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午後7時半頃になって、夕食の支度が出来たとの連絡が入った。
エレベーターに乗り17階に下りて、部屋の番号を頼りに廊下を進んでいくと、一番奥の部屋のドアに"TACHIBANA"のプレートを見つけた。
来客をもてなすための部屋があんな調子じゃ、住人の部屋はどんなゴージャス三昧なのか…とインターホンを鳴らす前から色々緊張した。
だが、いざ招かれて足を踏み入れてみると、意外にも彼らの部屋は落ち着いた雰囲気があった。
ゲストルームほど絢爛豪華じゃなく、白い家具が多いので明るく洗練されている。
キッチンには鍋やケトルのような、生活感を思わせるものがあるせいだろう。
「私だって、あんな部屋で毎日過ごすのは堅苦しいよ」
部屋の主がそう言いながら、森村のグラスに発泡酒を注いだ。
テーブルの上に並べられたディナーメニュー。
メインディッシュはこんがり焼いたハーブチキンソテー。グリーンサラダを中心に、野菜のピクルスなどのオードブルも数種類。
ジェノベーゼを塗ったバゲットトースト、スープは冷たいガスパチョ。
「おまえ、毎日こういう食事作ってんのかー?」
「うん。仕込みとか作りおきをしておいて、その都度ちょっと手を加えるだけなんだけど」
簡単そうに言うけれど、これだけ用意するのは大変だろうに。あかねだって仕事をしているのだから。
「自分で言うのも何だけど、結構マメな性格みたいなのよね、私って」
自覚はなかったのだが、家事をするのは嫌いじゃなかったようだ。
というか、昔は料理も趣味程度に留まっていて、掃除や洗濯は決して好きとは言えなかったのだけれど…。
「いつのまにか。てきぱき動くのが苦にならなくなっちゃってー」
「私は強制していないのだけれど、あかねが頑張ってくれるものだからね」
「だって、友雅さん面倒くさがって外で食べちゃおうとか言うじゃないですかっ。そんなことしてたら栄養偏っちゃうのに、全然考えないんだからっ」
突っ込まれつつも笑みを浮かべ、友雅はピクルスをつまみつつ発泡酒で喉を潤す。
…コイツら、仕事場と全然変わんねえ…。
病院の食堂でも診察室でも、彼らの会話はこんな調子。
自宅なら更にイチャつきまくっていると思っていたけれど、ON/OFFの差があまり感じられない。
小言を言うあかねに、まったく堪えていないマイペースの友雅。
それでも深読みをすれば、彼女の小言も友雅を大切に考えているからこそ。
小言が多いほど、彼を気遣っているということ。
まあこれくらいのことなら、見せつけられているという感じはしないか。
「ホントにね、昔はびっくりするほど何にもなかったのよ」
あかねが少し声のトーンを強めたので、森村は我に返ってグラスを手に取った。
「目につくものって、カップとかグラスとかしかなくってね。やかんと小さいお鍋も使った痕跡はなくて」
「ああ、最初にあかねを連れ込んだ時は、そんな感じだったかもしれないね」
----------ぶほっ!
発泡酒が喉を通り抜けようとしたところで、身体が予想外の反応をして思わず噴き出しそうになった。
「大丈夫〜?」
咳き込んでいる森村に、あかねはペーパーナプキンを差し出す。
いや、あまりにもナチュラルに耳を疑う言葉を聞いたので。
言った本人は、全く自覚していないようだが。
デザートのシャーベットも食べ終え、夕飯が終わると最初に立ち上がったのは友雅だった。
テーブルの上にある食器をまとめ、それを持ってキッチンへ。
「後片付けは私の担当なのでね」
頼まれたわけではないけれど、自然とそういう分担になったらしい。
だが、おそらく最初に言い出したのは友雅の方だろう。
彼もまた、あかねのことを第一に考えているタイプだから。
友雅が後片付けをしている間に、あかねは洗濯物を片付けに行く。
一人だけ手持ち無沙汰になってしまったので、森村は友雅の手伝いを申し出た。
「お客様なのだから、ゆっくりしていて良いのだよ?」
「いや、こっちこそゴチになっちゃいましたんで、これくらいは」
他人の家でふんぞりかえる度胸はないし(一応上司の家だし)、じっとしているのも性に合わない。
かと言って、さっさと部屋に戻るのは失礼な気もするし…何よりあの部屋じゃ落ち着かない。
友雅が洗い終えた食器を、丁寧に黙々と拭き上げる。
「天使様の料理は、森村くんの口には合ったかな」
「え?あ、すげえ美味かったッス!」
急に振られたので焦ったが、もちろんウソでもお世辞でもない。
普段こういう家庭の味に触れていないから、久しぶりにちゃんとした夕飯を食べた気になった。
「橘先生って、食べ物で好き嫌いとかあるんすか?」
「特にないよ。アレルギーとかもない。食べる頻度の差はあるだろうけれど」
「あー、それならあかねも献立考えるのは楽ですね」
食自体にも固執しない性格みたいだし、それに加えて偏食だったら大変だ。
「あかねのおかげで、これでも随分マトモに食べるようになったんだよ」
こういう業種だからハードワークが多くて、帰宅しても自分で何かやろうなんて気力は残ってない。
それでも何か食べなくてはと思って、外に出るか或いはマンションのサービスを頼むか。最悪なときは、カロリーナントカといった栄養補助食品のみということも少なくなかった。
「こう言っちゃなんですけどー…その、前の彼女とかは料理作ってくれたりしなかったんすか?」
「…どうだったかな。用意してくれた人はいたような気もするけれど」
いたような気がするという言い方は、過去に何人も女性がいたから記憶が曖昧というわけですか…そうですか。
ま、そーだわな、橘センセーだもんな。女の一人や二人、三人、四人…不自由しなかったんだろーなー…。
同じ男としてまったくホントに、羨ましいやら妬ましいやら。
「しかし、あかねは他の人と違って厳しいからねえ」
食器を片付け終わると、友雅は冷蔵庫のドアを開けた。
冷えた缶ビールをふたつ取り出し、そのうちひとつを森村に手渡す。
「用意されたものを残したら、さっきのようにお叱りを受けることになるし。」
「そりゃ怒るっしょー。あいつ先生の健康を考えてるんでしょうし」
「まあ怒られるのも、良いものだけどね」
………あー、さらっと言ってのけたわ…。
「先生、マゾっすか…」
「ふふ、どうだろう。でも天使様のお咎めなら、悪い気はしないな」
多分ホントにマゾだ、この人。
前々から思っていたけれど、間違いなくマゾだ。
どんな形であれ、あかねに構ってもらえれば満足しているっぽい。
「とは言え、怒られても私にはプラスの面がたくさんあってね…」
何だか嫌な予感がする。この、妙に艶のある表情。
こういう状況で彼が言いたいことの内容は、大概………。
「夕飯より朝をしっかり食べるよう勧められたのだけど、起きがけは面倒でスルーが続いてね」
「逆じゃないっすか。それじゃ怒られますよ」
「そう。で、ついに見かねて『じゃあ私作ります』って言ってくれるようになるのだよね」
ちゃんと食べるか見張っていますから、とか言って、朝早くから気合いを入れた朝食を用意してくれる。
ということは、朝にこのキッチンに立っていなくてはならないわけだ。
つまり。
「堂々と朝まで引き止めることが出来るし、あかねの食事も頂ける。これは悪くないだろう?」
「…最初から企んでたんっすか…」
呆れ気味に森村が言うと、友雅は意味深に笑うだけで缶ビールに口を付ける。
まったく…この人の頭の中で、どれくらいあかねの存在が占拠しているのか。
日頃から十分承知だったが、こうしてプライベートの姿を目の当たりにすると、つくづく半端ない入れこみようだ。
ゲストルームは身分不相応極まりなくて落ち着けないが、ここに長居していたら更にデレられそうな予感。
エスカレートしないうちに退散した方が良さそうだ、と森村は思った。
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