天使様の願いごと

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それではこの、情けないというか呆れるようなコトの起こりを、一応ここで簡単に説明しよう。

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「元宮さん、橘先生たちの帰国って今日だったよね?」
ナースステーションの中にいたあかねに、カウンターから身を乗り出して同僚の看護師が声を掛けた。
友雅は学会の出張で、同期のドクターたちと共に一週間ほど台湾へ行っていた。
「一週間も一人で寂しかったでしょー」
「うーん、でも毎日電話とメールはあったから…」
看護師たちは顔を見合わせ、外国人みたいに両手を広げてゼスチャーをする。
電話だけでは飽きたらず、メールまで送ってきているのか。しかも毎日。
院内で彼らの関係は、もうすっかりお馴染みのところである。
けれどもこうして明け透けと、所謂ラブラブな関係を見せびらかされてしまうと、冷やかすとか照れるとかじゃなく、やや呆れもする。

まあ、それでも名の知られた腕を持ち、ドクターにしとくには惜しいくらいのルックスの彼を、独り占め出来るあかねには羨望の目も途絶えない。
「あんなに橘先生を盲目にしちゃうなんて、良いなー」
「べ、別にっ、そういうわけじゃ…!」
後輩の看護師が指をくわえて言うので、さすがにあかねも気恥ずかしくなった。

そんなところへ。
「ええっ?橘先生?」
廊下の真ん中にいた看護師が、エレベーターホールの方を指差す。
あかねも含めて中にいた者たちが、そちらを覗き込んで目を向けると、ちらに向かって歩いてくるのは…確かに友雅だった。
「どうしたんですか先生。帰国してすぐに、何か会議ですか?」
「いや?みんな空港で解散。そのまま直帰したよ。」
だとしたら、何故またここに?
彼だってそのまま、自宅に帰れば良いものを。
「もしや、部屋の鍵とか無くしちゃって、中に入れないとか?」
「ええっ!?それ、マジですか!?」
思わずあかねが我を忘れて、ナースステーションから飛び出してくる。
暗証番号と通常の鍵とで、Wでの防犯システムを備えた玄関のドアは、最悪鍵がなくてもナンバーで開けることは可能だ。
しかし、鍵を紛失したとしたら、それをどこの誰が拾うかも分からない。
いざとなったら、鍵を取り替えねば。

「ああ、そうじゃないよ。鍵は、ちゃんとここにある」
ポケットに手を突っ込んで、友雅はキーケースを取り出した。
車のキーに、職場のロッカーの鍵、そして銀色のキーは自宅の鍵。それはあかねが持っているものと、全く同じだ。
「何だ、びっくりさせないでくださいよ…」
ホッと胸をなで下ろす。
が、それじゃあ何故友雅は、家に帰らずここに来ているのか?
「ん?もうすぐ終業時間だから、一緒に帰りたいと思ってね。」
そう言って、にっこりと微笑んで。
見つめる先には、愛する妻の姿しかない。

「……それじゃー、私たちは失礼しまぁ〜す」
急にさーっとギャラリーが、ナースステーションの中に吸い込まれていく。
通り過ぎる時、背中をぽん!と意味深に叩く者が数人。
あっと言う間に周囲から人影が消えて、広い廊下にはふたりだけとなる。
「待っていても良いよね?」
「あ、はい…。」
真っ直ぐに見つめられる瞳は、やけに甘い眼差しをしている。
それが自分一人に捧げられているのだから、どきどきするのは仕方ない。
「じゃあ、一階のカフェで時間潰しているよ。終わったおいで。」
彼はそう言い残し、上がってきたばかりのエレベーターホールへと、再び戻って行った。

「相変わらずお熱いようで〜」
びくっとして振り返ると、ガラス扉の向こうから数人の看護師が眺めている。
一様に皆にやにやして、明らかにその表情は冷やかすときと同じだ。
「今夜はゆっくり楽しんでねー。でも、明日も仕事なんだから、疲れて出勤はしないでねー」
「な、何考えてんのみんな!!!」
カーッと赤面するあかねの頬を、笑いながら皆が眺める。

ま、こんな風にはやし立てられるのは、比較的日常茶飯事のこと。
これくらいのことで、あかねと友雅が仲違いするわけがない。
問題は、そこから先のことだった。




あかねの勤務が終わり、二人で一緒に帰宅の途に着いた。
旅の疲れがあるだろうからと、運転はせずにあかねのPASSOで帰った方が良いと言ったのだが、荷物が多いからということで、結局彼のBMWで帰ることになった。
本格的な夏が近いハイウェイは、渋滞が一日中続いている。
海岸線に沿ったシーサイドラインは、海へ行く者たちの行き来が増えて、特に混雑が激しい。
「道、混んでますねえ」
「一般道に下りてしまった方が良いかもしれないね」
少し距離は掛かるが、こういう時は急がば回れ。
次のインターで高速を下りて、別の道を辿って帰ることになった。

しかし、一般道もそれなりに混雑が広がって、スムーズとは言えない進み具合。
「あかね、いっそのこと、どこかで夕飯食べていこうか」
のろのろ進む車のハンドルを握りながら、友雅が持ち出した提案。
「これじゃあ、少し時間を置いて流れを見ないと。だったらその間に、食事でもしないかい?」
「んー…そうしましょうか」
月に何度かの夕飯は外食で、と決めていたのだが、ここ最近彼の仕事が多忙を極め、外でのディナーは御無沙汰だった。
正直言って料理の支度も、たまにはちょっとサボりたくなるのが本音。
「良いコース料理の店があるんだ。そこに行こう。海のすぐ近くだから景色も良いと思うよ。」
ふたりで久し振りの外食。
一見、何てことない幸せな光景に思えるだろう。
そのはずだったのだが……実はこれが今回の仲違いの原因だったのだ。


海岸線を下ってゆくと、白い建物が見えてきた。
浜辺に向けて張り出したテラスから、どこまでも広い海が望め、地鶏や名産地の和牛を使った、本格的なフランス料理のコースが揃う。
デザートはあかねの好きそうな、十種類以上のプチフールのバイキング…等々。
文句なしのメニューに、あかねはもちろんご満悦。
すべてしっかりとたいらげて、ご機嫌だったのだ…が、その表情が変わったのは、友雅が精算をしていた時のこと。

"ありがとうございました。ごゆっくりどうぞ"
店員の言葉が、妙だった。
"ありがとうございました"は理解出来るが、普通"ごゆっくり"とは、入店した時に言う言葉じゃないのか?
精算が済んだあとでは、ちょっと場違いな気がする。
首をかしげているあかねの隣で、友雅は釣り銭を受け取った。
が、それと同時に差し出されたものがあった。

ルームナンバーの書かれたキー。
「お部屋は507号です。」
「…えっ?」
唖然としているあかねをよそに、彼は鍵を取り上げる。
そして彼女の手を取り、エレベーターへと進んでいった。



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Megumi,Ka

suga