俺の天使に手を出すな

 第10話 (2)
「元宮さん、今日は私が担当だったんだけど……」
申し送りが無事終わったあと、あかねのところに一人の看護師がやって来た。
あかねは思わず、ぎくりとする。
30代になったばかりの彼女は、あかねと同じアクラムの治療チームの一員。
そして今日は、彼女が看護担当だったのだ。
「あ…な、何か変わったことでもありましたか?」
友雅とはああいう約束をしていたが、彼のいないところでアクラムの話が出て来ると、やっぱり少し緊迫する。
また無理難題を言われたら、どう対応しようかと。
「ううん。別に何にもなかった。」
急変があれは、すぐに担当の友雅に連絡が来るだろうから、それもなかったし容態は安定しているのだろう。
看護師としてはホッとしても、個人的にはハラハラが収まらない。

「ただ……」
歯切れの悪いその言葉が、またもあかねをぎくっとさせた。
ただ、何なんだ?そのあとに続く言葉は?
聞きたいような、聞きたくないような…。
「これ、元宮さんにって。執事さんから預かったのよ」
「……え?私にですか?」
手渡されたのは、紺色の小さな紙袋。
中身を覗くと、赤い箱が入っているみたいだが…その正体までは分からない。
「"いろいろとご迷惑をお掛けしました"って。」
それは…一体どういう意味を含んだ言葉なんだろう。
まるで敗北宣言のようにも聞こえるが、まさかいくらなんでも、あの主がすんなり引き下がるわけが…。

--------だが、夕べ友雅から、イクティダールの話を聞いた。
彼が歩んで来た恋の話と、自分たちに対して好意的に思ってくれていること。
順風満帆ではなかった恋を経験したが、それでも愛する者同士が結ばれるのが何より幸せなのだと、そう彼は言って……。
アクラムを説得させると言っていたらしいけど、そんな簡単にすぐ折れるなんて…ねえ、まさか。

「あ、そうそう。あの患者さんの容態とは関係ないんだけど、ちょっと慌ただしいことがあったのよ。」
袋の中身を取り出そうとしたが、彼女の言葉を聞いて咄嗟に手を止めた。
やはり何か…あったのか?
「実はね、あの患者さん…完治しても一年くらいは、日本に滞在するって言う話なのよねー」
「い、一年っ!?」
ガシャン、と紙袋を持っていた手が滑った。
幸い壊れたような音はなかったので、中身は割れものではなかったようだ。

それにしても一年って、また何でそんな長期滞在を!?
友雅の話では、治療自体は簡単に終えられたはず。
これからリハビリに時間を置いても、長くて2ヶ月くらい。
普通なら一ヶ月ほどで退院出来て、あとは通院でのリハビリに切り替われる。
リハビリなら彼の隣国に、友雅も知っている理学療法士がいる。腕も良いし、帰国しても彼に頼めば治療に関わってくれるはずだ。
…とにかく、さっさと帰国してもらいたいということで、あの手この手で早期完治を目指していたのに。
なのに、それがどうして長期滞在になるんだ?
友雅がこの話を知ったら……頭を抱えたくなる。

だが、彼女は思いもよらないことを口にした。
「あのね、奥さんが妊娠してるんですって」
………は?
奥さんって…あの、金髪ロングの迫力美人のこと?
「来日前から具合悪かったみたいなのよね、奥さん。で、こっちに来て容態がまた悪くなってね。昨日診察してもらったらしいんだけど、どうやらそれが原因だったみたいなのよ。」
自分たちが病院にいない間に、まさかそんな展開があったとは。
じゃあ、もしかして彼が長期滞在するという理由は……。
「そう。奥さんの体調を考えて、日本で生ませることにしたって。」

以前、あかねは友雅に聞いたことがある。
腹の底からムカツク男だけど、意外と自分の妻に対しては真摯な男だ、と。
自分の病室に妻を呼ばないのは、具合の良くない彼女に負担を掛けさせたくないからだと言って。
それを聞いてびっくりしたが、今こうして長期滞在の理由を聞いたら、それほど違和感なく聞こえるから不思議だ。

「だからもう、元宮さんに言い寄っては来ないんじゃない?」
ぽん、と彼女はあかねの肩を叩いて笑った。
はたして、そう簡単に済めば良いのだが………。



カフェが閉店する前に、あかねは代表で夜食を買いにやってきた。
既に外来診療時間は終えているため、この時間に店に来る客と言えば、院内スタッフか入院患者の付き添いくらいしかいない。
頼まれもののサンドイッチ4つと、コールスローサラダが用意されるまで、あかねは空席の目立つ椅子に腰掛けて待っていた。

「あ、安倍先生…」
自動ドアが開いて、入ってきたのは産婦人科の安倍だ。
相変わらず、どんな状況でも感情を表に出さない男で、常に沈着冷静。
巷では"クールビューティー"と呼ばれていて、整った顔立ちとスレンダーな姿に人気も高いドクターである。
「…夜勤の買い出しですか?」
「今夜の夕飯だ。家に帰って摂る。」
テイクアウトで、と彼がオーダーしたメニューのラインナップは、トールサイズのブラックコーヒーと、ベジタブルサンドひとつに、小さなカットフルーツ。
健康に気を遣っているんだか、無頓着なんだか微妙なところ。

安倍先生も独身だから、いつもこんな食生活してるのかなあ…。
そういえば友雅さんも、一緒に住む前は冷蔵庫なんかろくに品物なかったなあ…。
代わりに、ビタミン剤とかのサプリメントばっかり、やたら置いてあって。
泊まりに行った時にいろいろ作り置きしていたけれど、それがないときは…どんな食事をしてたんだろ…全くもう。
……そんな昔のことを、あかねはぼんやり思い出している。

「元宮、あの患者の話は聞いたか?」
安倍の声がやけに近くから聞こえて、はっとして顔を上げると…彼は隣に座ってオーダーが用意されるのを待っていた。
「えっと、患者さん…の…奥さんのことですか?」
産婦人科の彼が言うのだ。
もしかしたら、彼女を診察したのは安倍だったんだろうか。
「検査の結果、三ヶ月に入ったところだ。特に母胎には異常もない。順調だ。」
やはり診察したのは、安倍だったか。
面識はほとんどないアクラムの妻ではあるが、あかねにとっては同じ女性でもある。彼女の身体も胎児も元気と聞いて、何となくホッとした。

「なら、長期滞在の話も聞いているだろう」
「はあ…。奥さん、こっちで出産されるって聞きましたけど、診療は先生が担当されるんですか?」
「そうなるだろうな。」
カウンターにあるピッチャーから、ミネラルウォーターを注いだグラスをふたつ。
そのひとつを、安倍はあかねに手渡した。
「今頃、院長が教授教授連と右往左往しているはずだ。長期滞在出来る住まいを、病院から半径1キロ以内に見つけろと言い出したのでな。」
半径1キロ以内って…。
ここは大きな自然公園を挟んで、向こう側はぐるっとお屋敷街が広がっている。
景色の良いシティホテルが建っているくらいで、マンションみたいなものは殆どないのだが。
「すぐに手が届くよう、というのが第一条件だからな。マンションがなければ、どこかの屋敷でも借り受けるだろう」
資金には一切問題がない彼らであるから、まあそれくらいは何て事もないか。

「橘も苦労しているらしいが、主人があの調子では、私もすんなりとは行きそうにないな」
「そうですねえ…大変そうですけど、元気な赤ちゃんが生まれるように、力になってあげて下さい。」
自分を面倒に巻き込んだ相手の妻を、思いやれる余裕は持っているのか。
友雅はよく、彼女を"私の天使"と称しているが、確かにこういう患者に対する気持ちのあり方は、まだ若くとも看護師のプロ根性に値すると思う。

「元宮も、気になることがあれば連絡しろ。」
「……は?何をデスか?」
用意された商品を受け取って、安倍はまたこちらに戻ってくる。
「市販の検査薬に頼らず、医者にしっかり診てもらえ。おまえたちの様子を見ると…可能性が有りすぎるような気がするからな。」
ちょっと待った!
それはつまり、そういうコトか!!
「あ、安倍先生っ!私たちはまだそんなっ…!!!」
「私は担当から外れてやるから、心配するなと橘に言え。女医を紹介してやる。」
品物を持ったまま、安倍はあかねを残して店を出ていく。
最後に一度だけ振り返った彼が、ほんの少し意味深に笑った気がして、あかねは頬が熱くなった。



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Megumi,Ka

suga