俺の天使に手を出すな

 第1話 (3)
わざと西館を選んだのには、理由がある。
殆どの研修生は、日当たりの良い東館の部屋で休憩を取っている。
裏庭の、研究室が多い西館を昼休みに使う者は、殆どいないからだ。
教授ではないけれど、長年この病院に勤めていれば、どの部屋の利用頻度が低いかくらい把握できる。
何せ、自宅で過ごす時間と病院にいるのとを比べたら、圧倒的に院内生活の方が長いのだから。

「それにしても、凄いですね…あの患者さん」
「実際に会うまでは半信半疑だったけれど、世の中にはいろんな人間がいるもんだねえ…」
がらんとした室内で、ぽつんと二人向かい合いながら、あかねと友雅は今朝の事を思い出していた。

「でも、私たち看護師の仕事って、あんまりないですよねえ…あれだけお着きの人がいると。」
打ち合わせであかね達に説明されたのは、毎朝代えのシーツとカバーとブランケットを執事に渡し、その代わりに古いカバーを受け取りクリーニングに出すこと。
検温は執事を通し、済むまで別室で待機すること。
あとは…緊急のコールが入った時に駆けつけることだが、その時も執事に確認を取ってから入室すること。
「何かここまで完璧な患者さんって、初めてですねえ…」
「セレブな人種の感覚は、さっぱり分からないな」
友雅の手の中にある、小さな缶コーヒー。
こんなコイン数枚で買えるものなんて、彼らは口にしたことなどないのだろう。

「とにかく、明日1日かけて検査をして、1日置いて結果が問題なければ…その日の午後にでもオペをするよ。」
入院期間一ヶ月予定の割には、手術に踏み切るスケジュールが早い。
しかし、複雑骨折などとなれば、治療もそうだが、更にリハビリにも時間を掛けなければならない。
手術は早めに済ませてから、あとは経過を長く見る方が良いとの判断だ。

「がんばってくださいね。」
「ま、手術自体はそれほど難しくはないから。そのあとは、患者次第だね。」
そう…問題は患者がどうやって、自分から治療するという感覚を覚えるか。
些細なことでも、召使いが行ってくれるというのが当たり前の彼だ。
だが、怪我を完治させるためのリハビリは、自分から動くという意志が必要になってくる。
果たして、そんな素直に行くかどうか。
執刀医として治療に当たる友雅としては、そういう内面的な部分も気がかりではあった。

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「おはようございます!」
次の日の朝。あかねは最上階にあるEX室を訪れた。
まず最初に挨拶をしたのは…受付の男性。
彼は患者の面々とは違って、オリエンタルな顔立ちをしている。
まるでエリート商社マンのように、朝からぴっちりとスーツにネクタイでそこに座っていた。
「えっと…シーツなどの交換に伺ったのですがー…」
「はい、御苦労様です。ただいま執事をお呼び致しますので、こちらで少々お待ち下さいませ。」
彼はそう言って、奥にある病室へ向かうために席を立った。

執事にしろ彼にしろ、そして患者のアクラムという男にしろ、日本語がペラペラ。
やはり育ちが育ちだと、国際交流なども必要になってくるだろうから、他国の言葉をマスターしなければならないのかもしれない。
そんなあかねはと言えば…片言英語と、うら覚えの韓国語に中国語。どれも"マスター"とはほど遠い。
「これからは、ちゃんと覚えないといけない時代だよねえ…」
日本の病院だからと言って、患者は日本人だけとは限らないのだから。
まずはコミュニケーション。
それが出来なくては、患者を勇気づけてあげることも出来ない。

友雅はといえば…仕事柄数カ国語は困らないみたいだ。
特に医療の歴史が長いドイツ語やオランダ語、勿論英語は出来て当たり前。
日常会話くらいなら、中国語なども理解は出来ると言っていた。
……いっそ友雅さんに教えてもらおうかなあ…。
そんな事を考えていると、少し開いた病室のドアの向こうから、耳慣れない言葉が聞こえて来た。
英語でもなくフランス語などでもない。
イントネーションか雰囲気からして、アラビア系の言葉のような…多分、彼等の自国の言葉なのだろう。
同じ国民同士の場合は、普通に自国語で会話しているようだ。
しかし、何を話しているのか分からないにしても、聞こえているその会話には、少し感情に乱れが有る。

何かがあった?
もしや…患者の容態に異変でもあったのでは。

"病室に入るときは、必ず受付を通して許可を得てから。"
頭の中に、お断り書きが浮かんだ。
EX室患者に許された完璧なプライバシー保護。
特別待遇の彼に対しては、ハードルも更に高くしてある。
けれど…病室の慌ただしい雰囲気が聞こえているのに、こうしてじっとしているなんて…出来ない。

「あ、あの…何かご容態に変化がありましたか?」
そっとドアから顔を出したあかねに、びくっと執事と受付係の男が振り向いた。
「いえ、別にたいしたことはございません」
執事はそう答えると、さっとあかねの身体を押しながら、部屋の外へと押し出して行こうとした。
しかし、ちらりと見えた病床の患者の顔色は、あまり良いとは思えなかった。

「あのっ、何か変わったことがあったんじゃないですか?」
「大丈夫です。旅にお疲れになったようで、少しだるいだけのご様子です。」
「でも!私たちは患者さんが、完全にお元気になって頂く為にいるんです!怪我の治療だけじゃなく、ちょっとした体調の変化に関してもです!」
必死になってしがみつくあかねに、イクティダールと受付の男は言葉を飲み込む。
「…体調も万全でなければ、手術時に負担も大きくなります。だから、少し容態がおかしいと思ったら、すぐ呼び出して下さい!急いで私、ここに来ますから!」
看護師になったのは、患者を元気にさせてあげたいから。
それは治療だけではなくて、気持ちの問題も含めて。
ただでさえストレスのたまる入院生活。だから元気な笑顔だけは欠かさずに、相手を思いやっていたい。

「有り難う御座います。では、簡単に症状をお伝えしますので、ドクターに連絡をお願いできますか」
「はい!すぐに手配します!」
あかねの熱心な説得に根負けしたのか、イクティダールは受付からメモを取り出すと、主の現在の症状をさらさらと書き始めた。
……うわ、漢字とかひらがなとかも、ちゃんと書けるんだ…。
癖のない綺麗な文字で、万年筆を走らせる。
見た目にも良さげな、高級感のある万年筆。
それでイクティダールは、しっかりとした日本語を書いた。
「では、よろしくお願い致します。」
彼はメモをきちんと折り畳み、それをあかねに手渡した。



「時差ボケの疲労から来ているんでしょう。特に深刻な容態ではないですよ、安心して下さい。」
あかねに連れられてやって来た友雅は、アクラムの診断に当たった。
頭痛や怠さという症状が見られるが、それほど酷いようでもない。
更に昨夜は眠れなかったと言っていることから、多分長旅の疲れやストレスも関係してのことだろう。
「リラックスを心がけて、少しずつ体調を戻されると良いでしょう。頭痛が酷すぎる場合は薬を処方致しますが、あまり無理しないことです。ゆっくりと気ままにお過ごし下さい。それが一番です。」
「承知致しました。お手数をおかけ致しまして、有り難う御座いました。」
診断を終えた友雅に、イクティダールは深く頭を下げた。
そして、隣にいるあかねに対しても、同じように丁寧に礼を言った。


「時差ボケが原因だったんですか…ちょっと騒ぎ過ぎちゃいましたか?」
「いや、相手はVIP中のVIPだから、神経過敏になるくらいが丁度良いよ。あかねの行動は適切だった。」
専用エントランスでエレベーターを待ちながら、二人はそんな話をする。
小さなステンドグラスがはめ込まれた天窓は、カラフルな色を白大理石の床に映していた。

「でも、あまりに一生懸命で必死なあかねを見るのも、ちょっとだけ面白くないのは事実だね。」
エレベーターに乗り込み、ナースステーションのある2Fと、資料室のあるB2Fのボタンを押す。
静かに降下していく中に二人きり。互いの距離は、少しずつ狭まる。
「少し嫉妬したくなるかな。患者とはいえ、他の男のことであんなに必死になってるのを見ると。」
「なっ…何をそんなことっ…先生が個人的な考えを持ち込んじゃいけな……」

少しだけ目を開けると、内側の鏡に映る自分たちの姿が見えた。
ぴったりと、身体と唇が重なっているのが恥ずかしくて、あかねは黙ってそのまま目を閉じた。


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Megumi,Ka

suga