、ちょっと気まずい雰囲気ではあったし、わざと避けたりもしていたから、そう見られても仕方がないか。
我に返ってみれば、ちょっと大人げなかったなあ、と反省しきり。
そんなあかねを見て、彼女はくすくすと笑いながら前を歩く。

「元宮さんはぁ、遠慮なく先生とイチャイチャしてれば良いのよー。それが万事解決への道なんだから」
「は!?ど、どういうこと…」
小さな笑い声を響かせながら、彼女は自分の見回りエリアへと向かっていった。


ひととおりの病室を確認したが、患者たちは皆心地よい眠りに付いているようだ。
取り敢えず見回りは無事終了だが、あかねにはもうひとつ確認する病室がある。
夜勤に入る時も、彼の病室に見回りに行くこと。
治療チームに選ばれた看護師には、その役目が任せられている。
……でも、ちょっと気が重いなあ…。
何かあったら、イクティダールに相談するようにと言われているけど…。
仕事だから、さぼるわけにもいかない。
あかねは覚悟を決めて、EXルームへ続く階段を上がった。


個室しかないこのフロアで、現在使用されている病室はひとつしかない。
よって、一般病棟以上の静寂に包まれているが、人気がない分、こちらの方が少々不気味な気がする。
けれども、あかねの足取りが重い理由は、そんなことじゃない。
フロア奥にある部屋。EXルーム。ドアの透き間から明かりが漏れている。
「……夜分遅く失礼致します……」
薄暗い廊下と違い、ぱっと明るい室内。
受付の男性は数時間おきに交替し、24時間待機している。
彼はあかねの姿を見つけると、そこで待つようにと言い残して、すぐに隣の談話室に向かった。
併設している談話室は、エキストラベッドを入れて仮眠室になっている。
しばらくして、彼と共にイクティダールが出て来た。

「元宮さん、遅くまで御苦労様です」
「いえ、夜勤の見回りでしたので…。患者さんのご様子は如何ですか?」
「おかげ様で、特に違和感もなく安定しております」
彼はおそらく、少し仮眠を取っていたのだろう。
受付係は交替勤務だか、彼は常に主のそばに着いているのだから、さぞかし疲労が激しいに違いない。
それでも一切、そんな素振りは見せず。
今も眠そうな気配は全くないし、言葉もはっきりとしている、
ただひとつ普段と違うのは、ジャケットとネクタイを外しているくらいだろうか。

「ご容態安定しているようで、安心しました。それじゃ私はこれで失礼します。」
ぺこり、と頭を下げてから、あかねは速やかにくるっと向きを変えた。
ここに長居をしていてはいけない。何となく、そんな気がしたからだ。
「元宮さん」
すぐに立ち去ろうとしたのに、イクティダールの声があかねを引き止める。
「…な、何かご用がおありですか?」
目に見えぬ防御態勢を整え、もう一度あかねは彼の方を振り返った。
彼はゆっくり数歩でこちらに近付いて、ぴたりと目の前で立ち止った。
「……この度は、重なるご無礼を致しまして、申し訳ございませんでした。」
シャツの襟元も緩くして、いつもよりずっとラフな感じであるのに、その身のこなしは紛れもなく紳士。
筋の通った姿勢で、イクティダールは深々とあかねに頭を下げた。

「あ、あの…そんな…顔上げてください!こ、こちらこそあんな品物を頂いてしまって…!!」
自分より見目も立場も上の彼に、こうもきちんと頭を垂れて謝罪されては、こっちが恐縮してしまう。
「せめてもの、お詫びのお気持ちでございます。もちろん、この程度のものでお詫びしきれるものではありませんが……」
イクティダールはそう言うけれど…。
あれから、彼がくれた赤い箱の中身をステーションで開けたのだが、どうやら自国の菓子と紅茶の詰め合わせらしかった。
それだけなら至って普通なのだが、何せ…日常レベルの違う彼らのこと。
茶葉の入ったオレンジ色の壷は、ガレのような繊細な装飾が施されたガラス作りで、瑪瑙やターコイズのような天然石が施されている。
中身も最高級のダージリン・ファーストフラッシュで、紅茶好きの同僚に聞いた話だと、紅茶は彼らの国の名産品のひとつなのだと言う。
菓子は…よく分からないがクッキーのようなもの。これまた宝石箱みたいなケースに、きちんと納められていた。
果たして中身がメインなのか、ケースがメインなのか分からない。
入れ物だけでも、お宝鑑定ですごい値が付きそうな…。

「先生とは少しお話致しましたが、何かお聞きになられておりますか?」
「あ…はい。素敵な恋のお話を教えて頂きました。」
あかねがそう答えると、イクティダールは少し照れたように苦笑してみせた。
「単なる一個人の昔話でございます。お恥ずかしい事を口にしてしまいました。」
「そんなことないですよ。そういう風に思い出せる、昔の記憶があるのって素敵じゃないですか。」
例えその時が辛くて苦しくても、今は笑いながら懐かしいと思いを馳せられる。
今が幸せじゃなければ、思い出すことさえ辛いはずだ。

「羨ましいです。そんな風にドラマチックな恋が出来て…。そして、とても幸せになられて。」
「先生方も、これからお幸せになられるではありませんか」
どきっとして顔を上げると、イクティダールは和やかな表情で微笑んでいる。
アクラムに対して感情的になっていて、一緒にいた彼のことは殆ど意識したことがなかった。
大柄ではあるけれど、身のこなしが紳士的だから威圧感はない。
そして、意外に穏やかな眼差しをしている。
……上から目線の主人とは、似ても似つかないまろやかな瞳だ。

何か問題が出来たときは、まず彼に相談しろと言われているけれど……なるほど、友雅がそう言うのも分かる。
彼の目には、決して攻撃的なものはない。
むしろ柔軟で、人に対して尊敬や信頼を素直に感じることのできる、広い意味で"大人"の目。

大丈夫。彼なら信用しても平気。
あかねは直感で、そう思った。



*****

Megumi,Ka

suga