俺の天使に手を出すな

 第10話 (1)
窓際のチェストの上にある時計は、午後3時近くを差している。
コーヒーの入ったポット。二人分のカップと、白樺細工のトレイにモザイククッキーが数枚。
「それじゃ、そろそろ出掛けますねー」
バッグの中身を確認しながら、あかねが横を通り過ぎて行く。
彼女はこれから、夜勤に出掛ける。
そして友雅は、昨日の振替で終日休みだ。

「夕飯は冷蔵庫の中にある、お豆腐のハンバーグをチンして下さい。ちゃんと付け合わせに、カット野菜も添えて下さいね?」
「はいはい。」
「あと、冷凍庫にかぼちゃのスープが作ってあります。それは冷たいまま食べられますからね。それと、デザートには剥いておいた……」
「グレープフルーツが入っているから、忘れずに食べるように……だろう?」
週に何回かは、一緒に食事を摂れないという生活。
一人で食事の時のため、或いは帰宅が遅くて料理の時間が取れない時のため、常に冷蔵庫と冷凍庫には作り置きがぎっしり詰まっている。

「あ、そうだ!キノコのソースが作ってあるので、ハンバーグには…」
「"それを掛けて食べて下さい。"……分かってるよ。」
あかねの言葉の先を続ける友雅だが、彼女はその場で立ち止まって、ぴしっと彼を指差す。
「わ・す・れ・な い で・くださいねっ?」
畳み掛けるように念を押す。
時間の不規則な生活だからこそ、食事のバランスは大切。だから休みの日くらいは、きちんと栄養素を摂ること!
「天使様の有り難い忠告だからね。ちゃんと守るよ。」
「帰ったら、きちんと食べたか確認しますからねっ?」
友雅は、思わず吹き出してしまった。
あまりに一生懸命な彼女の様子と、そんな彼女にここまで口煩く言われる自分の頼りなさ。
彼女よりもずっと年上のくせに、親に怒られてる子供みたいだな…。
そんな、苦笑いと微笑ましさの気持ちが交じる。

「ホントに、ホントに調べますよ!?」
「分かった分かった。残さず頂きますよ、天使様」
怒る彼女もまた可愛いから見て見たいけれど、今日は大人しく従うことにしよう。


「じゃ、行ってきます。」
靴を履き、姿見で格好を確認してから、玄関まで見送りに来た友雅を振り返った。
ベージュのカラーデニムに、ネイビーのチュニックというシンプルスタイル。
どのみち仕事場ではずっと看護服だし、あまり着飾る習慣はない。終業後に予定がある場合は、別だが。
「あかね」
「はい?何ですか?」
ドアのロックを外して、外に出て行こうとした彼女を呼び止める。
「さっきはあかねが私に食事のことを色々言ったけれど……私も一応念のため、言わせてくれるかい?」
??というような顔をして、あかねは背を向けた身体を元に戻した。

「あの患者からナースコールが来た時は?」
「……誰かに相談すること。呼ばれても、一人で病室にはいかないこと。」
「じゃあ、もしも本人から呼び出された時は?」
「無視すること。または、執事のイクティダールさんに話をすること。」
望んだとおりの答えが返ると、友雅は満足そうに微笑んで、あかねの髪を何度も撫でた。
「よく出来ました。きちんと守るようにね?」
「当然ですよ。橘先生のご機嫌が悪くなっちゃったら、そっちの方が困っちゃいますからね。」
病院にとっても、もちろん…個人的にも。
何せ仕事とプライベートの板挟み。他の人は帰宅すれば逃げられるけど…そうは行かないのだから。

「頼むよ?私は今夜一人で、不安にかられながら過ごさないといけないんだからね。」
そんなまた、大袈裟なことを言って…と、あかねは軽やかに笑ったが、それは冗談でも何でもない。
彼女のことを信じている。
けれども、相手は常識の通じない強引な男だから。
但し、彼の一番近くにいるイクティダールが、こちらに好意的になってくれた分、少しは気が楽になったが。

「不安解消のおまじない、してあげます?」
急にあかねは、ニコリと微笑んでそんなことを言った。
おまじないだなんて、まさに子供扱いだな…と苦笑いしたその時、彼女がくっとつま先立ちで背伸びした。
両手が頬に伸びて、顔が近付いて。
………一瞬、互いの息が塞がれる。

「どうですか?不安解消しました?」
「……いや全然効かない。ダメだな、逆に悪化した。」
「え?きゃ………っ」
スイッチは、いとも簡単にONになる。
たった1つのキスでさえ、動力となって。
背中に感じるドアの感触は、初夏向きな薄手の服をすり抜けて、少し冷たい。
けれど、真正面から受け止めた彼の唇は、夏の日差しよりもずっと熱かった。




「おはようございまーす」
ロッカールームに入ると、既に今夜の夜勤担当である看護師たちが、着替えを済ませて何やら話し込んでいた。
「あ、おはよ…元宮さん」
「おはようございます。」
すたすたと軽やかな足取りで、あかねは自分のロッカーへと向かった。

着替えを始めたあかねの後ろで、看護師たちは気付かれないよう、こそこそを耳うちをする。
「…元宮さん、今日は機嫌良さそうね…」
昨日は散々な状態だった。
午前中、ナースステーションに戻って来たときは、目を赤くして半無きで。
午後になったら、急遽外来担当に入った友雅相手に、妙につんつんと無視しているようで。
でも、この様子を見た限りでは……いつも通りの元気な彼女に見える。
「ということは…橘先生のご機嫌も、修復できたみたいね?」
友雅の機嫌は、あかね次第。彼女の行動ひとつで変幻自在。
あかねを巡って繰り広げられている、例の患者との冷戦状態を知らない者は、いまや極少数派だ。
たまに患者から『橘先生と患者さんのバトル、現在どんな感じ?』とまで尋ねられる始末。
ある意味、病院の名物になってしまった感もある。

かたや院内に留まらず、国内…更に海外にも顔が広い名医。ついでにルックスも、そこらのホストが土下座しそうなほど。
かたやオイルダラーの国の王族。第四子息ということで王位継承には遠いが、汲めども尽きぬ財産を持つ皇子。こちらもまた、金髪・碧眼の完璧な美を持つ容姿。
前述の彼と恋に落ちて、とことんまで骨抜きにさせて、ついにはゴールインというハッピーエンド。
そこに後から登場してきた他国の皇子が、あろうことか結婚(第二夫人)を申し込んでくる…なんて、全く知らない女性が聞いたら、羨ましくて卒倒するだろう。
「…でもねえ…」
彼女たちもまた、羨ましいという本音は少なからずある。
しかし、現実はそんなロマンチックなものではない。
「二人とも、カッコいいけどねえ…」
彼女たちは口を揃えて、はあ…と溜息をつく。
羨ましいなあ、と他人事で居られる方が、よっぽど気楽なのかもしれない。

「でも、どうにかなったみたいね…良かったわ」
もう一人の彼女も、うんうん…と、うなずく。
昨日言っていた"二人きりにしておけば、何とかなるでしょう"は、正しい治療法だったらしい。



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Megumi,Ka

suga